7. 


 文芸部の三人は、綾のことを口にしないようにしていたが、一週間が過ぎた頃、日南子が、突然、綾を呼び戻したいと言い出した。
 幹雄は唇を尖らせ、伸びている前髪を跳ね上げた。
「だ、か、ら、そっとしておいてやれって、前にも俺は言ったぞ。あのメールが与えた衝撃は半端じゃない」
「でも、いつまでもそれじゃあ、綾ちゃんが駄目になっちゃうよ。そんなことでうじうじしているなんて、綾ちゃんらしくない。小説なんて書かなくてもかまわないし、冊子用のイラストや写真を選んで入れる作業だけをやってもらうだけでもいいから、また一緒にここで楽しく部をやっていきたいと思うの。やっぱり、綾ちゃんがいないと静かすぎる」
「だけど、どうやって誘う気だよ。あいつは自分でやめるって決めたんだ。原稿がそこに置いてあるのを見るだけで、文笑事件を思い出して気分が悪くなるかもしれないじゃないか」
「うーん……そんなに深刻なのかなあ。綾ちゃんって彼氏とのことで騒いでいても、すぐに仲直りしているときって結構あるし、もともと強い性格だから必ず立ち直れるはず。メールで、そろそろ復活してよって、軽く催促するだけでは駄目?」
「あいつがここへ来る気になるかどうかだろう。俺なら来ない」
「来る気にならないかな……おいでって言うのも傷つく?」
 黙って話を聞いていた巧が案を出した。
「綾先輩を送る会、という名目にして、どこか別の場所で、退部祝いのようなものをやるっていうのはどうでしょうか。それならば、ご本人が来ないわけにはいかないし、それで楽しかったら、またここへ来てくれるようになるかもしれません」
「でも、それって、お別れ会でしょ? それっきりになっちゃうかも」
「二度と現れないよりはましかもしれない。よし、いちかばちか宴会だ、宴会」
 とりあえずその場で日時を決め、日南子の下宿でお別れ会をやると告げたメールを綾に送ったところ、その日のうちに返信が来た。
 ただ、【ありがとう】とだけ。
 日南子は返信を二人に見せた。
「どう思う? どっちだろう、来てくれるのかな」
「来ないなら、それだけ傷が深いってことだろ。あいつが来なかったら、俺が車出すからさ、三人でドライブでも行くか」


