8. 
 兵衛の別宅の門から玄関までまっすぐ延びている道には、白く細かい石が敷き詰められていた。ジャリ、ジャリ、と足を進め、二間ほどの幅の玄関に足を踏み入れると、すぐ横の廊下に民子が座って待っていた。
「おねえちゃん!」
 民子は立ち上がり、笑顔で姉に飛びついた。菊千代はよろめいたが、民子につかまるように腕を伸ばし、妹をしっかり抱きしめた。
「民ちゃん、元気そう」
 菊千代は廓言葉も忘れ、妹の肩に顔を埋めてほほ笑んだ。
「おねえちゃん……少し痩せた? 病だって?」
「そんなのどうでもいい。民ちゃんに会えたから、もう治った」
 こうして二人が並ぶと、姉妹はとてもよく似ていた。面長の顔、切れ長の目、小さめの唇、大きくも小さくもない体格。民子を見つけた兵衛が驚いたのも無理はないと小梅は思った。
 兵衛は、夕餉まで仕事へ行くと言い残して出かけ、姉妹を二人きりにしてくれた。

 姉妹は案内された日あたりのいい縁側に座布団を置いて、それぞれのこれまでを語り合った。たった二人きりの姉妹。両親もいない今、近い肉親はお互いしかない。
「民ちゃんにね、どうしても話しておきたいと思ったの。三助さんのこと」
「あの人、さっき、ここへ来て騒いでいた? 騒ぎ声でわかったけど、なんであの人がここにいるの? あの時に、ねえちゃんとのことは破談になったはずじゃあなかったの?」
「勝手に追いかけてきただけ。あいかわらず気持ち悪くて嫌な男。民ちゃんは知らないだろうけど、父ちゃんも母ちゃんもあの男に殺されたようなもの」
 驚いた顔をした民子に、菊千代は説明を始めた。
「わっちが吉原へ身を売ることになったのもあの人の家のせい。元はと言えば――っ」
 菊千代は背を丸めて咳き込んだ。
「苦しいの? 横になりなよ。あたしの膝に頭をのせていいから」
「ありがとう。こんなに長く起きていたのは久しぶりで」
 民子は苦しそうな姉を無理やり自分の膝枕で横にならせた。
「ふふ、病になっていいこともあるねえ。こんなところで民ちゃんに膝枕をしてもらえるなんて思わなかった。母さんの膝みたい。あったかくて」
 菊千代は気持ちよさそうに目を閉じ、話を続けた。
「これはね、女衒(ぜげん)から聞いた話だけど……三助の父さんが、三助と私の縁組を考えたんはね、うちの店を乗っ取るためだったって」 
 呉服の西尾屋をやっていた三助の父が、次男の三助を使って、菊千代たちの生家、喜来屋を乗っ取ろうと画策。菊千代たちの父は、それを知らずに同じ呉服屋同士協力し合って商売を広げて行こうと考え、向こうから持ちかけられた菊千代の婚約を承諾したが、まんまと騙され、いつの間にか借金の保証人にされて喜来屋は倒産。菊千代たちの父は首を吊り、母も心労で床につきがちになり、半年もしないうちに逝った。三助は婚約関係が解消されてからも菊千代の前に現れてはあれこれ命令し、両親を亡くして困っている姉妹の元に、どこからか女衒を連れてきた。
「それでねえちゃんが吉原に……自分で吉原に行ったって聞いたから、きれいな着物を着たかったのかと思ってた。吉原って、出入りの制限はあっても、毎日お酒が飲めて、しっかりご飯を食べさせてくれるところでしょう?」
 妹が抱く一般的な吉原の幻想に菊千代は苦笑いしたが、詳しい説明はしなかった。
 何も知らない妹に吉原の現実を説明したとて何になるだろう。こうして外出して妹に会ったこと自体、普通は考えられないことなのだから。
「今だから言うけど、あの男が保護者面して女衒にわっちを売った。民ちゃんも、あの時あやうく売られるところだったけど、親戚のおばさんがひとりだけなら一緒に住んでもいいって引き取ってくれたから助かった」
 その叔母のところへ菊千代の身売り金の一部が渡ったことは、菊千代は知っていたが黙っていた。叔母は、民子を、親戚の娘としてではなく奉公人として引き取っただけでなく、菊千代を売った金を、三助と分け合った。
「悪いのは全部三助の一族だから」
「そうだったの……知らなかった」
「民ちゃんは饅頭屋の若旦那の女房だって? 見初められたなんて……兵衛様からそれを聞いて、どれほど安心したことか。民ちゃんもどこかへ売られてしまったんじゃないかと心配していたの。三助と結婚することにならなくてよかった。あんな疫病神、さっさと死ねばいいのに、わっちの方が持ちそうにない。髷を切られたみっともない姿になっても犬みたいにどこまでも追ってくるなんて気持ち悪い。ああ、口惜しい……わっちは病気で死んでいくのに、あの男は生き続ける。どうにかして復讐してやりたい……」
 菊千代は、疲れてしまったようで、話は途中でとぎれ、妹の膝に頭を預けたままうとうとし始めた。
 民子は、姉の寝顔を見つめた。
 自分に顔はそっくりなのに、非の打ちどころなくなんでもできすぎる姉だった。そんな姉にあこがれを抱くと同時に強く嫉妬し、反抗し、何度もけんかした。その姉がすっかり弱って、自分の膝で寝息を立てている。赤ん坊のように無防備に。
