菜宮雪の空想箱

29.やればできる



 ――油断した。まだ喉が痛い。
 エディンは、椅子に座ったまま喉をさすった。王女に首を絞められてから、だいぶ時間が過ぎたと思う。寝室の日よけの向こうは徐々に濃くなり、燭台の灯されていないこの部屋は、すべてが闇色へと変化しつつある。
 静かな寝室に、王女の寝息が溶け込んでいく。
 ――ちょっと怖かったな……でも、僕はがんばった。
 少し前の王女との『死闘』を思い出し、こみあげる笑いに頬を変形させた。
 
 もう少し待てば、ジーク王子がここへ戻る時間になるだろう。薬のせいで、酷く眠く、疲れを感じる。王女が静かになってからは、自分も座ったままで眠ってしまい、時々首が前にコクンと倒れたりするのだった。しょぼつく目を無理やり開き、時が過ぎるのをひたすら待った。
 いつもどおりなら、王子が戻る前に、ドルフが室内へ安全確認に入って来るはずだ。

 扉が叩かれ、ドルフが隣の居間に入って来たのは、それからすぐだった。エディンは警戒を解かず、王子の言いつけに従い、寝室の扉は内側から鍵を掛けて開かないようにして扉越しにドルフと話をした。
「おい、エディン、生きているか? おまえの家から着替えを預かった。ここに置いておくぜ」
 いつもと変わらないドルフの声。現在は城の封鎖は解除され、ドルフは無事にエディンの自宅へ行きつけたらしい。エディンは丁寧に礼を言い、母親の調子はどうだったかとたずねた。
「おまえのおふくろさん? 普通だったぜ。着替えを渡してくれた時には何も思わなかった」
「母が元気なら安心しました。それから……アレは……」
「おう、アレか。アレはだな……」
 扉の向こうのドルフが、言いにくそうに口ごもる。
「ドルフさん? 回収できましたでしょうか」
「すまん、まだ……だと思う。俺の家の連中も、涙ぐましい努力をしてがんばっているのだが。チーズ男の役は、今日は交代したらしい。俺はあの場では黙っていたんだが、あんなやり方じゃあ、あのクソやろうを捕まえるのは無理だと思うぜ」
「僕は名案だと思ったのですが」
「痛々しすぎる。チーズ男作戦はもうやめておけ」
 ドルフが笑っている。たかがネズミ一匹の為にチーズだらけになっている哀れな男たちを想像するとたまらない。エディンは大声で笑いかけて、ふと視線に気が付き笑いと止めた。
 ドルフと話をしていた声で、王女は目を覚ましたらしく、こちらをにらんでいた。

 ドルフは、城内の様子などを教えてくれ、寝室以外の王子の部屋の点検を終えると、廊下へ戻った。今夜はエディンの代わりに、昼の警護兵が夜間も付くらしい。

 ドルフが退室してほどなく、複数の足音が廊下から聞こえてきた。扉が開閉された音の後、一つだけになった足音が寝室に近づく。
「エディン、私だ。鍵を開けろ」
 待ちに待った声。エディンが椅子から立ち上がって扉の鍵をはずすと、ジーク王子が顔を覗かせた。
「はっ、あははは! やっぱりこうなったというわけか」
 中を見たとたん、王子は大笑いを始めた。
「よくやった、エディン。上出来だ」
 王子がこれほど顔を崩して笑うことは多くはない。
「お誉めいただき、光栄でございます」
 この状況を誉められるというのは、少々複雑なのだが、感謝の気持ちを示そうと頭を下げた。心の重苦しさが少し軽くなる。
 王子はさやわかに言い放った。
「エディンには彼女の守は無理かと思ったが、やればできるじゃないか」
「はい!」
 ――やればできる! 僕にだって。こんなことだってできるんだ。