 そして当日。
 心配していた綾は、何事もなかったかのように連絡した時間に部室に姿を見せた。全員がそろったところで大学近くにある日南子の下宿へ移動。普段と変わらぬ綾の様子に、三人は、これなら大丈夫そうだと無言の視線を交わす。
 日南子の部屋のこたつに皆が入り込むと、日南子は、用意してあったケーキを冷蔵庫から出した。
「はい、綾ちゃん。みんなの気持ちだから」
 綾が大好きなチョコクリームをたっぷり使ったフルーツケーキ。直径二十センチほどの真ん中には文字が入った白い板チョコが乗っている。
 綾は書かれている文字をしばらく眺めていた。
「……ありがとう……食べるのもったいない」
 綾はケータイを取り出し、ケーキの写真を何枚も撮った。
 日南子が綾に包丁を渡そうとしたとき、巧が横から口をはさんだ。
「どうせなら、もう一つの方も今出しませんか?」
「もう出すの? だってあれは」
「まあ出しちまえって。どうせ切るんだからついでだろう」
 幹雄も出せと言うので、日南子は冷蔵庫へ向かう。
「もうひとつって、ケーキがもう一個?」
「うん、まあそんなものかな」
 日南子は隠すように持ってきた皿を、綾の前に、ほい、と突き出した。
「これも入刀して」
 目の前に赤。 
 綾は突然目の前に突き出されたトマトの皿に苦笑いした。直径が八センチほどの真っ赤なトマトが、ヘタの部分を下にして、ドーンと置かれている。
「トマトが来た」
「それ、巧の案だぜ。そのトマト、好きにすればいいだろう? 煮るなり焼くなりして。むかつくんならにぎりつぶしてもいいんだぞ。触りたくもないんなら、俺がやる」
「……じゃあ、フォーク貸して。大きめのを」
「あの話みたいに、ガスの火で焼いて皮をむく?」
「そんなことしない。私の家ではトマトは皮はむかないから」
 綾は、渡されたフォークを振り上げた。
「こうするのよ。トマトなんて!」
 フォークは見事にトマトの真ん中に刺さった。
 他の三人は、その次はどうなることかと声を出さずに見守る。
 綾は、トマトが刺さったフォークを握ったまま、声を出して笑い始めた。
「あははは……ああ、すっきりした。楽しすぎ。うれしい企画、ありがとう。もう、あのことは忘れる」
「あのう、綾先輩、やっぱり部員がたった三人じゃあ少なすぎます。バイトがない日に、僕の今度の作品、読みに来てくださいませんか。いつものように、悪いところをしっかりと指摘していただきたいんです」
「巧もそう言っているんだし、気楽に顔を出せよな。トマトの件では俺もかなりまいったけど、ネットでうわさにもなっていないから安心しろ。身ばれはしていない」
「ねえ、綾ちゃん、トマトなんか見せてごめんね。でも、みんな同じ気持ちなの。つまり、綾ちゃんが部を辞める必要なんてどこにもないってこと。それでもどうしてもって言うなら、あたしたちはどうすることもできないけど、ちょっとの時間でもいいから時々部室へ寄ってくれない?」
「みんな……」
 綾はフォークを握りしめたまま、唇をかみしめ、何度も瞬きした。
「でも、私……何も書けない。書く情熱も根性も、あの作品と一緒にどこかへ飛んで行っちゃった」
「綾ちゃんがいないと、あたし、女ひとりになっちゃう。来てくれるだけでいいって、みんなが思っているから安心して部へ来て。ね?」
 日南子の方も、大きな目を潤ませている。
「日南子先輩もそうおっしゃっているんだし、綾先輩、お願いしますよ。復活してください」
「なあ、四月になったらさ、みんなで一丸となって新入生を獲得しようぜ。その準備もあるしさ、これから忙しくなるから、人手がほしいんだよな」
「……」
 綾はフォークから手を離し、うつむいていた顔を上げた。瞬きするだけでは涙はすぐに乾かず、たまった涙がぽろぽろと膝にこぼれた。
「私なんか……役に立たない」
「そんなこと言わないで。戻ってきて。お願い」
 日南子も、こらえきれない涙を指でぬぐう。
 しんみりした雰囲気を壊すように、幹雄は用意したつまみの袋を開けた。
「ま、好きなものを飲み食いしながら、これからのことをじっくり考えてくれればいい。俺たちは待っているからさ。今日はそれを伝えるための集まりだから。とりあえず乾杯しよう」
 飲み物がコップに注がれる。コップが掲げられ――
「ちょっと待って。乾杯って何に?」
 日南子がたずねると、綾が、鼻をすすりながら答えた。
「トマトの怨霊と決別したことに、でしょ? 今日は私のための会なら、そういうことにさせて」
 コタツの上には、フォークが刺さったトマト。
 綾はフォークに刺したトマトを再び手に取り、うらめしそうに睨んだあと、皿に戻した。
「冷静に考えたら『文笑』のことは痛いけど、こんなことぐらいでこの私が部を辞めるなんておかしいよね。みんな、ありがとう。いつもいつも人騒がせでごめん。なんだか元気が出てきた。私、やっぱり辞めない。これからもずっとよろしく。乾杯!」
 わーい、と拍手が起こり、四つの笑顔がはじけた。
「ケーキ、いただきます」
 綾はケーキに建てられている板チョコを取り除いた。
 『ずっとなかま LOVE』と文字が入っている。
 そして、そのままチョコを泣き笑いの口へ持って行った。



               【了】

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