菜宮雪の空想箱

25.医術師ロムゼウ



「わ、わ、わわ」
 エディンは言葉になっていない声を出しながら、動けなかった。
 扉の動きを止めているのは、下着すらつけていない裸の女性。両手は後ろに回された状態。手首と足首には、それぞれ白っぽい紐がぐるぐると巻かれて、しっかりと束ねられている。
 エディンに背を向けた格好ではあるが、曲がっている膝のせいで、なめらかな尻がこちら向きに付きだされるような形で扉に当たっていた。
 エディンは、扉の隙間から首を突っ込んだものの、どこを見ていいかわからないまま、意味不明な声をもらしていると、女性がしばられている身を不自由そうに動かして、こちらを振り向いた。涙を流している目が恨めしそうにエディンを射す。
「わー! 僕は何も見ておりません! 失礼しましたぁ」
 隙間から首をひっこめ、あわてて扉を閉めた。

 一気に汗が噴き出し、動悸が止まらない。顎まで伝ってきた液体に、エディンはようやく自分が鼻血を出しているのだと気が付いた。急いで居間の机の上に出ていた小布で拭いたが、まだ止まらない。目に焼きついた王女の裸。

 ――すごくきれいだった……身にまとっているのは包帯だけなのもまたなんとも言えず色気が……って、そんなことを思い出している場合じゃない! 駄目だ、鼻血を止めるには別のことを考えるのだ。王女の裸とは関係のないこと。

 これでは王子に借りた服を汚してしまうかもしれない。
 必死で王女の姿を頭の奥へ追いやり、鼻血を止めると、汚れた兵士の服に着替えることにした。
 どうせここから出ないのだから、今日一日ぐらい血だらけの服でもかまわない。そのうちに、ドルフの連絡が届けば、自宅から着替えが届くだろう。
 苦労して王子の服を脱ぎ、汚れた兵士の服を手に取ったところで、扉が叩かれた。一瞬緊張が走ったが、覚えのある声だった。
「ガルモ伯爵様、おはようございます。医術師のロムゼウでございます」
 急いで扉を開く。夕べの老医術師が、不機嫌そうな顔で立っていた。彼は肌着姿のエディンに眉をひそめたが普通に挨拶した。
「お二人の診察にまいりました。痛み止めとして、睡眠効果のある薬を飲んでいただきましたので、夕べはよく休めたと思いますが、お具合はいかがですかな」
 エディンは廊下をすばやく見て、誰も付いて来ていないことを確認すると、ロムゼウを王子の居間へ入れた。

「眠れすぎるほどよく効きましたが、薬が切れたのか、今は少し痛いです」
「診せてください」
 ロムゼウは、エディンをソファに座らせて、包帯が弛んでいないかを調べた。
「今日はこのまま固定しておきましょう。痛むなら、きのうお渡しした薬をお飲みください。おや?」
 ロムゼウの視線は、机の上に置かれた布に注がれている。そこには、王子の置き手紙と一緒に、エディンが先程鼻血を拭いて、真新しい血液が付いた小布もまだ片付けられずに置いてあった。
「あ、え……それはですね……私が……転んでちょっと鼻血が出まして……」
 照れ隠し笑いをつくったつもりだったが、唇の端だけの変な笑い顔になっていた。ロムゼウは「傷が開いたのでないならいいです」と言っただけでそれ以上何も突っ込んでこなかった。
「では、女性の包帯を交換しましょう。あちらは切り傷ですから、当て布を取り替えて、薬を塗り直す必要があります。まだお休みですかな?」
「ぎゃっ、あわわ」

 ――寝室には全裸の王女が! しかも縛られた状態で。

「ガルモ伯爵様?」
「彼女は……まだよく眠っています。眠っているのです!」
 必要以上に力んだ声になったエディンに、ロムゼウは白髪交じりの眉を動かした。
「では、夕べは一度もお目覚めにならなかったでしょうか。あれだけの傷、浅いとはいえ、痛くないはずがありませぬ。ぬり薬だけでは痛み止めには不十分。たとえ今眠っておられても、起きていただき、すぐに痛み止め薬を服用していただいたほうが、気持ちも楽になり、傷の治りも早まりますぞ」
 ロムゼウは寝室の扉へ勝手に向かう。寝室の鍵は、先程開錠してしまい、今は掛かっていない。
「お待ちください!」
 エディンは飛ぶように走り、寝室の扉の前に立ちふさがった。この扉を開けば、向こうに引っかかっているのは――

