菜宮雪の空想箱

7.筋書きどおりには



 そして、その日の夕方。
 昼寝の時間がとれなかったエディンは、暗い顔つきのまま夜の勤務に出た。ドルフと供に、いつも通りジーク王子の寝室を点検している時に話を切り出した。あのにくらしい黒ネズミのことを相談できるのは、この大先輩ドルフしかいないのだ。

「ドルフさん、あの……お話があります」
「何だ」
「ちょっと相談に乗っていただきたくて」
「仕事に関する不満なら、兵庁の方へ直接言えばいい」
「仕事のことは――」

 ――また後日、辞める話をします。でも、今はそれよりも。

「大変なんです。今朝預かったアレが逃げてしまいました」
 神妙なエディンに、ドルフの黒く丸い目が大開きになる。
「アレって、ニ○○様か?」
「はい……行方不明になってしまいました。本棚をどけて必死で探したんですけど、見つからないんです。ジーク様に何と報告すればいいのか……」
 ドルフは、ふ〜ん、と少し考えていたが、やがて、ニヤリ、といつもの笑いを見せた。
「報告する必要なんかないだろう。黙っていればいい。ジーク様は結婚したら、あんなネズミのことなど忘れておしまいになるさ」
「そうだと思いたいですけど、ジーク様は一時的に預けるだけのおつもりだったと思うので……」
「その様子だとずいぶん探したようだな。眠れなかったのか」
 ドルフは、目の下が黒ずんでいるエディンの顔をじろじろ見た。心配する、というよりも、楽しそうにしている。
「はい。眠る気にもならなかったです。壁の穴の中に逃げられてしまって大騒動だったんです」
 エディンは家で起こったニレナの逃走の様子を事細かに話した。


「――それでですね、本棚の後ろの穴の中へ棒を突っ込んだんですけど、出て来ないんです」
「おまえの家に、ネズミが巣食っていたのか」
 ドルフは、ガハハと大きく口を開けて笑った。
「そんなことだったら、餌でおびき出せばいいだろう」
「やってみました。穴の前にチーズを並べて静かに待っていました。いつまで待っても出て来ないんですよ」
「まあ、そうだろうな。棒で穴をつついて脅かしたなら出てくるわけがない」
「あの歌だって歌ってみたんです。恥をしのんで、母と妹の前で歌いましたよ。母たちは目を丸くして驚いていました。気が狂ったとでも思ったみたいで。この部屋でネズミに弄ばれたことだって、母と妹に告白しました。私は、そんなことまで家族に知られてしまいました。こんなにしてまでがんばったのに……それでも……出て来てくれないんです。声の届かないところまで逃げてしまったのかもしれません。ドルフさん、もう、どうしたらいいかわかりません」
「で、俺にどうしてほしいんだ」
「あの、本当に困っていて……何かいい案はないかと思いまして。うちには使用人はいませんし、世間知らずの母が、今も一人きりで家中を必死で探しているはずです」
 ドルフは、しょんぼりしているエディンにはお構いなしに、また大声で歯を見せて笑った。
「おまえ、ちょっと考えすぎだろう。逃げたなら面倒見なくていいんだから放っておけ。どうせ、ネズミを寝室で飼うなんてニレナ王女が許さないに決まっている。ジーク様はネズミのことなんか、すぐにお忘れになる。見ろ、この美しく、愛らしいニレナ王女の肖像画を。ジーク様だって、大切なのはネズミよりも王女だとわかるだろうよ」
 エディンは、ドルフが示したニレナ王女の肖像画に目をやった。

 王子の部屋の、本棚の中段に飾られている肖像画。豪華なドレスを身にまとって微笑んでいる若い女性の上半身が描かれている。
 結い上げた明るい色の髪には、いくつもの花飾りが散りばめられ、紅を引いたつややかな唇は、今にも言葉がこぼれ出しそうだ。吸い込まれるような紺色の瞳は、どの角度からもじっとこちらを見続けているような錯覚に陥る。
 思わずエディンも、ほぅっ、と目を止めた。
「美しい方ですね……十八歳とは思えない」
「惚れてもおまえの女にはならないぜ」
「ドルフさん! なんてことをおっしゃるんですか。私はそんな恐れ多い気持ちは持っておりません」
「こんな目も覚めるような美人の王女が、汚らしい黒ネズミと遊ぶと思うか?」
「そ……想像できません」
「それなら、ネズミが逃げても悩む必要などないだろう。俺の考えた今後の筋書きはこうだ」
 ドルフは得意げに鼻をぴくぴく動かした。

「ジーク様は普通に初夜を迎える。そして王女と結ばれ親密になるわけだ。それからジーク様は、黒ネズミを飼いたいと王女に切り出す。だが、彼女は嫌がりジーク様はあきらめる。そして、ネズミのことはジーク様の記憶から徐々に消し去られて行く。やがて王女は身ごもり王子の関心は子どもへ移り、ネズミはいらなくなる。万事丸く収まるってわけだ」
「消し去られるものですかね……僕はそうは思いませんよ。あの異常なかわいがり方を見る限り、ジーク様はニレナネズミのことをお忘れにはならないと思います」
「おまえは悲観主義だな。時間さえ経てば、何もかもうまくいくと思うが。半年ぐらいしたら、行方不明のニレナネズミは、寿命を迎え、老衰死したことにすればいい。どうだ、この筋書きは」
「そんなにうまくいくでしょうか」
 エディンは、はぁ、と目を閉じた。
「よし、室内点検は終わりだ。廊下へ出るぞ。まあ、元気出せって。明日、仕事帰りに酒をおごってやろう」
「……暇がありません。ネズミの捜索で」


 二人は王子の部屋の点検を終え、いつものように廊下に出て、戸口へ立った。間もなくジーク王子が湯あみから帰って来る時間だ。

「そうだ、ドルフさん」
「ん?」
「前から聞こうと思っていたのですが、ネズミはいつもどこから出てくるかご存じですか?」
「いや、俺は出てくるところを見たことはないから、知らないな」
 王子の寝室の壁には、見たところ、どこにも穴は開いていない。家具をどけると、たぶんどこかにネズミが出入りできる穴があるのだろう。

 エディンがあれこれ考えているうちに、ジーク王子が部屋へ戻って来た。
 エディンとドルフはいつものように扉を開けて頭を下げる。
「エディン」
 王子の声がエディンに刺さった。エディンが、顔を上げる。
「話をしたい。中に入ってくれ」
「お話し相手ならば、ドルフさんの方が――」
「ドルフでは駄目だ。あの子の話だから」

 ――あの子って……あれだ。あのネズミのことだ……ぐっ……まずい……

(がんばれよ、エディン)
 ドルフの音のない声を含んだ視線を背中に感じながら、エディンは冷や汗で手を湿らせつつ王子の部屋へ入って行った。


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