7.
さらにひと月ほど経ったある日。
その日は秋雨前線が活発化し、夕方から強い雨が降り始めた。
仕事帰りの友香は、足元を濡らしながら、例の池のある公園横の土手を自宅へ向かって歩いていた。台風が来たあの日のように、冷たい雨がハーフコートの裾にはじかれて落ちる。
この日は残業で、ここを通る時間はいつもより遅く、時刻は午後九時近iい。
友香は歩きながらあの河童のことを思い出していた。
河童との奇妙な夜のことは自分だけの秘密。
最初は、そこの桜の木の辺りにいた。
枝が道まで張り出しているひときわ大きな桜の横を通り過ぎる。
「あのう」
突然背後からかけられた声に、友香は悲鳴をあげそうになった。すぐ後ろには誰もいないと思っていた。街灯の灯りはあるものの、夜に女ひとり歩き。静かな住宅街であり、人目はほとんどない。
ひゃっ、と振り返って驚きの声を上げた。
「あんた! あの時の河童」
桜の木の陰にうずくまっていたカメのような甲羅。みるみるうちに、毛の生えた手足が出てきて、すっと二本足で立った。
友香は思わず周りを見回した。大丈夫。近くには誰もいない。
「憶えていてくれましたか。僕はあの河童です」
河童はうれしそうに口をパクパクさせる。
「おかげさまで、無事に池へ戻れました」
「そっかー、よかったね。あの時はガラス修理を手伝ってくれてありがとう。あ、そうそう、あの指輪、返さなきゃ。あれね、結局誰のかわからなかった。池へ投げ込んでおこうか?」
「いえ、あの指輪はどうでもいいんです」
河童はもじもじと自分の両指先をこすり合わせている。
「僕としては、あの指輪のことなんて、たいしたことではないんです」
河童は言いにくそうに首を縮めた。
「今日はまた肝試し?」
「そうじゃなくてですね……あのう……」
河童は上目使いに友香を見る。
「実は、僕がこの前言ったことは、ほとんど嘘です」
「へっ? なに言ってんの?」
「あの指輪を手に入れた経緯も、指輪がお宅のものだってことも、僕が河童の王子様だってことも、全部嘘です」
「全部って……」
友香は眉を寄せた。
あの河童が池の中で立派な大人としてみんなに認められて、誇らしげに微笑んでいる場面を妄想していただけに、激しくがっかりさせられるネタばらしに、頭を殴られた気分になる。これはいったいどういうことだろう。
「……ってことは、あんたは河童の王子様ではないのね。まあ、あんたが王子様であってもなくても、どうでもいいけど、全部嘘だって急に言われてもねえ……混乱するじゃない。じゃあ、あの指輪は誰の?」
「わかりません。池の泥の中に沈んでいたのを僕が拾いました。お宅のものだってことも嘘です」
「投げ込まれた現場をあんたのお父さんが目撃したって話も嘘?」
「はい、その部分は作り話です。テレビで似たような場面を見たので、その場面をまねて適当に脚色しました」
「脚色って……なんで、そんな話を作ったのよ」
「あの、僕はですね、人と話がしたくて」
なによ、この河童。調子よくしゃあしゃあと。
だんだん腹が立ってきた。真剣に指輪の持ち主のことを考えていた自分がバカだった。
友香の言い方はきつくなる。
「あんたが嘘つきでも、あたしが不快なだけで、特に生活に支障はないけどさ、今度はあたしに何の用よ」
「まだ、お名前を伺っていませんでした」
「名前を知ってどうすんの」
「知りたいんです。あの……あのう……僕、こんな河童ですけど、友達からお願いします!」
河童は、後ろ手に持っていた水草の花束を差し出し、深く頭を下げた。
「はあ?」
白く小さな花がついた水草の束が、友香に向かって突き出されている。
これではまるで、婚活テレビ番組の告白シーンと同じではないか。この河童はどこでそんなやり方を覚えたのか。
雨が降り続けている。街灯の灯りしかない公園池の土手上の歩道。目の前には頭を下げ続ける身長五十センチほどの河童。
「友達からでもいいんです。お願いします」
怪しすぎるこんな光景、誰かに見られたくない。さっさと断って帰るべきだろうが、突っ込みどころが多すぎて言葉がすぐに出てこない。
――交際の申し込みだと思っていいのかな。この場で返事をしろと?
河童を凝視。やっぱり、どこをどう見ても河童だ。変な河童。こやつ、まだ他にも嘘をついているかもしれない。
「あんたさ、人に名前を聞くんなら、まずは自分が名乗るべきでしょうが」
「そうでしたね、すみません、僕の名前はありませ」
友香は怒りを隠しもせず、きつく言い返した。
「ふざけないで。自分の名前も言わないやつとつるむ気はないから。もうあたしに付きまとわないでね」
「ですから、アリマセです。それが僕の名前です」
「アリマセ君? アリマセンって聞こえちゃった。それは失礼。じゃあね、アリマセ君、さよなら」
近づこうとする河童にかまわず、歩き出す。
――河童にからかわれた!
こんな雨の中、嘘つき未確認生物のたわごとなんぞに付き合っていられない。
河童は友香の前に回り込んで、再び頭を下げた。
「お願いします。話を聞いてください」
「もうその手には乗らないわよ。どいて」
「言ったことが全部嘘ってわけでもないんです。僕は王子様でもなんでもなくて、一族のきらわれ者です。人間の友達を作って、みんなを見返したくて、時々陸へ上がっていました。人間の言葉と生活習慣を勉強して」
「あんたの事情をつらつら述べられたところで、どうってことないから」
「人間の家を覗いたら、窓越しにテレビが見えて、男性がこうやって女性に花を渡して頭をさげる場面を見ました。僕は、それがお友達になる最良の方法だと信じています」
「テレビの影響はわかるけどねえ、それも作り話かもしれないじゃない」
「テレビは時々覗いています。ほら、あそこの家、夜いつも、カーテンを閉めずにテレビがついていることが多いじゃないですか。庭からよく見えるんです。塀も池もあるし、道路から見えにくくて僕が隠れるのに最適なんですよ」
「あんた、よそのテレビをのぞき見してるってわけ」
「僕、テレビは大好きです」
河童はまったく悪びれる様子がない。
「テレビはいいですねえ。指輪は女性にとって大切なものらしいと学習し、拾った指輪をあなたに渡しました。どうか、僕の気持ちを受け取ってください。お願いしますよ」
「それがなんであたし?」
雨が冷たい。しつこい河童だ。早く帰りたい。
「あなたは停電の夜に、僕を道端で見かけたはずです。家にもお邪魔させてくださった。必要以上に騒がなかったから、あなたに決めました」
「初めの時は、雨がひどかったから、あんたのことなんてどうでもよかっただけ。別に、友達になるなら、あたしじゃなくてもよかったってことでしょ」
「いいえ、そうではなくて、僕はあなたが気に入りました」
「それも嘘よね?」
「違います。これは本当です。そうでなければ、家にまで追いかけたりしません。僕の友達になってください。お願いします」
「無理」
「どうしても僕を拒絶するなら」
「どうなるのよ」
「呪ってやる」
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