3. 
 菊千代が顔を汚された躯になって発見された日から二日前、三助事件捜査のため、松川楼をひとりで訪れた同心、近江清太郎は、楼の内所に上がり込んで内儀のお藤と二人だけで話をした。その時には菊千代が無残な姿で死ぬなどと誰も思っていなかった。


【霜月九日、菊千代花魁が亡くなる二日前】
「ある男がおかしな死に方をした件を調べている」
 清太郎は、死んだ男が三助であることは最初は伏せていた。
「八丁堀の旦那がおひとりでお越しとは珍しいこと。調べが済んだ後、せっかくおいでなすったのだからついでに遊んで行ってくださいな。うちはいい子ばかりですよ」
 お藤は普通の客を扱うときと同様に、愛想よく笑って見せたが、強面の清太郎はにこりともしなかった。
「他のやつらの手が空いていなかったからひとりで来ただけだ。西尾屋三助という男を知っているな? 菊千代花魁の馴染み客だったと聞いてここへ来たのだが」
「呉服の西尾屋さんのご次男ですよね? その方なら、つい先日、ここへお越しになりましたよ。登楼したわけではないですけど」
「それはいつのことだ」
「ええっと……数日前……今月初めですから、一日の夜見世の時だと思います。お役人様がお調べとは、あの方がまた何かしでかしましたか。本当に酒癖が悪くて困った方ですよ」
「騒ぎを起こしたと、かわら版に書かれていたな。無一文のくせに、花魁の間夫気取りで松川楼に登楼しようとしたところ、楼の者たちから髷(まげ)を切られて叩き出されたとな」
「あら、よくご存じですねえ。それはほぼ真実でござりますよ。あの日は、三助の旦那は来たときからかなり酔っておられて、菊千代をすぐに出せと見世へ入り込んで大声を出して、手当たり次第に見世の物を壊したり、うちの若い衆を殴ったりやりたい放題で。二度とうちへ来ないよう、髷を切って追いはらってやりました」
「髷は誰が切ったのか?」
「誰かと言われると憶えていませんけど、切ったのはうちの男衆たちですよ。こちらも商売。暴れるだけでなく、揚げ代も払えないくせに登楼しようって方は客ではござりません。あの人の実家の西尾屋さんには損害請求をさせてもらいます」
 当然だ、と言わんばかりにお藤は胸を張った。
 廓では独自の制裁が許されており、三助のように金を持たずに暴れる客が、遊女や廓内の使用人たちに髷を切られることなど珍しいことでもない。
 お藤はその時のことを思い出して怒りが込み上げてきたようで、少し早口になって三助のことを語った。
「でもねえ、西尾屋さんがうちの損害を支払ってくれるかどうかはわからないんですよ。三助の旦那は仕事もせず、派手な遊びで実家のお金まで使い込んじまって、それで勘当されちまったらしいから。実家に戻ってこっぴどく叱られて懲りてくれるとありがたいですけどねえ……」
「三助はすいぶんあちこちに金を無心していたらしいな。それは他からも情報があった。やつは、菊千代花魁の許嫁だったと聞いたが、今も間夫だったのか?」
「間夫だなんて、とんでもない。二人は元は親が決めた許嫁だったようですけど、菊千代はあの男をとても嫌っておりましたよ」
「それはおかしいぞ。馴染みだと聞いたのだ。嫌いな男ならば座敷に上げず、馴染みにならなければよいではないか」
「菊千代は病を抱えておりましてね、薬代を稼ぐために客を選んでいられるようなぜいたくはできなかったんですよ。あの子はねえ、元は大見世の売れっ妓だったのに病で稼ぎが減っちまって、見世替えで中見世のうちへ流れて来たんです。そもそも、菊千代が遊女になったのはあの旦那のせいだとか」
「ならば、菊千代には三助を殺す理由があったわけだ」
「はぁ? 殺すって……ちょっと、近江様……もしかして、死んだ男ってぇのは」
 お藤は目を大きく開けて清太郎を見た。
「察しのとおり、某が調べている男は西尾屋三助で、やつは先日、隅田川に浮いていたのだ。自害として片づけてもよさそうだが、不審な点がある。菊千代には三助を殺す理由があったということならば、慎重に吟味せねばならん。菊千代本人から直接話を聴く前に、彼女のことをもう少し詳しく聴かせてもらおう」
「菊千代が恨みで三助の旦那を殺したと疑っておられたのですか! それは絶対に違います。菊千代はこのところ病がひどくなりまして、花岡町の寮で静養させておりました。今日は、妹女郎の新造披露目の準備があるんで、ここにおりますけどね、まだ弱っておりまして、客も取れませんし、人殺しなんかできるわけがありませんよ」
 清太郎は太い眉の片方をピクリと動かした。
「ほう……寮から戻ったばかりか。菊千代が寮からここへ戻ったのはいつだ」
「昨日ですが」
「きのう……八日……ってぇことは……三助が死んだと推測される日には、菊千代は吉原の外にいたのだな」
 容赦ない突っ込みに、お藤は困ったように一瞬うつむいたが、すぐに清太郎を見返した。
「ええ、その時期はここではなく、うちの寮におりましたよ。それがなんだってんですか。菊千代が亡くなった方を嫌っていたからといって、事件と結びつけるなんて、いくらなんでもそれはあまりにも酷い決めつけでござりましょう。菊千代の移動は、うちの男衆と妹女郎の小梅も一緒でしてね、人目を盗んで人殺しをするなんて不可能なこと。寮にいるときだけでなく、普段でも花魁をひとりで吉原の外に出すことはないことはご存じでしょうが」
 それは清太郎も知っていた。病気になった吉原の花魁は、特別に大切にされている者に限り、吉原外で静養する場合があるが、逃亡防止のため、寮でも自由はなく監視付であることが普通だ。
「しかしな、自分で手を汚さなくても人を雇って殺しを依頼することはできよう。たとえば、馴染み客に頼むとか」
 お藤が言葉を詰まらせるのも構わず、清太郎は厳しい目を向けた。
 奥まったギョロ目の強い眼光におされ、お藤は額に汗を浮かべながらも熱心に弁明した。
「想像で物をいうのはかんべんしてくださいよ。殺人にかかわった女郎が松川楼にいるなんて根も葉もないうわさを広められたら、うちは困ります」
「菊千代姐さんは人殺しなんかじゃありいせん!」
 突然、内所の外からいきなり女性の声がして、十五歳ぐらいの少女が勝手に入ってきた。
「小梅! 盗人みたいに立ち聞きなんて、みっともない」
 お藤は、眉を寄せた清太郎をあわててとりなした。
「この子がさきほど話した子で、小梅と言って、菊千代が妹分として世話をしていた者です。無礼をお許しください」
 小梅は、叱ろうとするお藤の言葉を遮ると、清太郎の横に正座し、両手をついて頭を下げた。
「同心の旦那様、わっちは菊千代姐さんとずっと一緒でありやした。姐さんは、寮でも外出どころか、食事をするのもやっとで、人を殺すような力もなく……それに、あの人が姐さんの間夫なんてひどい侮辱でありんす」
「威勢がいいな。だが、男女の愛情のもつれから殺しに至ることは現実にあるぞ。菊千代は潔白かもしれんが、三助を殺す理由はあるということで、念のため調べているだけであるから、そう怒るな。今から菊千代花魁に直接話を聞くとしよう」


