菜宮雪の空想箱

2. 僕、仕事やめますから


 
 エディンは、廊下に入り始めた朝日に、ほっと息をついた。夜はまもなく無事に終わる。
 先輩のドルフは、闇にまぎれるように黒い毛布をかぶり、大理石の冷たい廊下で横になって眠っている。ジーク王子の部屋の入り口に立つ毎晩の警護は、こうして交代で仮眠を取らないと体がもたないらしい。
 ここの警護担当は、自分とドルフの二人しかいない、ということを知ったのは昨日だった。
 交代員がいない――そのわけはなんとなくわかった気がする。二人で守る場所に、担当が二人しかいないなら、夜の仕事休みはない。そんな事情を知ってか知らずか、城内を巡回する兵たちは、寝ているドルフの横を黙って過ぎて行く。

 やがて、カツカツと規則的に木を打ち鳴らす音が遠くから聞こえてきた。外回りの兵の交代の合図だ。エディンは、交代の時間には起こすようにと、ドルフに言われていたが、もう少し眠らせておいてやろうと思った。

 ――どうせ、今夜限り。変態王子を守る仕事など、やる気にならない。先輩が起きたら、やめます、と言おう。さっき言いそびれたから。

 エディンにとっては初めての仕事だった。夜間、ジーク王子を狙う者が侵入しないように、王子の部屋の前で、見張っているだけの単調な仕事。それでも城で採用されるには厳しい審査があり、誰でもここで働けるわけではない。胸を張って人に自慢できる職のはずだった。
 エディンは何度も外へ目をやった。こんなに夜は長かっただろうか。たった一晩で、王子を守る兵に採用された、という誇りはなくなり、すっかりくたびれてしまい、背筋を丸め、手に持っている槍が杖代わりになっている。立っているだけもつらいので、時々その場で座って休憩を入れるようにした。
 ふう……しゃがみ込んでため息をつく。その拍子に、先程噛みつかれた体が、かすかな痛みを思い出し、眉を寄せた。悪夢がよみがえる。


『ああっ、ジーク様、やめさせてくださいっ』
『あははは、エディン、楽しいだろう? 顔が赤くなっているじゃないか。ニレナは最高だ。こんないい子はいない』
 ジーク王子は機嫌よく声を出して笑っていた。夜の燭台に照らされる、整った王子の顔は、晴れやかで、男性から見ても、どきりとするほど魅力的だったが、あんな状況では見とれている余裕などない。
『ひぃっ!』
『服を脱いでもいいぞ。ニレナが噛み破ってしまう時がある。立っているのが辛いなら、この寝台に横になるか?』
 王子は穏やかな口調でそう言い、自分が今まで横になっていた寝台を指差した。エディンは首を大きく横に振った。
『い、いえ、いいです。くっ、ジーク様、ニ……ニレナ様を早くなんとかしてください』
『ニレナの方が飽きたら、そのうちにやめてくれる。ちょっと遊ぶぐらい、かまわないだろう? 怖がる必要などない。歯を立てるのは、ニレナの愛情表現だ。それが、なんともかわいいのだ』
 ジーク王子は、ベッドに腰掛けると、立ったままくねくねと身悶えするエディンの姿に、唇を弛めていた。
『エディン、ニレナが嫌いか? そうか、エディンは黒ネズミが苦手なのだね』
『き……嫌いではなく、わぁぁあ!』
 体を伝ったかわいい手足の感触。虫に体を撫でられているようで、こそばゆい、と思って身をよじれば、いきなりガブリとやられる。しかも、肌の敏感な場所ばかりを狙われる。
『お許しを。どうか……あぅ!』
 今後、男性として生きていけないのではないかと涙が出た。

 生々しい記憶に身震いする。あのネズミはそういうふうに調教されているのかもしれない。あれに耐えられる人間が、この世界に存在するのだろうか。いや、存在する。ジーク王子、という気高き御方が。
 思い出すだけで乱れそうになる呼吸を整え、眠るドルフに目をやる。そういえば、ドルフもニレナネズミの歓迎を受けた経験があると言っていた。それはいったいいつのことだったのか。この世渡りが上手そうな先輩も、最初は何も知らずに王子のネズミ遊びに付き合わされていたのか。
 エディンは、大声で泣きわめくドルフを想像すると、思わず、ブッ、と一人笑いの声が出てしまった。慌てて笑いをかみ殺す。

