10. 
 佐之吉は、ぼそぼそした声で事情を説明した。
「姐さんが大丈夫と言ったので、三助の旦那と二人きりにしちまいました。でも、俺たちはいつでも飛び込めるよう廊下で様子を伺っていました。姐さんに乱暴を働いたばかりの男と二人きりなんて危険すぎる。しばらくの間、二人は静かに話していて……話、と言っても、三助の旦那の方がひとりでしゃべっている感じでしたが」
「何の話をしていたのか」
「三助旦那の最近の状況です。金がねえ、やり直してぇいのに誰も貸してくれねえ、実家から縁を切られて困っていると。そんな話をぐずぐず並べていたと思ったら、急に」
「またしてもこやつが菊千代を抱こうと襲い掛かったか」
 佐之吉は頷いた。
「懲りない愚か者め」
「姐さんの悲鳴が上がったんで、廊下にいた俺たちはすぐに襖を開けたら、旦那はすごい形相で匕首を抜いて、俺たちを威嚇しやした。姐さんは抵抗して自分のかんざしを旦那の首に刺したけど、かすっただけで、旦那が余計に怒っちまった。旦那は大声を上げて姐さんの髪を引っ張って、匕首で髪を切ると、ほどいた腰ひもを姐さんの首に……それで俺、匕首を取り上げようとして旦那を後ろから」
 佐之吉は畳に額をこすりつけた。
「申し訳ごぜえませんでした。俺、必死で、あの人を姐さんから引き離そうとして、はずみで殺しちまった」
「違います! 佐之吉さんは悪くないんです。三助旦那を刺し殺したのはあたしです。菊千代姐さんを苦しめていたから、懲らしめてやろうと思って。あたしが隙を見て匕首を取り上げて首を刺してやりました。あたしは人を殺しました。今すぐ番所へ突き出してください」
 佐之吉は、はっと顔をあげた。
「小梅ちゃん! おかしなことを言うな」
 民子が口をはさむ。
「三助さんを刺したのは本人ですよ。おねえちゃんを刺そうとして、もみあっていて、気が付いたら倒れていて……」
 兵衛は眉を寄せたまま皆の話を聴いていたが、「誰が息の根を止めたかはもういい」と制し、屋敷内の全員をここへ集めた。
「この狂った男は番所に突き出してやるつもりだったが、それはできなくなった。とにかく、この男がこの屋敷で怪死したことだけはなんとしても伏せねばならん。皆もその理由は想像できると思うが、ここでのことの責任を問われてこの兵衛が捕まるようなことがあれば、ここにいる全員、行くあてがなくなると思え。俺はこんな男のためにお縄になるのはごめんだ」
 使用人たちは顔を引き締めて話を聴いていた。兵衛は江戸では有名な金持ち男だけにねたみの目でみる者も多い。たとえ別宅でも兵衛が所有する屋敷内で殺人があったとうわさが広まれば、それにつけいるやからが兵衛を陥れようとすることは目に見えている。最悪の場合、捕まったついでに罪をでっちあげられ財を没収されるだけでなく、処刑される恐れもある。
 兵衛は、眉間にしわを寄せたまま、次々と指示を出した。
「全員が力を合わせ全力で隠蔽せよ。この男の躯は誰かと心中したように見せかけて捨てるのだ。だれか別の女の髪をつかませておけ。誰の髪でもよい。どこかで探せ」
 庭師の男がたずねた。
「髪ならばどこからでも入手できやすが、躯はどこへ捨てやしょうか」
「そうだな……この家の庭に埋めておくわけにもいくまい。誰にも見られていないことを確かめた上で、川へ流してくれ。いいか、何度も言うようだが、このことを口外する者は、命はないと思え」
 使用人の中年女性が問う。
「躯が見つかって取り調べが来たら、どうしたら……」
「知らないと言えばよいだけだ。今日、菊千代はここには来ていない。松川楼の付き添い人たち、民子さんもだ。それでよかろう。すぐに打ち合わせをする。松川楼の内儀、お藤をここへ呼べ」
 兵衛の使用人たちは慌ただしく動き、三助の躯は男たちの手によって屋敷から密かに運び出されていった。
 汚れた部屋は驚くほどの速さで片づけられた。手際よく畳がめくられ、次々と庭に運び出されていく。