 清太郎は、菊千代が寝ている部屋に案内された。襖を開ける前に、お藤が声をかける。
「菊千代、八丁堀の旦那が西尾屋三助さんのことで聞きたいことがあるって。入ってもらってもいいかね?」
 中から咳込む音が聞こえ、小さな声で「寝たままでよろしければ、どうぞ」と返事がきた。
 清太郎が静かに襖を開け中に入ると、菊千代は赤い重ね布団に横になっており、鼻から下の顔の半分は掛布で覆っていた。
「病気がうつるから、あまり近くは寄らず、このままで」
「よかろう」
 清太郎は菊千代から一間ほど離れてあぐらをかいた。その後ろにお藤と小梅が並んで正座する。
 清太郎は元許嫁の三助が奇妙な死に方をしたことを告げたが、菊千代は「そう」と言っただけで、感情は読み取れなかった。
「知り合いが死んだのに驚かんとは……正直に言え。三助を殺すよう、誰かに依頼しただろう」
 菊千代は黙って首を振った。
「ちょっと悪いが、失礼するぞ」
 清太郎はそう言うなり菊千代に飛びかかるように近づき、間髪を入れず掛布をめくり上げると、夜着姿の菊千代の髪をわしづかみにして引っ張った。
「な、なにするんですか!」
 菊千代は怒って頭まで掛布の中に潜り込み、お藤もむっとして愛想笑いを消した。
「八丁堀の旦那様でも、花魁に触れるのなら揚げ代をいただきますよ」
「悪かった、地毛かどうか調べさせてもらったのだ。三助の躯は誰かの髪を持っていたのでな」
 清太郎は懐から白い紙の包みを出して開いた。長い黒髪がとぐろを巻くように丸められて入っている。
「この髪の持ち主に心当たりはないか?」
 菊千代は、目から上だけを掛布から出した。
「そんな髪の毛だけいきなり出されても……誰のかわかるわけが――」
 咳で言葉が切れた。


 その日は、怪しい情報も得られず、清太郎は松川楼での三助に関する調べを終えた。楼内の若い衆にも菊千代について調べを入れたが、彼女は、寮にいたときは一度も出歩いていないと証言を得た。


 その菊千代が自分の部屋で不審な死に方をしていると、松川楼から連絡があったのは、この日からわずか二日後のことだった。


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