47.嘘と真実
翌日の朝。
「もう、お兄様ったら!」
ルイザが腕組みして目をつり上げている。エディンは自室の寝台の中にいた。
「うるさい。頭が痛いからもっと静かに話してくれ。檻を開けたのはジーク様だ」
「なんなのよ、あれ。部屋中ネズミだらけ。ジーク様がいつまでもお帰りにならないから、付き添いの兵の方と一緒に覗いたら……全部檻から出ているじゃないの。しかも、二人ともだらしなく床にころがって寝ちゃってて。おつまみのお皿にネズミがたかっていたのよ」
「……体に登られなかったから、あれでよかったんだ」
「そういうことじゃないでしょ! 気持ち悪い。よくもあんな部屋で眠れるわね」
エディンはルイザの御小言を聞き流しながら、まだ重いまぶたを閉じた。昨夜、ジーク王子と飲みながら交わした会話の断片を思い起こす。
最初は、まじめな話をしていたはず。エディンの父の話も出ていたが、酔うにつれ、おかしな内容になっていったような……
王子は、ニレナ妃との初めての夜のことを語り、エディンの恋話のこともあれこれ聞いてきたので、つい調子に乗ってアリシアとキスしたことを話してしまった。古くからの学友のように、二人だけで盛り上がって飲み続け、そのうちに王子が、おもしろ半分にネズミたちを室内に解放。室内はたちまちネズミの楽園に。
やがて、警護の兵が入ってきて、王子を抱き起こして連れ帰ったことは、なんとなく憶えている。
普通の時には考えられないジーク王子を思い出し、フフッ、と笑い声が出てしまった。
――僕は決めた。ジーク様に生涯お仕えする。夜間兵をやめず、おそばで支える力のひとつになりたい。誰も知らないあの方が抱えていた心の、最奥まで見てしまったから。
王子は、長い間心を悩ませてきた影の組織が撲滅され、心からすっきりしたようで、飾ることない姿を見せてくれた。父の死になんらかの不審点があったことを知らされたことは衝撃だったが、王子のあんな姿を見ることができたことは、幸運としか言いようがない。
エディンの寝台の横に立つルイザは、まだブツブツと怒っていた。
「お兄様、なにを笑っているのよ。とにかく、ほどほどにしてね。お母様もあきれているわ。使用人たちがいてくれたから、全部捕まえられたけど、みんな、今日で帰ってもらうんでしょ? 誰か一人だけでもきちんと契約して残すことはできない? また私たちだけで何もかもやることになるけど、私はネズミを捕まえるのはごめんだわ。それに、ジーク様からいただいた馬車馬の世話はどうするの」
「そうだな……」
ドルフに監視されていたのだと思うと、とても悲しくなった。もしかして、バイロンとレジモントも、エディンを監視する為にこの家にいるのかもしれない。自分を監視しているような者を屋敷内に置きたくはない。しかし、妹が言うことはもっともだと思う。動物が増えた今、使用人を感情にまかせてやめさせ、ひとりも置かないことは、かなり無理がある。
「わかったよ。近日中にきちんとした使用人をさがしてやとうことにする。彼らには、次の使用人が見つかるまでの間、いてもらうよう頼むことにしよう。それでいいんだろう?」
「勝手なお兄様。じゃあ、今日は使用人に頼っていいのね?」
ルイザは長々と文句をぶちまけると、エディンの部屋から出て行った。
エディンは、ため息をつきつつ、二日酔いで重い頭を起こした。
寝室のテーブルの上に置いてある、アリシアが残した紙袋を手に取った。去ってしまった春の痛みが、ぼうっとした頭の中をひっかくようにかすめる。
――アリシア様のことはもう……だけど、この髪の毛の人たちの消息を調べるという約束だけは果たしたい。初めて本気で好きになった女性の、大切な人たちだから。
中身を取り出し、髪の束を手に取った。シュリアの言葉がよみがえる。
『あの女、二十一歳なんてうそっぱち。本当は二十六歳で、夫がいるんだよ。あの紙袋に入っている髪の毛ね、自分の子どものが混じってるんだってさ。十六の時に産んだ双子』
