9. 
「あの頭のおかしい男が、縄をほどいて逃げたうえ、今菊千代と会っていると言うのか。俺はそんなことの為に菊千代をここへ連れてきたのではないぞ。皆、なにをやっていた」
 仕事を終え帰宅した兵衛を出迎えた屋敷の使用人たちは、汗を流しながら深々と頭を下げ続けた。一見穏やかな人柄に見える兵衛の丸顔も、今日は、怒りの形相で鬼のようだった。目がつり上がり、唇は不快感を隠すことなく歪んでいる。
「あの気狂い男の実家から連絡は」
「まだ何もごぜえません」
「やはり見捨てられたか。あれでは一族の恥さらしもいいところだからな」
 兵衛が使用人たちを引き連れて廊下の途中まで来ると、複数の人間の泣き叫ぶ声が耳に入ってきた。兵衛の顔が一段と険しくなる。
「あやつめ。なさけをかけてやろうと思ったのに、人の屋敷で女を泣かすとはもう許せん。今すぐ番所へ突き出してやる」
 兵衛は足を速めた。襖が開いたままになっていた部屋へ――
「なっ!」
 部屋の入り口から中を見た兵衛は絶句した。
 菊千代に貸した十二畳ほどの座敷は修羅場と化していた。室内にいたのは、菊千代姉妹と小梅、佐之吉、他にはこの家の使用人の女性と男性が一名ずつ。それから、三助。
「姐さん、姐さんっ……しっかりしてください。死んじゃいや」
 泣き叫ぶ小梅は、膝にぐったりした菊千代を抱えていた。菊千代の目は閉じている。彼女の左頬には殴られたような赤黒い跡がはっきりとついていた。その上、前髪の一部が眉あたりで無残に切り落とされ、畳に散乱。小梅の横に座り込んでいる民子も号泣していた。
「おいっ、どうしてこんなことになっている」
 佐之吉は女性たちの背後に座り込んで、大声で泣き続ける二人を落ち着かせようと後ろから声をかけていたが、兵衛の怒鳴るような声に、ひっ、と振り向き、その場にひれ伏した。
「申し訳ごぜえませんでした。俺が付いていながらこんなことに」
 兵衛は怒りの溜息を吐きながら部屋全体に目をやった。
 畳に飛び散っている赤。転がっている血濡れたかんざしと匕首。小梅に抱きかかえられている菊千代のすぐ横には、白目を剥いて倒れている三助。彼の手には黒く長い菊千代の切られた髪が巻き付いていた。
 そして、三助の喉の一部には穴が開き、そこからあふれた多量の血が辺りを染めていた。小梅も民子も佐之吉も、着物は血まみれになっている。
「菊千代の怪我は」
「三助様が顔を殴って首を絞めたんです」
 小梅が答えると、兵衛は座り込んで菊千代を受け取り、抱きしめて頬を寄せ、息があるかどうか確かめた。
「息はあるな。しかし、こんな病人相手に、首を絞めて髪を切るとは……すぐに顔を冷やす用意をしろ。そやつは」
「やっと死んで静かになってくれやしたよ」
 ついさきほどまでそこでのた打ち回っていたという佐之吉の説明に、兵衛は舌打ちした。
「この屋敷でこんな騒ぎを起こしてくれるとは……こやつ、真の世間知らずよのう。この兵衛を怒らせるとは、よほど命を捨てたかったらしい」
 一同はうつむいたままその場で固まっていた。材木問屋の杉屋兵衛と言えば、江戸の商人の中で五本の指に入る有名人。材木関係の他に金貸し業も営んでおり、広い人脈を持っている。財を持ちすぎているこの男に睨まれれば、江戸で暮らしていけなくなるどころか、この世から密かに消される可能性も否定できない。そんな男の屋敷内で騒ぎを起こすこと自体が無謀で狂気じみていた。
 小梅が、あっ、と声を上げた。
「姐さん」
 気を失っていた菊千代が薄く目を開けた。兵衛がやさしく声をかけた。
「安心しろ、やつは見ての通りだ」
 菊千代は首を回して、ひっくり返ったまま死んでいる三助を見ると、身を震わせて泣き始めた。



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