4.
――で、なんで、こうなってるの。
揺れるろうそくの炎の灯りに照らされた河童の満足そうな顔。
居間のソファ、河童が友香の隣に座っている。
河童はどうやら男らしい。『僕』と言っているのだから。下半身がどうなっているのかはじろじろ観察していないから不明だけれど。
おかしなもので、河童に対する恐怖はほとんど感じなくなっていたが、これがなんなのかの疑問は残る。
彼が河童だと言うのだから、おそらく河童なのだろう。宇宙人ではなくて。人助けできるいい人。いや、いい河童さんだ。
よく考えれば、これは男性と二人きりの夜。しかも停電のおまけつき。恋人同士ならば、きっと肌を寄せ合って、あんなことや、こんなことまでしてしまうかもしれない。だけど相手は恋人でもあこがれの人でもなく、突然やってきた河童。ラブロマンスもムードもあったもんじゃない。
友香はとりあえず素直に礼を述べた。
「河童さん、なんだか、変な感じけど、手伝ってもらって助かったよ。ありがとうね。本当なら、お茶でも出して感謝の気持ちを示すべきなんだろうけど、停電だから許して」
河童はごきげんよく微笑んだ。
「いやあ、僕の方こそ、助かりましたよ。僕はね――うっ」
いきなり、河童がソファから転がり落ちた。
ろうそくの灯りの中、ピクピクと全身を震わせて苦しそうな河童の姿に、息を飲む。
「河童さん! 河童さんってば」
「うう……すみません……水を……ください」
「そっか。河童だから、乾くとまずいんだね」
「水……早く……」
◇
「ふう……助かりました」
友香の手で水なし浴槽の中に放り込まれ、シャワーを頭から浴びた河童は、にこやかに笑った。ついさきほども笑っていると判断したが、たぶん、これが笑っている顔なのだろう。彼のカエルのような口が横に伸びているからだ。
友香は、懐中電灯で、浴槽の中で体操座りをしている河童の全身を照らした。
両手足先は水かき付き。体全体に茶色っぽい毛。アザラシの毛を多少長くしたような毛は、頭頂部と顔だけは生えておらず、地肌はきれいな緑色。黒っぽい甲羅には、よく見れば、カメのように六角形の模様がついていた。白い部分がない眼はまん丸く、奇怪な体とはアンバランスに感じるほど愛らしい。突然人の家におしかけてきたやつなのに、どうにも憎めない。
友香はひと呼吸置いて河童に訊ねた。
「ところで、あんた、なにをしに来たの?」
「それはですねえ、えっと……」
「なに」
「ですから、僕が河童の王子様だからです」
またそう言うか。
この河童は人間をからかいに来たのだろうか。それとも、これは着ぐるみで、実は中身は人間とか言う?
「王子様って、さっきも聞いた。それでは質問の答えになっていないよ。笑わせないで」
どこか間抜けな河童がほほえましく、ありえないおかしさで顔が緩みそうになる自分を叱り、顔を引き締めて真面目に問う。
「ねえ、ここへ来たのはどうして」
「僕は一族の長の息子です。僕の世界では王子という言い方はしないですけど、そう言う方がわかりやすいと教えられてきました。ここへ来たのは試験のためです。一族に認められて大人になるための」
「ふーん。肝試しみたいな感覚かな。それは大変そうだけど、うちを肝試しの会場にしないでよ。そういうことならよそでやってほしいわ」
「肝試しって初めて聞く言葉です」
「そっか、わからないよね。あのね、肝試しってのはね、ちょっと怖い場所へ行って根性を試す遊びのこと」
「僕がやっていることが肝試しなのかどうかはわかりませんが、僕がお邪魔するのはこの家でないとダメなんです。実は、これを渡したくて」
河童は、一本の指輪を、水かきが付いた手のひらの上に出した。
かばんらしきものも持っていない河童がどこに指輪を隠し持っていたのか、不思議に思ったが、友香は受け取った。
シンプルな銀色の指輪。結婚指輪だろうか。内側に文字が刻まれているが、懐中電灯の明るさでは読めない。
河童は説明を始めた。
「その指輪は、この家の人の持ち物だと、一族の者が言っていました。この持ち主の家に上がって、きちんと返すこと、これが、僕に与えられた課題です」
「せっかく来てくれたけど、これ、あたしの指輪じゃないよ。家族のかもしれないけど、みんな、今日に限って出払っていて、今は持ち主を確定できないから返す」