エディンは、髪をそっとしまった。糸で束ねられた四つの髪のかたまりが、パサリと乾いた音を立てて、紙袋の底に落ちる。彼女に夫……そして双子の子ども。年齢を偽っていたことは問題にしないが、子までいたとは。だから、彼女はなんとしてでも城から逃げようとしていたのか。我が子に会うために。
――アリシア様。
無意識に奥歯をかみしめていた。では、彼女の夫はどこにいるのだろう。彼女の夫と子ども二人の髪にしては、髪の数が合わない。髪の束は四つ。アリシアと同じ色の髪はない。ジーク王子は、これらの髪は、農家の夫婦とその子どもたちだと言ったが、違うのだろうか。それとも、彼女の夫の髪がこの中に混じっているのか。
エディンは決意を固め、荷物をまとめにかかった。
――出かけよう。自分の気持ちに区切りを付けるために。ここで落ち込んでいても、どうしようもない。アリシア様の夫に今の状況を伝えて、それで本当に忘れることにする。アリシア様を守るべき男は僕ではないのだから。
特別休暇をもらっている今のうちに領地の見回りに行くと、母親に告げると、強く反対された。
「そんな体で馬に乗って行くなんてとんでもない。怪我が治ってからにしたら?」
「今しかまとまった休みがない。怪我なら大丈夫、だいぶよくなった」
「でも……一人で馬で行くのはまだ無理でしょう。どうしてもと言うなら、誰か供をつけて、馬車にしなさい」
「心配しすぎだよ」
「今夜もジーク様がお越しになるかもしれないのに、どうして」
「いや、今日は、ご訪問はない。夕べそう言っておられた。毎晩出かけるのはイヤだとニレナ妃に言われたらしいよ」
本当の行き先は、伯爵家の領地ではなくアリシアが世話になっていた農場。供をつれて馬車で田舎に行けば、人目に付いてしまうだろう。乗馬は、負傷している肩に負担がかかるが、仕方がない。
エディンは、母親を言いくるめると、馬に乗って一人で屋敷を後にした。
夕方近くに到着した地は、農場の赤い屋根があちこちに見える丘陵地帯だった。木の柵越しに馬小屋が見え、広々とした畑が広がっている。目的の農場はすぐに見つかったが、その入り口は、紐が張られて閉鎖されているように見え、人影はなかった。情報を得ようと、目に入ったすぐ隣の農家を訪問した。
玄関先で応対してくれた老夫人は、アリシアがいた農場の一家と家族ぐるみの付き合いがあり、アリシアのこともよく知っていると言った。
「――それは間違いないですか?」
「どこでそういう話になったのか知らないけど、双子はアリシアの子じゃないよ。アリシアの遺体も見つかったのかい?」
「いえ……」
「何があったのかは知らないけど、こんな田舎で殺人事件なんて、いったいどういうことだろうねぇ。強盗だって、こんな農家なんかたいしたお金もないってわかるだろうに。お隣さんの姿を見かけないから、旅行でも行ったのかと思ったら、みんな殺されちまって。遺体だけでもここへ戻って来られたのは、せめてもの救いだよ。アリシアは美人だったから、きっと殺されずに生かされて、酷い目に遭わされているに違いない」
エディンは老婦人に教えられた村の墓地を訪ね、真新しい四つの墓に祈りをささげた。ほっとした思いで墓たちの名前を確認した。
アリシアが農場にいたという話そのものが嘘だったら、という可能性も考えていた。これで心の中の嵐が少し気持ちが落ち着いたように思う。
アリシアがここで暮らしていたことは間違いない。そう思うと、ここにあるすべての物がいとおしく感じた。のどかな風景を記憶に刻みつけながら、胸一杯に空気を吸い込んだ。
――あの人が触れた土、あの人が見あげた同じ空、あの人が暮らしていた家。
あれこれと想像を巡らせながら、静かな農村を去り、馬を進めた。
次に向かうはキュルプ王城がある町。そこでも調べたいことがある。城下町に入った時には、すっかり暗くなっていた。体も疲れて、悲鳴を上げそうだったが、それでも、何日も家を開けることはしたくないので、無理をしてでも今日中にできるところまで調査したい。
閉まりかけていた鍛冶屋に入り、アリシアの剣を見せた。剣には、一目でわかる王家の紋章とは別に、職人名を示す細かい数字が刻まれている。そこで別の鍛冶屋を紹介され、運よくその日のうちに、この剣を作った職人に会うことができた。
