菜宮雪の空想箱

28.ニレナ王女(2)



「ニレナ様!」
 開いた扉の向こうには、舌を噛んで血まみれになっている王女――ではなく、しばられた裸の王女――でもなく、ジーク王子の家具を押してどけようとしている普通の王女がいた。
 王女はエディンの姿を見るなり命令した。
「ぼうっとしていないで、調べるのを手伝いなさい。王子の寝室ならば、どこかに逃げ道があるはず」
 エディンは寝室へ入り、王女に近づいた。
「そんなのないと思います」
と言ったが。
「あ」
 そう言えば。
 ネズミが巣食っている『ニレナの穴』がそこにあると王子は言っていた。今、王女がどけようとしている木製家具の辺り。もしかすると、そこが秘密の通路なのかもしれない。

 王女は、エディンが何かを思い出した様子を見逃さなかった。
「どこなの? 教えなさい」
「違うんです、ニレナの穴は――わわっ」
 エディンは自分の口を手で押さえた。ものすごく下品なことを言ってしまった気がした。
「ニレナの穴ですって?」
 王女が眉を寄せる。
「い、いいえ、ニレナ様を逃がす為の穴……ではなくて、通路はありません、という意味で申しただけで……」
 あせってうまく回らぬ舌を、必死で動かして、ごにょごにょと語尾を濁して取り繕う。鼻血がまた出そうになるほど顔が赤くなっていることが自分でわかる。
「そ、そ、それよりもですね、お食事にいたしましょう。寝室から出てはいけないとのジーク様のご指示です。こちらへすぐに運んでまいりますからっ」
 エディンは袖で汗をぬぐい、何か言いかけた王女を振り切って寝室から走り出た。
 先程受け取ったパンなどが盛られた盆を持って、寝室へ再び入ると、王女はエディンに目もくれず、まだ家具をどけようとしている。
 エディンは、食事の盆を木の椅子の上へ置いた。

「おやめください。お傷が悪化します」
「こんな傷、たいしたことない。エディン、この家具をどけるのに手を貸しなさい」
 王女は、顔を真っ赤にして木製家具を押している。五段の深い引き出しがついた木製家具は、大人の腰の高さほどしかないので、女性でも動かせないことはないように見えるが、固定されているのか押しても全く動かない。王女の力で揺らされて、上に乗っている小物入れの箱が落ちそうになる。
「さっさと手伝うのよ。この家具が怪しい。抜け道はこの下にあるに決まっている」
「ジーク様の私物を勝手に移動させるようなお手伝いはできないのです」
「なんですって」 
 王女は目をとがらせて、近づいて来るエディンをにらみつけた。
「言うことをきかないと、おまえを殺す。私から武器を取り上げて安心しているつもりかもしれないけど、武器などなくてもおまえを殺すことぐらいできる。役に立たない兵などいらない。今すぐに、この手でおまえの首を絞めてやる」
 美しい顔立ちに似合わない言葉に、エディンはうつむきたくなったが、こらえて、さらに数歩近づき、王女の正面に立った。
「そのような悲しいことをおっしゃらないでください。私を殺しても何の得にもなりません。お食事にいたしましょう」
 こうして近くに立つと、王女は思った以上に小柄で、頭ひとつ近く身長差があるエディンが見おろす形になったが、王女はひるまない。
「ただの脅しだと思っている? 私は人殺しなんてなんとも思っていない。私の命令に従いなさい」
 王女の言い方は威圧的だが、瞳はかすかに揺れており、いらだちの中に焦りが見え隠れする。
 エディンは落ち着いて言葉を選んだ。
「無理をしてはなりません。どうか、お食事を召し上がってください」
「聞こえないの? 手伝ってほしいと言っているのに」
「できません」

 無言のにらみ合い。やがて、目を反らして折れたのは王女の方だった。
「死んでも私の手伝いをしないと言うのね」
 王女は少し疲れたのか、ふぅ、と息を吐くと、取りついていた家具から離れて王子の寝台に腰をおろした。
 エディンはほっとして王女に食事の乗った盆を差し出そうとして――

