8. 彼女が心配で
「そこへ座ってくれ」
「失礼します」
ジーク王子に付いてきた侍女は、飲み物を用意し終わると、退室した。エディンは王子と向かい合う形で、ソファに座る。
ここまでは、いつもと全く同じ。王子はいったい何の話がしたいのかと、エディンがドキドキしながら黙っていると、王子はエディンの目をまっすぐに見て、魅惑の微笑を浮かべた。
「どうだった、ニレナは」
「えっ……あの」
エディンのこめかみから汗が流れ落ちる。ジーク王子は、それには気がつかないようで、用意された冷たい夜酒のグラスに唇を付けた。
「あの子は、新しい家族を気に入ってくれただろうか」
「そ……それは……ニレナ様は、まだ、おこしになられたばかりですので、慣れるところまではいっておりません」
エディンは小さめの声でそう言った。廊下でドルフが聞き耳を立てているに違いない。ドルフの忍び笑いが聞こえてきそうだ。
「びっくりしていたか」
「はい。母も妹もとても驚いておりました」
「違う。いつもと違った場所へ連れて行かれたニレナが、おびえていなかったかどうかを聞いている」
箱を開けた瞬間を見ていないので、そんな事は知らない、と言いたいがそこは適当に話をつくるしかない。
「ニレナ様は、少しびっくりなさっておられましたが、とてもお元気なご様子でございました」
――はい。それはそれはお元気で、僕に登って来たから、はたき落としたら、あっ、という間に逃げてしまったんですよ。
言葉を飲み込む。
「そうか、それはよかった。あんな菓子箱に無理やり入れてしまったから、急死してしまうのではないかと、今日はずっと心配だった」
――急死! ひぃぃ!
またエディンのこめかみから汗の滴が落ちた。
「あの……ニレナ様はおいくつですか」
「一歳半ぐらいだと思う。いや、生まれてから二年ほど経っているかもしれない。人間の歳で言うといくつになるかは知らないが」
「ご高齢……なのでしょうか」
「そんなことは考えないことにしている。あの子が死ぬなんて、考えたら悲しすぎて笑えなくなってしまう」
「……」
いったん話が途切れたので、エディンはこれで終わったと思い、では、と席を立とうとした。
「待て。まだ彼女の住まいのことを聞いていない」
エディンは、立ち上がりかかった腰をまたソファに沈めた。
「ニレナはまだあの箱の中なのか」
その言い方に非難めいた響きを感じ、エディンは、できるだけ冷静に答えた。
「申し訳ございません。急なことでしたので、箱の中でがまんしていただいております。今日お住まいを整えようと思いまして、後で買い物に行く予定でございます」
それは本当のことだ。鳥かごは見つからなかったので、仕事が明けたら檻を買いに行くつもりでいる。その前に捕まえる作業が待っているが。
「エディン」
王子は少し言いにくそうに、座り直した。
「ここからが本題だ。悪いが、もしかすると、ニレナをずっと預けることになるかもしれない」
エディンは瞬きした。
「ずっと……でございますか」
可能性があるだけだが、と王子は前置きした。
「今日、ニレナ王女から手紙が届いた。彼女は、嫁入りに自分の愛玩動物を持参したいと申し出ている」
――王女様の?
エディンは眉を寄せた。
「何の動物ですか」
「わからない。書き忘れたようだ。手紙には、動物の愛称ばかり書かれている。形状については、小さいし、おとなしくて誰にも迷惑をかけないから自室内で飼いたい、としか触れられていない。何の動物かと返信の手紙を書いたが、返事をもらう頃には結婚式だろう」
「小さくて迷惑がかからない動物ですか。もしかすると、あちらも黒ネズミかもしれないですね」
「それならいいが、もし猫だったら、ニレナとは一緒に飼えない。持ってくるな、と王女に伝えることはできるが、この国へ一人きりで嫁いでくる王女の気持を考えれば、愛玩動物の一匹ぐらい認めてやりたいと思うのだ」
「はい……」
「だから、エディン。預けたニレナのことは、永遠に引き取れないかもしれない」
エディンは唇が弛みそうになるのを戒めた。
それは願ってもないいい展開だ。ニレナネズミがここには戻らないなら、苦労して探さなくてもいい。今も、家では母親が狂気の形相でネズミ探しをしていると思う。仕事が明けたら早く帰って、この知らせを母に伝えたいと、思いを巡らしていると――
ジーク王子は、洗い髪をかきあげながら、ぼそりと告げた。
「時々、おまえの家に私が出向いて、ニレナに会いに行くことにしたい」
「ひえっ! あ……」
――そんな!
エディンの唇がひきつる。
「もちろん非公式訪問だ。それしかないだろう? そちらに任せきりなのもつらい。王女の動物が何であれ、彼女がニレナを認めない可能性もある。私は王女とうまくやっていきたいから、あの子を連れ戻して波風立てるようなことはしたくない」
ジーク様が家にご訪問! 落雷に遭った気分だった。
「これが一番いいと思う。この結論に達するまで、いろいろ検討した。以前に言ったように、私は、王女と親密になってからあの子のことを切り出すつもりだったが、彼女の動物が来るとなると話は別だ。そこで最初に考えたのが――」
王子はあれこれ案を出したが、すべてエディンの耳を素通りしていた。
――ひ……王子のご訪問……王子が逃亡したネズミに会いに我が家へ……
頭に血が上る。心が芯まで大波状態になり、何も返答ができなかった。これからのことを思うと、相槌も打てず、ただ冷たい汗を流し続けるのみ。
<7へ戻る 目次 >次話へ ホーム