菜宮雪の空想箱

30. 王子と王女



 ジーク王子は軽く笑いながら、王女の顔を覗きこんだ。
「君は私の花嫁になりたいか?」
「からかっていらっしゃるのね。私がここにいるのに結婚など、できるわけはないでしょう」
 王女は「あきれるわ」とつぶやいた。
「そうだね、ニレナ。花嫁がここにいる限り、結婚式が執り行われることはありえない。私もそう思うよ。君が私に定められた花嫁である限りね……」
 王子はエディンの方へ向き直り、退室するように命じた。
 エディンは、もう少しこの話が聞きたかったが、命令された以上、いつまでも寝室内にいることはできない。頭を下げ、寝室から出ると、内側から鍵をかける音が聞こえた。

 王子の居間に戻ったエディンは、ドルフが持ってきてくれた服に着替えると、ソファに腰をおろした。寝室からぼそぼそと聞こえる二人の会話に、耳がそちらへ集中してしまう。
 王女が不服そうにぶつぶつ言っているが、怒った口調になっており、ここからではよく聞こえない。ジーク王子の声はよく通るので話の内容はある程度わかるが、廊下の方から入って来る、ドルフが他の兵と話をしている声も邪魔になる。はしたないと思いつつ、立ち上がると、静かに扉の前へ移動。聞きやすくなった。


「手足をほどいてください。これでは何もできません」
 王女の声。普通に敬語。王子が相手なら、王女は言い方が穏やかだと思った。
「そうしておかないとだめだ。君は何をするかわからないからね。生き延びたいなら、おとなしくしていろ。君のことを許せなくなったら、私は君をこの手で殺してしまうかもしれない。こんなところで君が死んでしまったら、君のかわいいパピはどうなるのだろうね。パピのこと、心配だろう?」
「なんの……お話かしら」
「おや、それもごまかすつもりか。ここで飼いたいと、あんなに手紙に書いてきていたのに、忘れたとでも?」
 パピって……エディンは、あっ、と思い当たった。きっと王女の愛玩動物のことだろう。それが来るせいで、ニレナネズミがずっとエディンの家にいるかもしれない危機に陥っているのだ。
「かわいそうなパピは今頃死んでしまったかも。ところで、パピって何の動物なんだい? それがわからなければ、飼育を許可するかどうかなど、言いようがないだろう」
 しばらく沈黙があった。
「べつに……パピが何であっても、今更そんなことをジーク様にお話しする必要などありませんわ。私たちが夫婦になることはないのですから」
「ふっ、よくできた答えだ」

 二人の会話はどうもかみ合っていない気がする。ジーク王子はそれを楽しんでいるようだが王女は戸惑っているようだ。
「君がここにいることはキュルプ王家へは伝えていないが、この城で殺傷行為があったことはすぐに連絡した。その返事が今日の夕方届いた。それがね、あまりにも意外だったから――」
 王子は声の音量を落とし、なにかささやいた。王女が「えっ」と驚きの声をあげる。
「これから君の父上がどう出るのか楽しみだ」
「そんなの、偽りでしょう。ご冗談はおやめになって」
「私も報告を受けた時は信じられなかったよ。でも、この情報は信用できる筋から入手している。間違いない」
 エディンはさらに扉に耳をぴたりとつけた。
 ――肝心なところが聞こえなかったじゃないか!
 舌打ちしたい気持ちをおさえ、会話を拾うことに神経を集中させた。

「くだらない会話はそろそろおしまいにしないか。私は君を殺したいわけではない。殺したくもない。教えてほしい。誰に頼まれ、誰の手引きでこの城へ入ったのだ。私が死ねば君は満足なのか?」
 王子は次々とたくさんの質問をしたが、王女が素直に答えている様子はない。
「君が意地をはっていても、いずれ、真実は全て明らかになるだろう。今、いろいろと調べさせているところだ。具合が悪そうだから今日はこれぐらいにしておいてやる。もう寝ろ」
 二人の会話は途切れたので、エディンはソファに戻った。

 薬のせいで眠気はすぐにやってくる。目をあけているのもつらくなり、ソファに横になった。うとうとしかけた時、王子の寝室内で、王女のかすかな悲鳴が聞こえたが、眠さに負けて意識を手放してしまった。


