6.いまいましいニレナ
箱から出てきたニレナは、居間のテーブルの上を駆け抜け、ポトンと音をたててじゅうたんの上に着地した。
「きゃ〜! ネズミよ! 」
悲鳴を上げたのはルイザ。フィーサの方は呆然とニレナを見ている。
「これがジーク様が大切になさっている……」
「お母様、ぼうっとしている場合ではないわ。どうしましょうこれ」
驚いて目をぱちぱちさせていたフィーサは、娘の声にびくっと反応して、肩を動かした。
「ルイザ、捕まえるのよ。その黒ネズミは、この家の希望なの。見失ったら大変」
「この家の希望? 意味が分からないことをおっしゃらないで」
「後で説明するから、捕まえなさい」
「お母様が捕まえて」
「あなたが逃がしてしまったんだから、さっさと捕まえなさい!」
じゅうたんの上のニレナは、見知らぬ場所に、すぐには動かず、きょろきょろしていた。
「ルイザ、箱をかぶせて」
母親の指示に従い、ルイザが菓子箱を手に、そろり、そろり、とニレナの背後から近づく。
それっ、とばかりに、ニレナの上から箱をかぶせた。
はぁ、と母娘は同時に力を抜いて、息を吐いた。
「うまく捕まえたわ。でもお母様」
ルイザは箱を押さえてしゃがみ込んだまま、顔をあげた。
「どうやって箱に入れましょうか。箱をずらしたら逃げてしまう」
「そうね……元の箱に入れることは無理ね。今、鳥かごを探してくるから、ちょっと待っていなさい。昔使っていた鳥かごがどこかにあったはず。ああ、こういう時に使用人が一人でもいれば……」
フィーサは大慌てで部屋を出て行った。
ルイザは箱を押さえたまま、延々と待ち続けた。母親はなかなか戻って来ない。おそらく、別棟にある倉庫まで、鳥かごを探しに行ったのだろう。この家で鳥が飼われていたのはずっと昔であり、今は、鳥かご自体、残っているかどうか怪しい。
ルイザが待ちくたびれていると、風呂から上がったエディンが居間に姿を見せた。
「あ、お兄様」
就寝用のローブ姿のエディンは、眉を寄せた。じゅうたんの上に伏せられた箱を押さえつけている妹の姿に、すべてを悟った。
「勝手に開けたのか」
「中身を見たかったの。ごめんなさい」
「……何をしているつもりだ」
「何って……お母様が鳥かごを探してくるまで、黒ネズミが逃げないようにしているの」
「無意味なことはやめろ。ネズミなら、あそこにいるじゃないか」
「えっ!」
エディンが指差した先。部屋の隅の壁際に、黒い毛だまりがうずくまっている。
そこから伸びている灰色の尻尾が、クニャッ、と動いた。
「あらっ? いつの間に」
黒い小動物は、本棚の後ろへササッと入って行った。
「そこへ逃げたぞ。何をしていたんだ。空の箱を押さえていたのか。箱をこっちへ貸してくれ」
エディンは、妹から箱を取り上げた。
「わぁぁ!」
「お兄様!」
箱をどけた下には、ちゃんとニレナがいた。
急に明るいところへ出されたニレナは、タタッと走り、エディンの足から上へ登っていく。
「うあー! やめろっ、いやだっ、おまえは嫌いだ。あっ」
エディンは、首に噛みついたニレナを乱暴にはたき落とした。
ニレナはポトリと落ちると、部屋の隅へ向かって走り始めた。エディンが、よみがえる悪夢に呼吸を乱している間に、ニレナは、先程の別のネズミが消えた本棚の後ろへ隠れてしまった。
「はぁ……危なかった。またえじきになるところだった……」
「えじき?」
「あのネズミはね、噛みつき癖があるのさ。それも、とんでもなくたちの悪い。母さんが戻ってきたら説明するよ」
エディンは、肌をすべった小さな手を思い出し、ううっ、と低い声を上げると、鳥肌が立ってしまった腕をさすった。
「お兄様?」
妹が不審の目を向ける。
「……なんでもない。あいつを探そう」
エディンは、ニレナが隠れている、本棚と壁の細い隙間を調べた。
「この後ろか」
「いる?」
「見えない。棒でつついてみるか。何か長い物はないか」
「庭木でも伐ればあるけど……」
エディンと妹は、室内を見回したが、調子のいいものが見当たらなかったので本棚をどけることにした。
木製の本棚は、天井近くまで高さがある。ずっと昔からそこに置かれており、それぞれの段には、つる性の植物の彫刻が施されている。本棚自体が大きい上に、その中にぎっしりと本がつまっており、中身を出さないと移動できそうにない。
大量の本を少しずつ本棚から下ろし、邪魔にならないところへ積み上げる。本はどれもしっかりとした表紙の大型本で、厚さがあり、片手で持てないような重いものばかり。
「まったく……どうしてこんなことをやらないといけないんだ。せっかく風呂に入ったのに埃まみれじゃないか」
エディンはぶつぶつ怒り続けていた。母親はまだ戻って来ない。
「お母様、遅いわね」
「鳥かごなんて、ないかもしれない。鳥かごでなくてもいいから、何か飼育用の檻を買わないといけないな。まあ、あのくそネズミが見つかれば、だけど」
エディンは、本を運びながら、ああっ、と寒いため息をついた。
「どこまでもいまいましい……ジーク様は、どうしてあんなのをかわいがるのかわからない」
やがて、本棚は大体空になったので、エディンは妹と協力して本棚を吊り動かした。
「うわ」
「こんなところに」
二人は同時に絶望の声を出した。
ニレナの姿はなく、埃まみれの本棚の後ろの壁には、大きな穴が開いていた。
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