 絶対に、絶対に、あの姿を見られては困る。
 落城寸前の城を守る兵士の形相で扉を守るエディンに、ロムゼウは、足を止めた。
「ガルモ伯?」
「今は眠らせてやってください。目が覚めたら、また痛みが襲います。だから少しでも長く休ませてやりたいのです。勝手を言いますが、診察は後でお願いできませんか。私からのお願いです」
 エディンは取手を自分の背中に押し付け、ロムゼウが扉を開けられないようにした。「そうですか。そうおっしゃるならば、後でもう一度伺いましょう。他にも怪我人がいますので、すぐに来られないかもしれませんがよろしいですな?」

 医術師はあっさりとあきらめて、廊下への扉の方へ歩き始めた。エディンは扉から離れて、再びソファへ座った。実は、緊張で腰が抜けそうだった。廊下への扉に手をかけたロムゼウは振り返った。
「つかぬことをお伺いしますが……結局、夕べは、殿下の寝台を、あのままあの女性にお貸ししたのですな?」
「はい。彼女はあのとおり重傷ですし、ジーク様がそれでいいとおおせになったので」
「ほう……そうすると、殿下はどこでお休みになられたのですか」
「もちろん、寝室で――」
 エディンは、はっと自分の口を塞いだ。ロムゼウが何を言いたいのかわかった時にはもう遅かった。老医術師は黄色っぽい眼球を、ギロリ、と動かしてエディンに向けた。
「寝室で? ジーク様はあの女性と夜を共にしたとおっしゃるのか。なんと……殿下は数日で結婚なさる御身なのに、他の女性と寝台を共にしたなどとは。情報が城外へもれたらどうなさるおつもりか。ガルモ伯爵様、あの女性があなた様の恋人なら、ご自分が添い寝すべきでございましょう」
「う……そのとおりですけど……」
 弱々しい声になっていたが、勇気を振り絞って、精一杯の嘘をつく。
「ロムゼウ様、誤解なさらないでください。ジーク様は寝室へお入りになりましたが、寝台を彼女に譲って、ご自身は寝台の横で就寝なさいました。寝室の方が、二重に鍵がかかるので、この居間よりも安全です。賊が入って来るかもしれない危険があり、そうしていただくように私がお願いしました」
「では、あなた様はここで眠ったのですな? 殿下を寝室の床に寝かせておいて、怪我人の面倒を見させて、ご自分はこのソファでぐっすりとお休みになったと」
 棘のあるロムゼウの言い方。エディンは再びソファから立ちあがった。

 ――いっそのこと、すべてを打ち明けようか。

 しかし、王子が『誰も信用できない』と言ったことを思い出し、余計なことを言わないように心に言い聞かせた。
「申し訳ございません。そうすることが一番だと思いました。ジーク様に失礼なことをしたとわかっております」
「いくら殿下がいいとおっしゃったからと言って、なんでもやっていいわけではない」「私もそれは理解しておりましたが……」
 くどくどと言い訳していても、ロムゼウは不審の目を弛めてくれない。とにかくがんばるしかない。
 もう少し粘れば、この医術師は帰ってくれそうだ。後で診察に来たとしても、時間が稼げれば、王女に服を着せて診察に備えることができる。
「深夜に職務を放棄し、女性と密会した上、殿下をお守りできず、しかも、女性の介護までさせるとは。これはとんでもないこと。私から殿下に直接申し上げ――」
 ロムゼウは急に言葉を止め、エディンは息を飲んだ。二人は振り返って寝室の扉を見た。扉は開いてはいない。しかし、鈍く叩く音がした。叩くと言うよりも、足でけるに近い音が一つだけ耳に届いた。
「お目覚めのようですな。それなら、今診察しましょう」
 帰りかかっていたロムゼウは、再び寝室の方へ歩き出した。
「げっ! 駄目です!」
 エディンがあわてて立ちふさがる。
「なぜです。お目覚めなら入っても問題ないでしょう。薬を飲まないと、苦痛は長引きますぞ。早く楽にしてさしあげねば」
「楽にって……まさか、毒とかじゃないですよね」
 ロムゼウは、白髪の入った両眉を大きく動かし、はあ? という顔をした。
「何をお考えですか。このロムゼウが患者に毒を盛ると? 言いがかりはやめていただきたい。薬が信用できないなら、あなた様が毒見をなさればよろしい」
 ロムゼウは、エディンを押しのけるように扉の取手に手をかけた。
「駄目ですって。絶対に、やめてください。うあっ」
 ロムゼウに腕を引っ張られ、エディンは痛みで座り込んでしまった。
「失礼、ガルモ伯。さっさと診察を終えないと、私も後が詰まっておりますゆえ」
 ロムゼウは、寝室の扉を勢いよく開こうと――

 ――ああぁぁ! もう終わりだ!

 座り込んだエディンの横で、扉が細く開かれる。中を見た医術師の叫び声が響いた。

「ですから、今は駄目だと申しました……」
 扉はすぐに閉じられ、エディンはロムゼウに鼻血を拭くための小布を渡した。



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