「起きろ、エディン」
 肩をゆすられて、無理やり目を開く。彫刻の入った木の天井が目に入った。見おろしでいる整った顔。室内はすでに明るく、夜は終わっていた。
 ひっ、と飛び起きる。
「もっ、申し訳ございませんでした」
 ――ああああ。またしても失態。
 あ、をいくつ言っても足らないほど。王子はそれでも怒っている様子はなく、むしろ機嫌はよさそうで、栗色の長い髪をかきあげて、にっこりと魅力的な笑いを見せた。
「エディン、彼女の朝食は済んでいる。リネン係には、今日も入ってこないように言っておく。それから――」
 王子は一方的に用件を告げたが、今後王女をどうするつもりなのか、それに、キュルプ王家の対応については何も言わなかった。
 王子からの話がひととおり終わったようなので、エディンの方からいろいろなことをたずねようと思った時、医術師のロムゼウが来たと、廊下の兵の声がした。
「エディン、少しだけ待たせておけ。今、彼女の紐をほどく」
 王子はすばやく寝室へ走り込んだ。
 あの老医術師に、王女を縛ってあるところをまた見られたら、何を言われるかわからない。それは王子もよくわかっているようだ。
 王子はすぐに寝室から出てきて「準備が整った」と言ったので、エディンは気が乗らないまま、医術師を部屋に招き入れた。

 ロムゼウは、エディンの方は何も治療をせず、顔色を見ただけで大丈夫だと判断したようだったが、寝室の王女を診察するなり、眉を寄せた。いましめを解かれた王女は、目を開けたまま、人形のようにぼんやりした表情で、寝台の上に寝かされている。
 ロムゼウは王女の包帯をほどいて傷を確かめ、薬を塗りなおした。またしてもさらされる王女の肌に、エディンの胸がざわめく。
 目のやりどころに困り、横に立っているジーク王子の顔をちらっと見て、気を引き締めた。
 ――そうだった。この女性は暗殺者。

 王子は目を細めて王女の体を凝視していた。その表情は厳しい。婚約者に対する愛情や心配が入っているどころか、女性のむき出しの上半身を見ているときめきや喜びすら感じさせない、氷のような空色の目。唇はキッとひきしめられて、心なしか眉も吊り上っているように見えた。王子の心の中に葛藤があるように思える。

 ロムゼウは治療を終えると、道具をかたづけながらエディンに言った。
「ガルモ伯、傷は固まりつつありますが、熱が上がっております。このように血だらけの不潔な寝具では、よくなりませんぞ。それに、いくら内密に事を済ませる必要があるとはいえ、殿下の寝室をいつまでも使わせておくのは問題でございましょう。どうなさるおつもりか」
 エディンへの非難が入るロムゼウの言い方に、王子がやんわりと対応した。
「ああ、それなら今日中か、遅くても明日には出て行ってもらうつもりだ。私もいつまでも寝室を占領されていてはたまらないからね。そう心配してくれなくてもよい」
 王子は、診察が終わると、説教が足りなさそうなロムゼウを、さっさと部屋から追い出すと、飛びつくように紐をとり、王女の手足をつかんだ。王女が痛そうに声をあげる。
「痛いです。やめてください」
「縛っておかないと、私たちが傍にいないときに、君が勝手なことをすると困る。私は向こうでエディンと話があるから、君はここで待っていろ」
「絶対に逃げないから、縛るのはやめてください」
 泣き声になって懇願されても王子は耳を貸さず、手際良く手足を元通りに縛りあげた。
 王子は、小声でクククと笑うと、王女の顎に手をかけた。
「君は困った人だ。精一杯がんばっていることは認めてもいいのだが。静かに待っていろ」
「っ!」
 ジーク王子は王女の口にも布をかませると、エディンを促して居間へ出た。

 王子は極力声を落として、ソファの正面に座るエディンに向かって少し身を乗り出すようにして話し始めた。この声の大きさなら、廊下の兵たちまで声は漏れないだろう。
「彼女のこれからの潜伏先のことなのだが……きのう父上と二人きりで相談した結果、エディンの家にかくまってもらうことにした」
「?」
 なんの重みもなくさらっと告げられた重大事項に、すぐに反応できなかった。
「エディンならば、事情もわかっているし、自宅で自分の怪我を治しながら、彼女を監視してもらうことができる。もちろん、彼女をここから連れ出してガルモ邸まで運ぶ馬車は、私が手配する。君の家には私のかわいいあの子もいるからね、大変だとは思うが、両方しっかり面倒をみてくれ」
「……!」
 頭に星が飛んだ思いだった。ぎゃあぁぁぁ、と声に出せない悲鳴が喉の奥に押し込められる。

 ――ニレナ様が! 王女とネズミ。ニレナが両方とも我が家に? そんなぁぁ……!


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