菜宮雪の空想箱

10.脱衣所にて



 「今夜はおまえが先に休め。昼間はネズミ探しで眠れなかったんだろう?」
 ドルフがそう言ってくれたので、今夜はエディンが先に仮眠をとることにした。

 エディンは、毛布をかぶり、廊下に横になったが、何か普段と違う気がして、眠る気にならない。すぐそこに立っているドルフの顔を見上げると、彼も落ち着かない様子で、目と首をせわしなく動かしている。

「ドルフさん? 何か怪しい物音でもしますか?」
 エディンが身を起こすと、ドルフは、ふっ、と鼻から息を出して笑った。
「いや、不審者はいない……と思う。ニレナネズミがいないとジーク様の叫び声がないだろう。静かすぎて居心地が悪い」
 ドルフは指先を使って、ボリボリと自分の頬を掻いている。
「……私も、そう思います。最初は驚きましたが……」
「これが普通なのだが。これで、耳栓が必要なくなるかもしれないと思うと、今度は少しさみしい気もするぜ」
 エディンも苦笑いしながら同意した。ここ半年で耳栓が習慣としてすっかり身についていたので、耳に詰め込むことなく夜が終わることは、どこか物足りなさを感じた。
「この静けさに慣れるまで時間がかかりそうですね」
「そうだな。あんなにやかましかったからな」
 二人はうなずき合い、夜の静けさの中で時を過ごした。



 翌朝、仕事が終わった二人は、すぐに行動した。ドルフが、使用人の手配と、ニレナ用檻の購入を請け負ってくれたので、エディンは速攻で自宅へ帰った。
「ただいま戻りました」
 いつも玄関で出迎えてくれるはずのフィーサの姿がない。
「母さん……?」

 静かな家へ入ると、ため息が出た。ニレナを入れて持ってきた菓子箱は、空のまま居間のじゅうたんの上に放り出されている。母も妹もその部屋にはいなかった。
「ルイザ! どこにいる」
 走る嫌な予感に、母親の寝室へ走った。扉を叩くと、妹のルイザが青い顔を見せた。
「あ、お兄様……お帰りなさい。お母様がね、今朝倒れてしまったの」
「何だって! どうして」
「ただの寝不足よ。私たち、ネズミ探しで疲れたの。もういやよ。お風呂の支度だけはしておいたから、後は自分でやって。台所に焼いたパンがあるから、お腹が空いたら食べてね。私、今日は何もせずに眠るわ」
 妹は、だるそうに目をこすると、エディンの横を抜け、自室へ向かおうとする。
「ルイザ、おい、ネズミは見つからなかったんだな?」
「見ればわかるでしょ。私だって、逃がしてしまった責任は感じているから、明け方までがんばって探したのよ。許して。もうどうでもいいじゃないの、ネズミなんて」
 妹はあくびをすると、さっさと自分の寝室へ行ってしまった。

 エディンは母親の眠る寝室へ静かに入った。母親は大きな寝台の中で、ぐっすりと眠っていた。カーテンが引かれた薄暗い部屋の中でも、母の閉じた目が落ち窪んでいることがわかる。起こさないように母の額にそっと手を触れ、熱がないことを確かめると、足音を忍ばせながら寝室を後にした。

「くそう……ニレナめ。捕まえたらただじゃおかない。ジーク様が忘れてくださるのなら、見つけたらたたきつぶしてやるのに」
 舌打ちしながら、怒りをつぶやきつつ風呂場へ向かう。誰もいない、だだっ広い脱衣所で服を脱ぎ始めた。
 と、その時、カサカサ、とすぐその辺りで何かが動く音がした。
「ん?」
 上半身だけ裸になっていたエディンはパッと振り返った。何も見えないが、小さな物音は途絶えていない。無意識に眉が寄る。
 音のする方へ歩き、音源を確かめた。何かをかじったり引っかいたりするような音が連続している。物音は、どうやら湯上り用の布などを収納している木製戸棚と、壁の間から出ているようだ。顔を壁に押し付け、狭い隙間を覗いたが、ネズミの姿は見えない。
 ――それなら。
 エディンは、すぅ、と息を吸い込んだ。
「いとしの姫ニレナ〜 この花束を大好きな君に〜」
 戸棚の裏へ息を送り込むようにし、ニレナの呼び出し歌を小さな声で歌う。
「愛しているよニレナ 受け取ってくれるかい」
 耳に神経を集中させる。
 歌が始まると、引っかき音がぴたりと止んだ。
 ちゃんと聴いている……やはりそこにいるのはニレナネズミ。エディンは、ほくそ笑んだ。
 何か捕まえる物が欲しいと周りを見回すが、脱衣所には檻になりそうな物は何もない。とりあえず、今脱いだ自分の上着を両手で持ち、背中の部分を広げるようにして身構えた。
「この愛の花束 僕の気持ちを〜」
 これがジーク王子の声ならば、歌が終わるころには、ニレナは登場するはずだが。
「ああニレナ 愛する君に 僕は」
 ――静かだ。
 空気の乱れはない。逃げたのかと、歌を止め、目を細めて、狭い隙間を覗く。濃い灰色の埃の空間。その奥にいるかどうかは確認できない。
「出て来いよ、憎らしいネズミめ。そこにいるんだろう? やっぱりジーク様の声じゃないと駄目か。何度歌わせたら気が済むんだ」

 エディンは、上着を広げた姿勢のまま、ニレナが飛び出してくるのを待ち続けた。
「おい、いないのか? どこにいる」
 ただ静寂。飛び出してくるだろうと、緊張しているエディンの息遣いだけが、脱衣所で生きている物の気配。
「さっさと出てきてくれ。寒いじゃないか」
 何の反応もない。
「いい子だから、頼むよ」
 ジーク王子になったつもりで、やさしく語りかけてみた。
「僕は風呂に入りたいんだ。ニレナ、いい子だから」
 静けさの中に、エディンの声がむなしく吸い込まれて行く。

 そのまましばらく待ち続けたが、ネズミが出てくる様子はない。どうやら、歌で出てくるどころか、逆に逃げてしまったらいい。
「畜生、クソネズミが!」
 上半身裸なので、だんだん寒くなって来たエディンは、悪態をついた。ついにあきらめて上着をそこへ放り出し、風呂へ入ろうと服を全部脱いだ――が。

「うあぁぁー!」
 まるで誰かに殺される時のような大きな声が、自分の口から発せられ、室内に反響した。
 ――これは。この感触は。今、僕の左足を登って。

「やめろっ、このっ、変態ネズミ」
 エディンの脇腹に、黒毛の小さな生き物が噛みついていた。



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