「おや、驚いた。少し前に、その剣を持ってきて、同じことをたずねた人がいました。再調査ですか? これは間違いなくキュルプ王家からの注文により私が作った物。その剣がどうかしたのですか?」
どうやら、ジーク王子がさしむけた調査の人間が同じ鍛冶屋を訪れていたようだ。エディンは、相手に不信感を抱かせないように、丁寧に話した。
「私は先の調査の方とは無関係ですが、先日、ある方からこの剣を譲り受けました。製作依頼に来た方にお会いできないでしょうか。十年ほど前に作られた剣だと思うので、無理なお願いとはわかっているのですが……」
「依頼は間違いなく王室関係の方からだったと思います。そうでないと、王家の紋章を刻むことは禁じられておりますからね。どなたが依頼に来たのかは私の記憶はあいまいですが……たぶん、書類を調べればわかる。少しお待ちください」
鍛冶屋は古い書類をひっくり返し、依頼人の名前を調べ上げると、親切に屋敷の場所まで教えてくれた。幸い、依頼人の住所はこの城下町になっており、その住所に今もその人が住んでいれば、この剣がアリシアの手に渡った事情もわかりそうだ。幸運なことに、そこは、この店からそう遠くない場所らしい。
エディンは鍛冶屋の情報を頼りに、馬を引いて暗い町中を移動し、剣の依頼人だとされる、ラウレーンという名の男の屋敷を訪れた。闇に包まれた時間に訪問するのは気が引けるが、まだ就寝時間には早いので、迷わず扉をたたいた。ラウレーンがここに住んでいるかどうかだけでも今夜の内に確かめたい。
出てきた使用人に、きちんと伯爵名まで名乗ると、すぐに、ラウレーン本人に取りついでもらえた。アリシアの剣の依頼人、ラウレーンなる男はまだここに住んでいたのだ。
「突然の夜間の訪問をお許しください。実は、急ぎおたずねしたいことがあり、お邪魔しました。この剣をご存じないでしょうか」
薄くなって地肌が見える頭に、白い髪が細々と生えている初老の男、ラウレーンは、エディンが剣を見せると、「おお」と声をあげた。
「よくぞまいられた。知っているも何も、これは、この私が王家の名で注文して作らせ、ある少女に送った物。話すと長くなります。どうぞ中へ」
ラウレーンは、エディンに、今夜は泊っていくよう申し出てくれた。ラウレーンは、今は引退しているが、王城に四十年近く勤め、王族のそばで雑務をやっていたという。
「時が過ぎ、自分もこの通り年老いてしまい、いつ逝くかわからぬ身ゆえ、お話ししますが、ここでの話は、年寄りのざれごととお思いくだされ」
ラウレーンはアリシアの名も知っていたので、エディンはアリシアの現状を簡単に説明した。
「アリシア様が……そうでしたか。おいたわしい、利用されるとは。城へ来た母子をジェニマヌス様に取りつぎしないよう命じたのは私です。前国王ジェニマヌス様は、お若いころの怪我で、子を作ることは無理だと宣言された御方ゆえ、まさか、たった一晩のことで子ができたとは、誰も思いもしなかったのでございます」
「では、アリシア様はジェニマヌス様のお子ではないかもしれないのですね?」
「普通はそう思うでしょう。前王と踊り子が夜と共にしたと証言できる者はいても、種なしだと言われていた方の子を産んだ、と申し出ても誰が信じるでしょうか。ですが、私は、偶然、踊り子が連れてきたアリシア様のお顔を拝見した時、言葉を失いました。アリシア様は、間違いなくジェニマヌス様のお子だと思います。ニレナ様にそっくりでしたから」
「たまたまよく似た顔だった、ということかも……」
エディンが、アリシアの母親が、王の庇護を受けたくてうそをついている可能性があることを言ってみると、ラウレーンは唇を歪めて首を横に振った。
「偶然に顔が似ているだけ……いいえ、私はどうしても偶然とは思えません」
「ですが、ジェニマヌス様はお子を持てないお体ではなかったのですか?」
「確かに、そう言われていましたが、きっと治っていたと思われます。実は、ここだけの話ですが、ジェニマヌス様は、在位中、今の国王陛下ネウディ様のお妃様と、ゆるされざる恋仲だったことがありまして、大きな声では言えませんが、弟君であるネウディ様の目を盗んでお二人は何度も逢瀬を重ね――」