 民子は姉の髪をそっと撫でた。それでも姉は目を覚まさない。
 ――おねえちゃんは、本当に重病だ。
 気持ちよさそうな姉を起こすことは気が引けたが、そろそろ夫の元へ帰らなければならない。家を空ける約束は夕餉の時間まで。ぐずぐずしていたら秋の日が暮れてしまう。
 日が傾き、徐々に暗くなってきた部屋は冷えこみ始めた。このままいつまでもじっとしているわけにはいかず、民子は眠っている姉の頭を座布団の上にそっと下ろすと、できるだけ静かに廊下へ出た。姉にかけてやる夜着を借りたい。
 廊下には誰もいなかった。菊千代に付いてきた松川楼の若い男女は、兵衛が気を利かせて別室で待っているよう指示したため、姿は見えず、どの部屋にいるかわからない。声を出せば誰かは現れそうだが、寝ている姉を起こしてしまいそうな気がして、大声で人を呼ぶのをためらった。いくつもの閉じられた襖(ふすま)が並んでおり、誰かの個人部屋かもしれない場所を無言で勝手に開けるのも気が引けた。屋敷内のどこかに人はいるはずだが、皆、どこにいるか気配がない。この屋敷は広すぎる。別宅とは思えないほどに。
 耳を澄ませつつ長い廊下を歩きだした民子は、はっ、と足を止めた。
 ひとつの部屋から女性の啜り泣きが漏れてくる。それをなだめるような男性の声。しかし、声が小さすぎて会話は聞き取れない。
 想像がめぐる。ここに兵衛の妻が暮らしているのかもしれない。兵衛は仕事で出かけると先ほど言ったが、姉に気を遣ってそう言っただけだったのか。やはり、兵衛にとって、姉はしょせん遊女。
 一瞬そう思ったが、よく聴けば、兵衛よりももっと声が若い。となると、姉に付き添ってきた若い男女か。死にそうな姉を思い、泣いているのかもしれない。姉のための夜着を借りるのは、この部屋にいる取り込み中の泣き人に頼まなくても、他に誰かいるはずだ。
 民子は、急ぎ足で静かな廊下をさらに進むと、一番奥の部屋から男の話し声が聞こえてきた。
 声の主は、何かブツブツ怒っている。聞き覚えのある声で誰だかわかった。
 ――さっき捕まった三助さんだ。
 ならば、この部屋には他にも人がいるだろうと思い、襖の外から声をかけた。
「あのう」
 いきなり襖が勢いよく開かれ、驚いた民子は悲鳴を上げた。
「俺をこんな目に合わせやがって」
 青筋を立てた三助が立ちはだかっていた。八畳ほどの板の間の部屋の中には、他には誰もおらず、食いちぎられてほどかれた荒縄が散乱していた。三助は、民子の顔を見て勢いをくじかれたように口をぽかんと開けた。
「おお? てめえは、民子じゃねえか。久しぶりだなあ。見れば見るほどおせんにそっくりだ。なんでこんなところにいるのか知らねえが、あいつはどこへ行った」
「おねえちゃんは眠ってしまったから――きゃっ!」
 全部言う間も与えず、三助は民子の着物の胸元をつかんだ。
 民子は全力で抵抗しようとしたが、三助はむと、強引に引きずって廊下を進み始めた。
「おせん! どこにいやがる。出てこい。さもないと、妹を絞め殺してやる」
「やめてください、やめてってば!」 
 廊下での大声に、先ほど男女の声が聞こえていたあの部屋の襖が開き、佐之吉と小梅が出てきた。
「民子さん!」
「この人を何とかして。杉屋のご主人はまだお戻りでないの? 誰か呼んできて」
「だまれ。何が杉屋だ。あんなのただの成り上がりのくせに、偉そうに俺を殴った上、縛り上げやがって」
 三助は大声を出し続け、足で次々襖を開いた。
「おせん、聞こえてるだろう。今すぐ出てこねえなら、民子をおめえの代わりに今ここで犯してやる」
 騒ぎを聞きつけて、この家の飯炊き女やこの家の管理人と思われる中年男性がやってきて口でなだめようとしたが、民子が捕まっており手が出せない。三助は聞く耳持たず、民子をつかんだまま騒ぎ続ける。
 菊千代がいる部屋まであとわずか、という時に、襖が内から開き、菊千代が姿を現した。
「わっちならここにおりんすよ。何用か存じませぬが、話は伺いやしょう。妹を離しなんせ」
 菊千代の背筋はしゃんと伸び、多くの男を魅了したぱっちりとした二重の目は、刺さるほど強く三助を睨みつけている。町民と変わらぬ薄化粧でも、それは売れっ子だった誇り高き花魁の姿だった。
「おう、そこにいたか」
 三助はあっさり民子を離すと、うれしそうに笑い声をあげながら菊千代に近づいた。
「姐さん、いけない! 何されるかわからない。さっきだって」
 小梅が叫んだが、菊千代は落ち着いていた。
「大丈夫でありんす。この人はわっちと話があるそうだから、少しの間だけ二人きりに。何かあったら呼ぶからすぐに来てくださいまし」
 菊千代は心配する一同に会釈すると、先ほど民子と語らっていた部屋に三助を招き入れ、襖を閉めてしまった。



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