 兵衛は、ぼんやりと作業を見守っていた小梅に近づくと早口で耳打ちした。
「思いは叶ったか?」
「えっ……」
「その顔ならば、願いは叶ったようだな。これだけは覚えておいてもらおう。もしも今日のここでの事件を一言でも誰かに漏らしたならば、俺は、おまえがこの屋敷で誰と何をしたか、松川楼内にもらすぞ」
 小梅は真っ赤になって何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
「俺が何を言いたのかがわかっているならばよいのだ。皆、運命はつながっている。ここにいたひとりでも余計なことを口走らないようにしたい」
 小梅は、楼内では決して見ることがなかった兵衛の恐ろしい部分を知ってしまった気がした。さりげなく脅しをかけた口止め。この要領のよさ……材木問屋を大きくしただけのことはあるのかもしれない。どうやら、女好きでやさしいだけの金持ちではなかったようだ。
「あとは……困ったのは菊千代のこの顔か……」
 菊千代の頬には殴られた痣が赤黒く残り、首にも紐跡が付いてしまっていた。
「これではあの男の躯がすぐに見つかったとき不審に思われる。菊千代の負傷は隠さねばならん」
 兵衛はまだ震えている菊千代を別室で寝かせると、民子に、しばらくの間、菊千代の代わりを務めるよう命じた。民子はそれには不服な様子で、少々きつい言い方で返した。
「無理です。今日だって夕餉までには帰宅すると言って出てきました。帰りがこれ以上遅くなったら困ります」
「悪いとは思うが、理解してもらうしかない」
「でも……夫に叱られます」
「身代わりができないなら、民子さんを三助殺害犯として突き出してやってもいいが、それでは婚家が困るのではないか?」
 きらりと光った兵衛の目に、民子は言葉を失い、兵衛の顔を凝視した。愛想がよかった初対面のときとは雰囲気が違う。兵衛は有無を言わせない目つきで民子を見下ろしている。
「むろん、身代わりをすれば婚家の饅頭屋には迷惑がかかることはわかっているから、それなりの口止め料は支払うつもりだ。どうだ? 三助殺しの罪を着るよりはよかろう」
 ――この人は。仏のような丸い顔をしているのに中身は。
 民子は心の中で唇を噛んだ。この男ならば、金の力で人を罪びとにしたて上げることなど簡単かもしれない。
「……承知しました。おねえちゃんになりすませばよいのですね? いつまでですか」
「取り調べがすべて終わるまでだ。三助の躯がいつまでも見つからなかったら好都合だが、それはわからん。そのときは、菊千代の顔の傷が癒えて、前髪が伸びて怪しまれなくなったら交代だ。婚家のことも、菊千代のことも心配するな。俺が責任を持ってしっかり面倒を見てやる」
「あの……寮で寝たふりをしているだけならできますけど、おねえちゃんは近いうちに妓楼へ戻るって言っていました。おねえちゃんの代わりといってもすべてを代わることは絶対に無理ですから」
「松川楼へ帰ると言っても、一時的に戻るだけだろう。その時はうまく客を振って、小梅の披露目が終わったなら、すぐに松川楼の寮へ戻ればよいではないか」
 民子に選択肢はなかった。
 やがて、松川楼のお藤が番頭と共に到着。兵衛は二人に菊千代の怪我を見せて入れ替わりの件を説明し、菊千代はこの屋敷で休ませる間、民子の方を菊千代として連れ帰るよう頼んだ。
「お藤よ、この条件が飲めない場合は悪いが、松川楼は終わると思え。三助殺しの下手人をかくまったと通報するぞ」
 兵衛は驚き顔のお藤にも容赦なく威圧的な態度をとり、入れ替わりの件を承諾させた。
 民子が戻るときの手順など、すべての打ち合わせが終わったときには、すでに夜になっていた。血の付いた着物を着替えた民子、小梅、佐之吉の三人は、見世の刻になり大急ぎで松川楼へ戻っていったお藤と番頭とは別に、闇にまぎれて兵衛の別宅から去り、寮へ向かった。



 <前話    目次   >次話       ホーム