「そうですか……」
友香が指輪を返すと、河童はがっかりしたように、下を向いてしまった。
本当に落胆している様子で、よくわからない生き物とはいえ、少々かわいそうな気もする。
「その指輪を持ち主に渡すことが課題ってこと?」
「そうです。簡単そうですけど、僕らにとってこれは命がけなんです。人間に見つかったら捕まって殺される危険があります。僕らは妖怪扱いされてどんどん殺されてきたから数が少ない。だからこそ、命がけでも人間界を研究し、いかに生き延びるかをみんなで考えることが、僕らには必要なのです」
河童は透明まぶたをぱちぱちさせながら、よどみなく語る。
「僕らの行動は大雨の日限定で、多くの人間と会うことはできません。それでも、僕らを虐待しない一部の人間を見つけ出して、交流することも課題に入っていまして」
「交流……」
河童はうなずいた。
「水が切れるとすぐに死にかかってしまう僕らが、乾燥した人間の家に上がることも課題のひとつです。それはクリアできましたが、指輪はここのお宅の物ではないのでしょうか。うへえ、どうしよう」
「それはあたしの両親に聞いてみないとわからない。両親はしばらく帰ってこないから、申し訳ないけど、今日は結論が出せないの」
「その指輪、預かっていただくことはできませんか」
「できないこともないけど、どうしてそれがうちの家族の物だとわかったの?」
その疑問に、河童は素直に答えてくれた。
「僕の父から聞いた話です。ある日、池のほとりで一組の男女がけんかをしていたらしいです。で、男性の方が怒って女性の指からそれを抜いて、池に投げ捨て、その後、この家に入っていったのを父が目撃したのです」
「それ、何年前の話?」
「さあ」
生まれたときから今まで彼氏がいない友香には、そんな場面、もちろん、身に覚えがない。
友香は頭を巡らせた。
――ということは、弟? あの奥手で子どもっぽい弟に指輪を渡すような彼女がいた? 弟が付き合っていることを家族すら知らなかったのに、近所で彼女とけんかして、指輪を投げ捨てるようなまねをするなんてね……それはない。弟ではないみたい。
もしかすると、もっと時間をさかのぼって両親の時代かも。河童の顔にはしわはなく、年齢は推定できない。
友香は言い方をやさしくした。
「あのね、それ、いらないから捨てたんだと思う。その男の人の家がここだって言うなら、最悪の場合、それは私の母の指輪じゃなくて、私の父が他の女の人と別れたときに捨てた指輪だった可能性があるよ。そんな話、父から聞いたことはないから知らないけれど、それは思い出したくない指輪かもしれないから、誰にも見せない方がいいんじゃないかな」
「そ、そうなんですか!」
河童は急に大きな声になった。目がしょぼついて、絶望感がにじみ出ている。
「おお、僕はどうすれば」
「今、あたしが言ったことは、あくまでも可能性の問題だから、真実はわからないよ」
「うわあん、これで僕は試験失格です。一生さげすまれて生きるんだ。人生終わりました」
河童は空の浴槽の中で背中を丸めて頭を抱えた。
「あんたの世界だとそうなっちゃうわけ? じゃあ、あんたがかわいそうだから、その指輪、あたしが預かってあげる。うちのじゃなかったら適当に処分するけど、それでいい?」
「ありがとうございます!」
河童はパッと目を輝かせた。
「受け取っていただけるのですね? 万歳! これで、僕の用は済みましたので、そろそろ帰らせてもらいます」
気持ちの切り替えと行動が早い河童のようだ。
「そうだね、停電のうちに帰った方がいいよ」
「ではこの指輪をお受け取りください。これで課題はオールクリアです」
浴槽の中に座り込んでいた河童は、立ち上がると、うやうやしく腰を折り、手を伸ばして友香に指輪をささげた。
「ふふふ。河童さんから指輪をもらうなんて、なんか笑える。これが私の両親の指輪だといいね。明るくなったら刻印を見てみる」
「ありがとうございました。……うぅ!」
突然河童がブルブルと震え始めた。
「河童さん、どうしたの?」
「ひいい。ふぇぇぇ」
「なに? どうしたの? ちょっとお」
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