 寝台の上には、手足が縛られた王女がころがっている。口には布が噛ませてある。
「失礼だと承知しておりますが……これが一番よい方法だと判断しました。せっかくジーク様が縛っておいてくださったのに、不覚にも私はニレナ様のいましめを解いてしまいました。そうしたら……いろいろありまして」
「いろいろか。そうだろうね。私もそうだったから」
 王子は止まらない笑いで、クッ、クッ、と喉を鳴らしながら寝台に近づいた。王女は王子を見上げて、うう、とうなり声を上げる。
 王子は王女の頬をそっとなでた。
「私のニレナ、気分はどうだい? まだ顔色がよくないな。エディンに服を着せてもらったか。ずっとあのままでもよかったのだよ。君は何も身につけていない方が魅力的だ」
 王子はそう言いながら、王女の口布を外した。
 とたんに、王女はためこんでいた言葉をぶつけた。
「なんて酷い人たち。特に、このっ、この無礼な兵を許さないわ!」
「ニレナ、落ち着いて。君が言いたいことはきちんと聞くから、静かに頼む」
「とにかく、この兵は嫌。そこにいるだけでむかむかする」
「どうしてだ? エディンはこう見えても由緒ある家柄の出。女性に礼を尽くすことはできるはずだ」
「うそ! こんなふうに女性を縛り上げて、用足しもさせないなんて、良家の人間がやることではないでしょう」
 王子をにらみつけていた王女は、視線をエディンに移した。
「この兵、もうがまんできない。鈍いくせに、私の怪我をいいことに、いきなりのしかかってきて、体を触って、縛りあげた」
「触ってしまったのは偶然でございます。申し訳ありませんでした」
 エディンは頭を下げて苦笑いした。喉にかかった手をはずそうともみ合った時、はずみで王女の傷をしていない方の胸を思いっきりつかんでしまった。手にはまだ、王女に触れた幸せな感触が残る。
 ――むにゃっとして……肩も喉も痛いけど、ちょっとだけいい思いをした。



 あの時。
 エディンの首をつかんだ王女の手が、ジワリと締まった。寝台にあおむけになってエディンを見上げ、首を絞めている王女は、冷笑を浮かべた。
『怪我をした兵など、殺すことは簡単。この城は人手不足らしいわね。こんなに弱くて、どうしようもない兵を使っているなんて』
『くっ……』
 苦し紛れに、手を伸ばして何かをつかんで、握りしめた。悲鳴と同時に弛められた王女の手。エディンは首絞めから逃れ、寝台から数歩下がることができた。
 ゲホッ、ゲホッと何度も咳込むエディンに、王女は、軽く笑った。
『うまく逃れたつもり? 私が本気だとわかったでしょう。ここから出られる方法を考えなさい』
 ――ニレナ様!
 呼吸が乱れ、声がすぐに出なかった。
『おまえには悪いけど、私はどうしてもここを出なければならない』
 エディンは絞められた喉をおさえながら、王女を見つめた。王女は確かに泣いていたが、今は完全に笑い顔になっている。
 肖像画から想像していた、美しくておとなしい王女など、幻想にすぎないのだ。ここにいるのは殺し屋。
 ――僕だって、さっさと帰りたい。家が大変な時なのに。ニレナネズミ探しが待っている。ニレナ、ニレナ、ニレナ。この名前、この人も、ネズミも、大嫌いだ。少しでもこの人がかわいそうだと思ったのは間違い。
 エディンは咳が収まると、呼吸を整えて王女に近づいた。今度は警戒を怠らない。
『あなた様が本気だ、ということはよくわかりました。ならば、こちらも本気でお世話をさせていただきます。手加減はいたしません。失礼します』
 そう言うなり、行動に出た。寝室の床に散らかっている紐――ジーク王子が王女をしばっていた布をすばやく拾うと、寝台へ上がり、全身で王女を押さえつけた。
『キャッ!』
 骨折している方の腕は思うように動かない。それでも、体重をかければ弱っている王女を押さえ込むぐらいならできる。
 王女が全力でエディンをどけようとする。
 それからはもう無我夢中だった。
 王女の手首を片手にまとめてつかむと、彼女は激しく抵抗して、怪我人とは思えぬ力で、エディンの骨折している肩を狙って頭をぶつけてきた。
 肩に走る激痛。それでも負けるわけにはいかない。全力をこめて王女を抑え込むと、王女はエディンの下から逃れようと身をよじる。
『なにするのよ! この無能兵』
 王女は荒い呼吸をしながらエディンをののしる。
『無能で申し訳ありません。ご辛抱を』
 エディンは肩の痛みで顔をしかめながら王女にすべての体重をかけた。王女だって怪我をしているのだから、上から乗られたら痛いはず。
『痛い! やめなさいって言っているでしょ。あなたなんか殺すわよ』
 あばれる足は自分の足で押さえつけ、必死で紐を巻きつける。きちんと結ぶのは後でいい。今は動きを封じることができれば。
『いやっ!』
 両手をつかんでまとめて、彼女の頭の上に持って行き、めちゃくちゃに紐を絡めた。王女の抵抗は続かず、手を縛ることに成功。
 王女の手足を拘束し終わると、エディンは、格闘技が一試合終わった後のような激しさにすっかり疲れてしまい、すぐに王女の上から体をどけられなかった。王女の体がエディンの体重を支えている。高めの体温がじんわりと伝わって来る。
 ――こうしていると気持ちいい……動きたくない。
 王女の耳がすぐ目の前にある。
 ――むかつくから噛みついてやりたい。でも噛みついたらどうなるんだろう……もっと噛んでって言ってくれたら僕は……そ、そんな変なこと、この人が言う訳がない!
 意識が飛びそうになる心の中で一人笑う。
 下敷きになっている王女の方も疲れてしまったらしく、激しく呼吸を乱している。青白い顔には脂汗が浮かんでいた。エディンが上に乗っていると傷が痛いに違いない。
『ねえ、エディン、重いわ。こんなことはやめて。殺すなんてもう言わない。おとなしくするから』
 両手足の自由を失った王女が涙声で懇願する。
『何度も同じ手は使えませんよ。嘘泣きはかんべんしてください』
 エディンは小さな声で返した。
 眠気と脱力感が襲う。本当にこのまま意識が無くなってしまいそうだ。王女の髪に、自分の顔が埋もれているような状態になっているが、力を使いきってしまい、身を起こせない。体が熱っぽく、肩の骨折がずきずきとうずく。
『お願い、エディン、用を足したいの。ずっとがまんしていたわ。体をどけて、紐をほどいて。これではどうしようもないから、ね?』
 エディンは、気力を振り絞って寝台から起きあがって立ち上がり、王女を見おろした。
『……では、この場でどうぞ。濡らしてしまっても寝具を変えれば済むことです。ジーク様がお戻りになるまで、私はあなた様を自由にしないと誓います。私はもう疲れました。静かにしてください』
『エディン、お願いよ』
『ご要望にはお応えできません。お食事もいらないのでしたよね? 口は必要ないでしょう』
 仕上げに、王女の口に布を噛ませて頭の後ろで縛りあげた。うたたねした隙に自殺されては困る。
 王女は、しばらくうなり声をあげていたが、あきらめて、やがて眠りに落ちた。
 そして、そのまま夕暮れを迎えたのだった。