 手から盆が滑り落ちそうになった。寝台に腰かけていた王女の体は力を失い、パタリと寝台の隅に倒れ、そのままじゅうたんの床の上にころがるように落ちた。
「ニレナ様!」
 王女の顔は真っ青になっており、苦しげに眉を寄せて目を閉じている。数回名を呼んだが返事はなく、王女の体は、力が抜けたまま、横たわっている。
「しっかりしてください」
 エディンはしゃがみ込んで膝に王女の頭を抱えると、顔を覗きこんだ。
 医術師ではないので、脈はよくわからないが、呼吸は浅め。とにかく顔色が悪く、唇も頬も同じように白い。あれだけ出血していたので、本当は立っていることすら無理をしていたのかもしれない。
 ――ニレナ様。
 閉じられた紺色の瞳。軽く開いた唇から温かい息が漏れる。
 ――どうしてこの方は。
 意識のない王女の頬に触れ、そっと撫でた。しみひとつない、なめらかな頬。頭をもう少し上げて抱き直せば、明るい色の髪がエディンの腕に広がった。髪を結い上げた姿の肖像画とは違い、結ばれずに自由に広がる髪は、癖がなくしっとりしている。肌の色に近い薄い茶色の髪は、光に当たれば、まぶしいほどに輝くだろう。
 ――やわらかい髪……
 エディンは背中を丸め、王女の頭を抱きしめると、髪に指を絡めた。ひっかかる部分がある。見れば、血液が黒く固まって、きれいな髪の一部に付着している。悲しくなり、王女の頭をもう少し強めに抱きしめた。無意識に自分の頬を寄せる。
 髪にこびり付いている血……殺された誰かの血かもしれない。王女の血とは限らないのだ。
 ――こんなに美しく高貴な人なのに。

 王女の唇が少し動き、頬を触れ合せていたエディンは、ハッ、と顔を離した。
 ――げっ……今、僕は! 
 あやうく大声をあげそうになった。
 今、自分がしていたことは。
 熱は一気に引き、うしろめたい寒さに全身が包まれた。慌てて周りを見回す。
 窓には日よけ布が下ろされ、寝室内には誰もおらず、見られていないはずだ、と思っても、心臓の鼓動はなかなか収まらない。
「お許しください」
 小声であやまる。王女は気を失ったまま。よかった、と胸をなでおろしたが、とにかく早くこの体勢をなんとかしなければいけない。いくら恋人役だと言っても、本当の恋人ではない以上、今、王子が戻ってきて、婚約者の頭を抱いている自分を見たら、罪人収容所送りになること間違いなし。
 肩の痛みをこらえ、うめきながら王女を寝台に引っぱり上げた。薄い上掛け毛布をかけ終わると、その場にへたりこんだ。
 ――僕はどうかしている。


 エディンは、しばらくその場に座り込んでいたが、「よしっ」と気を取り直して王女から離れ、寝室に持って来た盆に手を伸ばし、パンをかじった。
「まったく……」
 かみしめるパンに、さまざまな思いを込めた。

 そもそも、あのネズミが来てからろくなことがないのだ。ネズミに逃げられただけでなく、そのせいで母親は倒れ、自分も怪我。しかも、こんな美しくも恐ろしい王女の監視のおまけまであり。
 王女の裸まで見ることができて、よかったこともあるような気もするが、いや、それは違う、と否定する。王女を見るだけで、あの姿がどうしても思い出されてしまう。これは試練。気を弛めれば、先程のように、理性がどこかへ飛んで行きそうだ。
「ああ……」
 深いため息。裸まで見てしまった美しい女性と二人きりになることが、こんなにつまらないとは思わなかった。あとどれぐらいの時間を二人で過ごせばいいのか、全く予測できず、気分はどんどん盛り下がる。食事が済めば、何もすることがない。王女は眠り、恐れている「用足し」は先延ばし。
 ――暇だ。気分転換に、少しだけ調べてみるか。
 王女が眠っていることを確かめると、静かに立ちあがった。
 
 先程の家具へ忍び寄る。『ニレナの穴』は城外への秘密の通路なのだろうか。
 横から押してみる。
 動かない。
 引き出しのついた木製家具は、後ろの壁に固定されているようだ。壁ごとくるりとひっくりかえるような仕掛けがあるのかと、壁を押しても何も変化はない。

「そこが抜け道?」
「わっ!」
 いきなり後ろからの声に、エディンは振り返った。王女は先程のまま寝台にあおむけになっていたが、眠ってはおらず、首を回してこちらを見ていた。
 エディンは自分の顔に血が上るのを感じながら、寝台の横へ戻った。
「大丈夫ですか。お顔色がよくありません」
「おまえは、私の質問には答えないの?」
 王女の声は弱々しい。まだ体調が悪そうだ。もしも、通路が本当にそこにあったとしても、王女は城外まで長い通路を歩いて行く体力はないだろうと思える。
 エディンは寝台の横に戻り、両膝をついて正直に答えた。
「抜け道があるかどうか、調べていたのです。私は存じませんので。そんなことよりも、くどいようですが、お食事をなさってください。私は先にいただきました」
「ほしくない」
「お食事が喉を通らないのでしたら、水だけでも」
「痛み止めの薬だけでいい。食事を取っても意味はないから。どうせ私は死ぬから」
「何をおっしゃいます。傷は大きいですけど浅い、と医術師が申しておりました。血液が足らないだけです。日が経てば、元通り動けるようになるそうです」
 王女は目を閉じて、軽蔑の笑いをもらした。
「おまえは愚か者? ジーク王子が私を生かしておくはずがないでしょう。ここにいてもいずれ殺されるなら、家族の元へ帰りたい。食事などいらないから、一刻も早く、私を外へ連れ出して」
「それは無理です」
「家族に会えるよう、協力してほしい」