 ――ドルフさん、僕、この仕事やめます。

 心の中でそのセリフを言う練習をした。王子に忠誠を誓う気にならない以上、ドルフが目覚めたら、仕事をやめるとはっきり言うべきだ。王子の部屋を出た直後は、自分もあまりのことに興奮しており、何も言えなかったが、今度は言いそびれないようにしよう。
 いい待遇の仕事だと思ったが、待遇が他の部署よりも格段に上ということは、何かあるわけで。王はきっと、ジーク王子の秘密を知っていて、皆に口止めしているに違いない。隣国の姫との縁談も決まっている世継ぎの王子に、悪いうわさがあってはならないはず。


 長い夜がついに明け、朝日がゆっくりと昇り、辺りは徐々に昼色に変わってくる。覗き始めた光は、黒を薄め、灰色へ、そして白へと明るさを増してゆく。窓の外からドルフの顔に日が射してきて、彼は目を覚ました。
「なんだ、もう朝か。エディン、遠慮せずに、俺を起こせばよかったんだぞ。交代しよう。この毛布を使え」
「あと少しですから、家でゆっくり眠ります」
「そうか、俺ばかり休んですまなかった。今夜はおまえが先に休め」
「あの……実は、今日限りで」
「どうだ、楽な仕事だと思っただろう?」
 ドルフは毛布を畳みながら、エディンの言葉をさえぎって、一方的にしゃべった。
「ここの守りは、こうやって寝ていても誰も文句は言わない。一晩中神経をとがらせている城門の見張り役よりはずっと楽だ。ジーク様も俺たちには寛容。ここの仕事は、城の中では最高に楽で、しかもいい給料をもらえる」
「ですが、ドルフさん、僕は」
「ああ、耳栓の作り方なら、後で教えてやろう。材料は兵舎に置いてある」
「あの、僕」
「簡単だ。すぐにできる」
 ドルフは安心させるように、目じりをさげた笑みを浮かべて見せた。エディンの視線は自然に下向きになってしまう。
「あの、僕やっぱり、この仕事――」
「耳栓がある方がいいと思っただろう? あれはな、作り方にコツがあるんだ。適度に音が聞こえて、しかも、簡単に装着できないといけないし、小さすぎるとまた、耳に入り込んで取り出せなくなる。ちょうどいい大きさに材料を切ることも大事なんだが、問題はその丸め方で」
 ドルフはエディンに口をはさむ隙を与えなかった。
「耳栓の作り方をここまで極めるまでに、どんな苦労があったと思う?」
 ドルフは、これまでの耳栓制作についての苦労話を長々と熱く語り始めた。

「それでだな、材料は綿が一番いいと思った。俺はいろいろな形を作っては試したんだ。そうやって完成したのが今使っているやつなんだが、使い心地はどうだった?」

 ――どうでもいいです、どうせ僕はやめるのですから。

 そう言いかけても、熱心なドルフに申し訳なく、エディンは普通に答えてしまった。
「……とてもほどよく音が耳に入り、着けた感触もなかなかすばらしくてよく出来ていたと思います」
「わはは。そうだろう? あの綿の生地はな――」


 やがて、朝食の時間になり、王子を起こしに来る侍女と、王子と日中の行動を共にする身辺警備兵たちがやって来て、エディンとドルフのその日の仕事は終わった。

 ――結局、やめるって言いそびれた……

 兵舎へ引き上げるエディンとドルフ。
 廊下歩いていくドルフに遅れないようについて行きながら、エディンは先程言いたかったことを、勇気を出して口にした。
「ドルフさん、僕は、この仕事に向いていないと思うんです」
 ドルフは、長い廊下の真ん中で、一瞬だけ足を止めてエディンの顔を見たが、普通の表情のまま、またすぐに歩き出した。王城の大理石の床が二人の足音を刻む。返事をしてくれないドルフに、エディンはもう一度同じことを言うと、今度は言葉が返ってきた。
「仕事が嫌なのか? それなら、扉の警護は俺に任せて、おまえは毎晩、ジーク様のお相手をしてもいいぞ」
「へ? お相手ってまさかジーク様は男色……」
 エディンは息を詰めて、普通の顔で歩いて行くドルフの顔を凝視した。ドルフは、厚い唇をにんまりと横に伸ばした。
「勘違いするな。べつに、俺はそんなことは言っていないぜ。ジーク様のお相手をする、と言ったら、ニレナネズミのことに決まっているだろう。おまえが望むなら、ネズミの餌食になって見せて、ジーク様を喜ばせればいいんだ」
「なっ! とんでもないです。あれはもう二度とごめんです」
「ジーク様はおさびしいのさ。同じような年齢のご友人も城内にはおられず、お話し相手は、あの黒ネズミだけだ」

