菜宮雪の空想箱

5.エディンの憂鬱




「ジーク様の恋人って……エディン、正気なの?」
 フィーサは驚いて、息子から菓子箱を取り上げようとした。
「気を付けて。中身が出る」
「ええっ!?」
「生き物だ。あの方が恋人のように愛している動物だから、大切にしないといけないんだよ」
 抱いている箱の中からは、あいかわらずひっかくような音が続いている。フィーサは質問を次々ぶつけた。
「何の動物?」
「後でえさをやるときに見せてやるよ。何が入っているは、その時のお楽しみ。えさのやり方に決まりがあるから、後で教える」
「もったいぶらないで見せなさい。どうせ私がお世話することになるのだから」
 エディンは、沈んだ声で答えた。
「たぶん驚くと思う。見た目は小さくて、かわいいと思えなくもない。でも恐ろしい動物だから」
「お城では飼えないのね? ジーク様がご結婚なさるから、引き取ったの?」
「引き取ったのではなくて預かった。でも、最終的にはずっとここで面倒を見ることになるかもしれない。それがいつまでかはわからない」 

 エディンは不機嫌な顔で、居間のテーブルの上にニレナの入った箱を置いた。
 薄い黄色の不規則な地模様が入った深めの箱には、王室ご用立ての高級菓子店の名が刻まれている。
「こんなのいい迷惑だ。うちには使用人はいないのに。ジーク様は酷いよ。僕が断われないと知っていて、これを押し付けるんだから」
「エディン、そんなことを言っては駄目よ。名誉なことじゃないの。これはジーク様がおまえを信用してくださった証拠。すばらしいわ。これで落ちぶれた我が家も、またたくさんの使用人を置けるようになって、昔のように賑やかなお屋敷に戻れるかもしれない」
 フィーサの顔は、未来が開けたと、目尻にしわをつくって息子を軽く抱きしめた。
「それはないよ……」

 ――僕は、仕事をやめるつもりだから。 

 心の中で、ぼそぼそとつぶやいた。フィーサは、エディンの憂鬱は何も知らず、にこにこしながら、お茶の用意を始めた。
 次の国王に決まっているジーク王子にエディンが気にいられれば、ゆくゆくは王の片腕に抜擢されて輝かしい将来が望める可能性が出てくる。使用人の一人すら雇う余裕のない落ちぶれ貴族のガルモ家に、再び陽が射す日が来るかもしれないと、母親が期待するのは当然のことだった。
「ジーク様に気にいっていただけるなんて、ありがたいことよ、エディン」
「そんな喜ばしいことじゃない。この中身、凶暴だから」
「それでも、大切な生き物を預けるのに、誰でもいいということはないでしょう? 精一杯お世話しましょう」
「面倒をみるのは僕じゃなくてもいいんだよ。これがそんなにありがたい? 中身を確かめてから、その言葉を聞きたいね。僕が風呂から戻るまで、絶対に出さないで」
 エディンは、もう一度、戻るまで箱のふたを開けるな、と念を押すと、陰った顔のまま、風呂場へ向かった。
 今はとにかく、ネズミに汚された体をさっさと洗い流したい。母への説明は後だ。


 エディンは、フィーサが用意してくれていた風呂にどっぷりと顎までつかりながら、ああ、と鬱な声をしぼりだした。

 ――あと十日で、仕事をやめるつもりだったけど……

 期待に満ちて楽しそうだった母親の顔。まだ、仕事を辞めるつもりだと、言っていない。理由が理由だから。しかも次の仕事のあてはない。暇ができればやろうと思っていた領地周りをする予定だが、それがひととおり終われば、次の仕事を考える必要がある。
「……疲れた。今日は最悪だ……」
 湯の中に、スブスブと顎まで沈めた。顔をなでる温かい湯気は夜勤の疲れを癒してくれる。それでも気分は晴れない。
  
 エディンの生家、ガルモ家は、何代も続いている名門で、彼の父親が生きていた頃は、この屋敷には使用人が何人もいた。しかし、数年ほど前に、城の要職に就いていた父親が急死してから生活が激変。
 当時十四歳だった学生のエディンと、二歳年下の妹ルイザをかかえたフィーサは、夫の急死に無気力になって親戚の言うままに書類に署名し、エディンが相続すべき財産の大半を親戚名義にしてしまっていた。
 ガルモ家の長男として生まれたエディンは、新当主として伯爵位を継いだが、自由にできる財は、この屋敷と不便な場所にある田舎の領地のみ。一家の収入は、わずかな領地から入る小作料だけになり、屋敷内で使用人を雇う余裕はなくなってしまった。すっかり貧乏になり、貴族社会に顔を出すことが出来なくなった三人は、それ以来、門番すらいない廃れた広い建物の中で、庶民と変わらない質素な暮らしを送っている。今では社交界で使われる言葉遣いや、作法すら忘れかけているほどだった。
 
「はあ……」
 エディンの長いため息が湯気に溶ける。
 王子の寝室の夜警は、新人の兵士としては破格の給金。まだ学生の妹にもお金がかかるので、できればやめたくなかった。
「悪いのはジーク様じゃない。すべてあのネズミのせいだ」
 ため息も心を軽くすることはできない。こんな理由で、母親を悲しませることになるとは。
「未来が黒一色だ。あんなやつのおかげで」
 最悪の場合は、もし仕事をやめても、ニレナネズミはジーク王子の元には戻らず、手元に残るかもしれない。
 そうなれば、仕事がないだけでなく、ずっとニレナがこの屋敷に――
 うう、と湯船の中で身震いする。
「いやだ。絶対に。ジーク様にお返しできないなら、あんなの捨ててやる」
 捨てることが可能なら。
 ――駄目だ、もし捨てたことがばれたら、僕はジーク様に殺される。

 憂鬱なエディンが風呂に沈んで考えている間に、母親がいる居間には、エディンの妹ルイザが入って来た。彼女は、そこに置かれた、王室ご用立ての店の名が入った菓子箱に目を止めた。
「あら、ジェランのお店のお菓子じゃない。これ、どうしたの?」
「エディンがお城から持ってきたの」
「お兄様がお土産を持って帰るなんて、珍しいわね」
 ルイザは箱のふたに手を伸ばそうとした。
「ひとつもらってもいいわよね」
「あ、エディンが開けないでって」
「お兄様は、この高級菓子を一人占めする気なのかしら。箱は開封されているわ」
「それは箱だけ。今、鳥かごでも用意しようと思っていたの」
「鳥かご?」
 ルイザは、箱の中でごそごそと音がしていることに、ようやく気がついて箱を凝視した。
「何?」
「それはお菓子ではなくて――あ、開けないでって」

 母親が言い終わらないうちに、ルイザの手でパッと開けられた菓子箱のふた。
 驚いたルイザの悲鳴と同時に、放り出された箱のふたが床に落ち、黒い生き物が、待っていたように箱の中から飛び出した。


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