8.
――呪う!
汗とも雨ともわからない水が、友香のこめかみからしたたり落ちた。
なんてことだろう。やっぱりこいつは妖力を持った妖怪のたぐいか。思い通りにならないと呪うのか。
そのまま友香が黙っていると、河童のアリマセは、ペロリと長い舌を出した。
「なんちゃって、それも嘘ですよーん。僕にはそんな能力はありません」
この河童め。
「もうっ! あんた、ふざけているわね! 人間をからかうとろくなことないよ。さっさと池へ帰んな。えいっ!」
友香は力まかせに、河童を突き飛ばした。河童の体は軽く、友香の力でも遊歩道がある二メートルほどの高さの土手から転がり落ちるには充分だった。
彼の姿は大きな水しぶきを上げて池に飲み込まれた。
「疲れた……なんだったんだろう、あの河童」
いつまでも雨の中に突っ立っているわけにはいかない。脱力感にさいなまれながら、自宅へ向かってのろのろと歩を進める。池の中は見ないようにする。あの河童がまた浮上してきそうだ。
と思ったら、浮上してきたじゃないか。
アリマセはポンと飛び上がるように陸に上がり、四足状態になると、驚くべき速さでするすると土手を這い登り、またしても友香のいく手をさえぎった。友香は口から出かかった悲鳴をかろうじて抑えた。
「今度は何よ。マジで警察呼ぶよ?」
手にしたケータイを見せつけたが、アリマセは動じない。そもそも、警察がどういうものなのか理解できていないかもしれない。
「僕の修行はこれで終わりです。本当に修行は終わったんです」
「それも嘘でしょ。修行のために上陸したわけじゃないって、自分で言ったじゃない」
「どんな嘘をついても、目的が達せられたらそれでいいんです。池の中を見てください」
友香が暗い水面に目を凝らすと、大小さまざまなお皿が水中の浅い場所でうごめいているのがわかった。
「お仲間が」
「僕の一族たちです。これで僕はみんなに認められました。人間で言うところの、拍手が聞こえないでしょうか」
雨の水面は大きな輪がいくつもでき、波打っている。
「みんなが僕を祝福してくれている。あなたのおかげです」
「あのね、一方的に盛り上がられても、あたし、あんたと付き合うの、無理なんだけど」
「あなたはこんなにも僕とたくさん話をしてくれた。感謝しています。僕は楽しかった。だから、これからもお友達でいてほしいんです」
「うーん、友達ねえ……」
池に目をやる。水中で揺れる無数のお皿たち。その下にある瞳のどれもが、友香のことを見ているのだろう。この池にこんなにたくさんの河童がいたとは。ここがそんなに深い池だったとは思いもしなかった。
「あたしが友達になるのも嫌だって言ったら?」
「それはみんなが決めることです。みんながあなたのことを嫌いならば、僕もみんなを止めることはできないんで、すみません」
「なにをあやまってんの?」
「みんながあなたのことを殺したいと思うなら、そうなるでありましょう」
「なっ」
――ってことは、河童たちに八つ裂きにされて食べられると? そんな!
まさか、それはないだろうと自分の中で否定。
「あんた、あたしを脅迫してるよね」
「いえいえ、とんでもない。僕はあなたともっとお話がしたいだけです。みんなが期待しているんですよ。人間の話をたくさん聞きたいと」
友香は深いため息をついた。どうやら、自分に決定権はなさそうだ。
「わかった。どうしてもって言うなら、少しの間だけ友達としてしゃべってあげることにする。だけど、ひとけのない雨の夜しか、あんたは出てこられないんでしょ。なら、あたしとはほとんど会うこともないと思うよ。今日はたまたま特別に遅い帰り時間だし、あたし、雨の日にいつまでも外にいたくないし。友達になってもいつ会えるかわかんないよ」
しぶしぶそう言うと、池の水面が激しく波立った。
ザバザバと河童のお皿たちがさらに揺れ動く。
アリマセは誇らしげにあごを上げた。
「見てくださいよ、僕はついに人間と友達になりました。みんなが喜んでいるんだ」
「あっそう、よかったね」
友香は棒読みで返した。
「では、そろそろ僕はこれで失礼します。今日のところはこれぐらいで。あまり長く外へ出ていると苦しいですから帰ります。ごきげんよう。今度は名前を教えてください」
アリマセは機嫌よくそう言い放つと、ドボンと池に飛び込んで、すぐに姿を消してしまった。池の中に見えていた無数の皿たちの姿も同時になくなった。
あとに残された友香は、河童たちが消え去った水面を茫然と見ていた。
「は……帰ってくれた……のかな……」
汗で背中が冷たくなっていた。
どうやら、呪われることも、食い殺されることもなく終わったようだ。
<前話へ戻る 目次 >次話へ ホーム