 ――ドルフさん、違うんだよ。僕はやめたいんです。仕事をやめるって言っているのに。ジーク様がさびしいとかって僕には関係ないんです。

 エディンは言葉を飲み込み、ドルフの話に合わせた。
「おさびしいって、そんなことはないでしょう。来年にはご結婚なさるのですから」
「おい、もっとひそひそ話さないと首が飛ぶぞ」
 ドルフは急に声を小さくした。
「まあ政略結婚だから、気が乗らないんだろう。だから、よけにイライラして変な遊びに走ってるのさ。俺はそう思うぜ。ニレナ王女の十八歳の誕生日が結婚式と決まっている。楽しみだな。おまえはどうなると思う? 王女が、あの黒ネズミのことを知ったら」
 ドルフは、ぎゃははは、と目尻にしわを作って笑った。
 エディンもつい、声を出して笑ってしまった。

 恋愛ではないジーク王子の結婚。政略結婚――お互いに好きで好きで、というわけではなく、国のために仕方なく結婚。お相手は隣国の王女『ニレナ』。あのネズミの名前の元。
 麗しのジーク王子が、あんな黒ネズミと裸で遊んでいることを相手が知ったら。それに、一国の王女とネズミの名を同一にするとは無礼すぎる。どう考えても、おもしろいことになりそうだ。
 
 エディンはつい声がはずんでしまった。
「うわ〜、それって、すごいことになりますよね。ニレナ様が怒って結婚がうまくいかなくなるのではないでしょうか」
「わははは。おまえも、そう思うだろう? ジーク様の初夜だけは、俺は耳栓をしないぞ。楽しそうだ」
 エディンは、様々な妄想が浮かんで、ドルフと共に、にやけているうちに、兵舎に着いてしまった。

 ――しまった、また言いそびれた……

「エディン、これが耳栓の材料だ。少し分けてやるから、なくなったら自分で買えよ」
「あ、あの……」
「ん? 足らないって言うのか? それだけあれば当分大丈夫だぞ」
「そうですか……」
 ドルフは、紙の子袋に入れた耳栓の材料を、袋ごとエディンに渡すと、着替えにかかった。私服に着替えたら、城外の自宅へ戻り、夜になったら、また出仕する。
 エディンは、黙って材料を制服と一緒にして、自分の収納棚にしまい、ぐずぐずと着替えにかかった。

 ――耳栓なんか、しまっている場合じゃない。僕はこんな仕事は嫌だ。もういらないんだから、返さないと……

 エディンは、ドルフの横顔を見つめた。さっさと制服を畳んで、指定の棚にしまっている。どうも言いにくい。自分がやめれば、この男は一人きりであの部屋を守ることになる。それでも、どうしても言わなければ。代わりの兵など、いくらでもいるだろう。何も自分が犠牲になることはないのだ。
「ドルフさん、僕は」
「そうだ、言い忘れていたが、欠勤は大罪扱いだ。牢獄送りだけでなく、鞭打ちのおまけもあるからな、具合が悪くても必ず来い。その時は、俺が夜通し見張りをやるから、おまえはジーク様が部屋へ入ったら、すぐに毛布をかぶって眠ればいい。じゃあな。また今夜」
「あ、あの」
 兵舎を出て行ったドルフの背中は、扉の向こうに消えた。

 ――僕、やめたいんですけど……やめたいんです。絶対にやめます! あんな王子を守る仕事なんて嫌です! ……って言いたかったのに。

 エディンは心の叫びを出せないまま、兵舎を出てうつむきがちに自宅へ向かった。

 一方、一足先に城を出たドルフは、軽い足取りで歩きながら、にたにたと笑った。ドルフのひとり言に、すれちがう人が思わず振りかえる。
「エディンか……前のやつより長続きしそうだ。やめたいくせに、はっきり言う根性もない。ニレナ王女の話題につられて、言いたいことを出しそびれるとは、あれは人に流されてだらだら続ける性格らしい。仲良くできそうだ。ぎゃははは……」


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※この章は2009/7/29 ブログの方で、10000ヒット感謝として発表。一部修正しました。