ラウレーンは聞こえないほど声を小さくした。
「えっ……ネウディ様のお妃様が御生みになったニレナ様は、ジェニマヌス様のお子かもしれないということですか。それならば、アリシア様とニレナ様は、腹ちがいの姉妹の可能性が……」
「さよう。そんなことは何があっても公にはできませぬ。ですが、そばに仕えていた私はすべてを見ていました。ご懐妊がわかった日、ネウディ様は激しくお妃様を問い詰めておられた。腹の子は誰の子かと。身に覚えがないのにどうして身ごもっているのかと。ですから、ニレナ様は絶対にネウディ様のお子ではない」
「失礼ながら当時、お妃様には他にも男性がいたのでは?」
「いいえ、あの方が愛していたのはジェニマヌス様ただひとりでした。ネウディ様は怒り狂い、兄のジェニマヌス様を退位に追い込んだのでございます。表向きは健康上の理由で退位ということになっておりますが」
老人は当時を思い出すように目を細めて溜息をついた。
「お妃様は許されない恋に死ぬほど苦しんでおられた。皆、若すぎました」
「ニレナ様はそのことをご存じなのですか?」
「さあ、それは私にもわかりません。ジェニマヌス様が気まぐれに手を付けた哀れな踊り子のことはずっと気にかかっており、死ぬ前に誰かに話しておく必要があるとずっと思っておりました。これで、気持ちが楽になりました。今となってはあの踊り子も死に、アリシア様も罪を犯したとなれば、あなた様がこんな話を知ったところで、どうしようもないとは思いますが、その剣をお持ちくださったからお話ししたこと。くどいようですが、決して他言なさいますな」
「わかっております。私からはそのようなことを広めたりはしませんが、アリシア様ご本人が、自分はジェニマヌス様の娘だと言っておられました」
「そんな話、誰も本気にしません。私自身もそうだったのですから。私が最初から、あの母子を疑うことなくジェニマヌス様に会わせるよう手配すればよかった。母子はあきらめずに何度も城へ来ていました。最後に城へ来たのは、アリシア様が五歳ぐらいの時だったと思います。それから、母子はあきらめたのか、城へ押しかけてこなくなりました。私は、追い払ってしまった気の毒な母子のことが忘れられず、行方を密かに追い続けました。アリシア様を絵のモデルに推挙したのも私です」
「それで……ジェニマヌス様が使いをよこしたわけではなかったのですね」
「城内でジェニマヌス様と偶然出会ってお目にとまれば、と願ってそうしたのですが、それはかないませんでした」
「ならば、あなた様からジェニマヌス様へ真実を話し、アリシア様の今の境遇を伝えて、牢獄から救っていただくことはできませんか?」
「それは無理でしょうな。王家の書類を勝手に使い、紋章入りの剣を贈ったのは私の独断。母子への罪滅ぼしのつもりでした。ジェニマヌス様は、アリシア様がお生まれになったことすらご存じない。それに、ジェニマヌス様は王位を追い落とされた方。ジーク王子様を狙った罪で捕えられた女性などと、かかわりを持たぬ方が得というものでしょう。気持ちとしてはなんとかしてさしあげたいですが……」
エディンは、床を見つめていた。もしかして、アリシアの父親である元国王が手を貸してくれるかもしれないと、期待してしまったことは、おろかなことだったかもしれない。
エディンは、がっかりした表情を隠せないまま、翌朝、ラウレーンに深い感謝の意を示し、帰路についた。
ゆっくりと馬を進めながら、懐にしまったアリシアの剣の存在を確かめ、ふと空しくなった。アリシアとニレナは母の異なる姉妹――アリシアがその真実を知っても、それがなんになるだろう。真実を明るみに出しても誰も喜ばない。それに、彼女とはもう関係ない。
彼女の夫の存在が確認できなかったことだけが、重かった胸のつかえを軽減してくれたが、無理をして出掛けて得た物はそれだけだ。
未練がましい旅は終わった。
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