 エディンはしばらく黙りこんだ。確かに、この状況では、王女に明るい未来は見えない。ジーク王子が王女を殺すことはないだろうと思うが、彼女が賊だと城内の者に漏れた時は命がないかもしれない。
「では、お訊ねしますが、もしも、私がここを抜けだすことに協力したとしても、その後、どうやってお国まで戻るおつもりですか」
「ここを脱出すれば、なんとかなる。それから先は、おまえには関係ない。ここを出ることさえできれば……」
 王女の目尻から急に涙がこぼれ出た。

 ――またしても涙か。

 エディンは、ため息をつきたい気分になった。
「あの……失礼ですが、あなた様のやったことで結婚は破談となり、両国は戦争になるかもしれません。ジーク様暗殺に失敗したあなた様は、賊の仲間から捜されるだけでなく、この国からは実行犯として追われることになります。そのお怪我で逃げきることは無理です。ジーク様がどういうお考えなのか私はわかりませんが、今は、ジーク様の保護の元、ここで静養することが一番だと思います」
「家族に……会いたい……」
 すすり泣く王女に、エディンは一瞬だけ王女を逃がしてやりたい気持ちになったが、死んだ小姓のことをふと思い出し、ふつふつと怒りが湧いてきた。昨夜からの疲れも手伝い、抑えの利かない感情に支配され、一気にぶちまけた。
「そんなにご家族が大切なら、どうして悲しませるようなことをなさったのですか。夕べ、この城でたくさんの人が殺された。僕よりも若い少年だって無残な毒殺死体になったと聞いています。あなたのお仲間たちに殺された者にだって家族はいるのですよ」
 止まらないエディンに王女は言葉をはさめず、泣き続けている。
「僕だって、実は痛いのをがまんしていますけどね、夕べの騒動で骨折しているのです。しかも、あなたの存在を隠す為に恋人役にされて、冷や汗をかいてばかりですよ。自分勝手に逃げることばかりおっしゃられても、僕はあなたを許せなくなるだけです。僕は」
「……っ」
 エディンは、王女の泣き声に自分を取り戻して声を落とした。
「失礼しました。私も怪我で気がたっております。無礼な物言いで自分の感情をぶつけてしまったことを、どうかお許しください。私は、あなた様の見張りが仕事であって、逃がす為にここにいるのではないのです。自分の任務を全うするしかありません」
 王女は、消えてしまいそうな小さな声で、「ごめんなさい」と言うと、しゃっくりあげながらつぶやいた。
「エディンの言うとおり……私は取り返しがつかないことをした。死にたい。でも、死ぬ前に、ひと目家族に会いたい。わがままだとわかっていても……」
 エディンは怒りを静めて眉を下げた。
「もう泣かないでください。夕べ、ジーク様はなんとおっしゃいましたか? あなた様を逃がす手配をすると約束してくださったのでしょうか」
 王女は首を軽く左右に振った。
「あの方は……恐ろしいわ……」
 ――うん、確かにある意味恐ろしいかも。あんなに非の打ちどころもない御方なのに、ネズミにこの人の名を付けてかわいがるなんて。
 エディンが心の中で、うん、うん、と同意しているうちに、王女の泣き声はさらに大きくなった。心の傷は大きそうだ。夕べ、ジーク王子が王女にどんなことをしたのかは、なんとなく想像ができてとても気になるところだが、あからさまに聞くわけにはいかない。
「お静かに」
 エディンは、誰かにこの声が聞こえたのではないかと、思わず窓へ駆け寄って外を確認した。日よけの隙間から外を覗いたが、幸い、巡回兵はそこにいなかった。
「よろしければ、事情を少しでも話してくださいませんか。この城へ侵入なさったのは、ジーク様のことがお気に召さない、という理由だけではないですよね?」
 エディンは精一杯やさしく言ったつもりだったが、王女は返答せず「死にたい」とつぶやいて上掛けを引っぱり上げて、顔を隠してしまった。
 「死んではいけません!」
 エディンは、王女が舌を噛み切るかと思い、焦って上掛けを払いのけた。


「!」
 突然の衝撃に一瞬視界が狭まりかかる。息ができない。
「ぐっ……」
 王女を覗きこんだとたん、伸びてきた王女の細い指。
 それはエディンの首を前からつかみ、血流をせき止めんばかりに、グイ、と押さえつけて来る。色のない王女の唇から、無邪気な笑い声が出た。
「甘い兵ね。自分で骨折していることを暴露するなんて」



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