「そうか、エディンは私が指示したとおりにやってくれたのだな。用足しをぎりぎりまでがまんさせろ、と命じた理由はわかっただろう。一度も用足しはなしか?」
「この状態では無理でございます。私は殺されそうになりましたのでご要望には応じておりません」
 男性同士でかわされる恥ずかしい話題に、王女はくやしそうに歯をこすり合わせた。
「この恥知らず兵! 女性の頼みを無視するなんて、気が狂っているわ」
 王女は目をむいてエディンを罵るが、王子はわざと眉を大きく動かして、驚いた、という顔を作って見せた。
「恥知らず? おや、君の口からそんな言葉が出るとは。恥知らずはどちらか? 君は夕べ、自分から服を脱いで私を誘惑して殺そうとした。君を拘束したエディンの判断は正しい。男は女性の涙と肌の誘惑に弱い生き物だからね。君はそれを知っていて泣いたりしているのだろう? 男性に泣きつくことは、キュルプ王家では当たり前なのか」

 つい先程まで笑っていたジーク王子の声には、ゾクッとするような冷たい毒が含まれていた。王子は、王女の首筋に、人差し指の先を、つぅ、と滑らせた。
「触らないで」
「君がニレナなら、私は婚約者として君に触れる権利がある」
 王子は、皮肉な笑いを洩らすと、指を軽く王女の首にめり込ませた。首を突かれて、王女は顔をゆがませた。
「君が今までどんな暮らしをしてきたのかは知らないが、王女ならば、自分から服を脱ぐような、はしたないことはしてはいけない」
「生き抜くためなら手段は選べません。ジーク様にはおわかりにならないでしょうけど」
 王女は、ジーク王子の手が首から離れると、逃れるように顔を壁の方へ向けた。
「どうした、ニレナ。私に聞かないのか? 君と私の結婚話はどうなったのかを」



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