菜宮雪の空想箱

41.春の庭



 数日後。
 城下町は、ジーク王子とニレナ王女の結婚で沸いていた。
 エディンは常に屋敷内におり、外の様子を見ることはできなかったが、この屋敷の買い物担当者として市場へ出入りしているドルフがいろいろ教えてくれた。
 ドルフが言うには、先日の流血事件のことを考慮し、ジーク王子の結婚式はその日のうちに城内で王族だけでひっそりと行われ、祝宴は中止になったらしい。その代わり、新夫婦の謁見時間が特別に設けられることになり、貴族たちは祝いに参じようと、次々と城に押し寄せているという。
 
「ねえ、エディン、信じられる?」
 窓辺に立って庭を見ていたアリシアが、ぼそりと言った。
「ジーク様は本当に結婚なさったのね。結婚阻止の陰謀は失敗したんだわ。誰か捕まったのかしら」 
 エディンは、椅子から立ち上がった。
 今、この室内にいるのは二人だけ。母と妹は、エディンの代わりに王子の祝いに城へ出向き、ドルフとバイロンは従僕として付いて行った。シュリアとレジモントは朝食後の片付けでこの場にはいない。
 開け放たれた窓から、さわやかな春の微風が入りこむ。
「それに関しては情報が入っておりません。何かあれば、ドルフが教えてくれるでしょう。結婚式が無事に終わったことは間違いなさそうです」
「ジーク様の結婚をやめさせる為にたくさんの人が殺されたわ。この結婚にどんな問題があって、誰が反対していたの? どうして私がこんな怪我までしてここにいるのかわからない。私の大切な人たちはなぜ……」
 苦いアリシアの言い方。エディンは、手を伸ばせば届く距離までアリシアに近づき「アリシア様」とできるだけやさしく声をかけた。
「そのお話はもうやめましょう。今日は母も妹もいませんから、話し相手が私だけで退屈なのはわかりますけどまだ何もわかりません。ご家族の消息につきましては、後日、必ずお調べいたします。今は動かない方がいいです。アリシア様が見つかってしまってはどうしようもありません」
「あなたの言うとおりね。暗い話をしてごめんなさい。嫌なことは封印しておくわ」
 アリシアは気持ちを入れ替えるように、髪をかきあげた。
「今日はお天気が良くてよかったわね。奥様もルイザも、とてもきれいなドレス姿だったもの。雨が降ったら大変だったわ。お城はきっと華やかなドレスの人でいっぱいなんでしょうね」
「薬を飲んだらお休みください。私も一緒に飲みますから」
「だいぶ良くなった気がするのに、いつまでも重体扱い?」 
「仕事です」
「あいかわらず、一方的で過保護なんだから」
 アリシアは、エディンに向かってほほ笑んで見せた。共に薬を飲みながら、エディンはときめく胸を抑え込む。久しぶりの二人きり。
 もっと近くに寄り添いたくなる。しかし、気をつけなければならない。エディンがシュリアの言うことを聞けば、たちまち損なわれてしまうこの笑顔。今は、こんな素敵な顔をしてくれていても、突然怖い顔になってしまうことが恐ろしい。キスを交わした仲とはいえ、アリシアの本心は未だわからない。

 ――彼女は僕を愛してくれているのだろうか……

 否定されることが怖くて、気持ちを聞けなかった。好奇心と好意とは違う気がする。
「エディン、お庭に出てもいい?」
 ニレナネズミが捕まった日、口を利いてくれなかったアリシアを思い出していたエディンは、光の中に輝くアリシアの明るい色の髪に目を細めた。
「えっ、庭ですか」
「エディンがどうしてもダメって言うなら、わがままは言わないけれど、こんなにいいお天気ですもの。外は気持ちよさそう」
「そうですね……今日はとてもさわやかです」
 今は貴重な時間。いつもはこの部屋にはルイザが入り浸り、エディンは常に追い出されていた。ルイザとアリシアは、姉妹のようになってしまい、ルイザはアリシアを「お姉様」と呼び、暇があればアリシアのところへ来る。
 幸い、今の時間は口うるさいシュリアも傍にいない。邪魔が入らず二人きりで庭を散歩できる日は、もうないかもしれなかった。アリシアの顔色は以前よりも良くなっており、熱もなさそうだ。
「わかりました。少しだけなら許可しますけど、本当に短い時間散歩するだけですよ、約束してください」
 エディンはアリシアを中庭へ連れ出した。


 庭はついこの前とは見違えるほど、すっきりとしている。連日、男性数人でかかれば、雑草だらけの庭もそれなりにきれいになるものだ。
 ところどころに大きな木がある広く平らな中庭。白い小石が並べられた砂利の小道は、いくつかに別れ、正面玄関から建物を回り込んで延びる石畳の道や、馬小屋などへつながっている。庭の一角に積み上げられた雑草の大きな山は、まだそのままだったが、これならば、王子が昼間訪問しても恥ずかしくはないと思える庭に戻っていた。
 エディンとアリシアは小道をゆっくりと歩いた。
 甘い花の香りがどこかから漂う。アリシアが示す庭木の一本を見上げれば、春の到来を祝福するように、小さな白い花が枝先にたくさんついていた。この木にはこんな花が咲くのだったかと、新鮮な気持ちで香りを吸い込む。今まで気が付きもしなかった。暑すぎず寒くもない外の空気が心地いい。
「傷は痛くないですか?」
「動かさなければ大丈夫よ。手を後ろに持っていくと、ちょっと引きつって痛いけど。エディンこそ、まだ肩がちゃんと動かせないんでしょ?」
「服を着ることにはあいかわらず手間取りますが、日に日によくなっているのは自分でわかります」
 二人の共通の話題が怪我のこととは……エディンは心の中で苦笑した。
 天気は良すぎるほどで、まぶしいほどの日射しに、アリシアは自分の手で目に入る光を遮っていた。
「こんな日は、外でお昼寝したいわ」
「風邪をひきますよ」
「せっかくいい山があるのに」
 アリシアは、引き抜かれた雑草の山を指差した。
「あれはごみです。あんなものの上で眠るおつもりですか」
「あら、言わなかったかしら? 私は農家でお世話になっていたから、ああいう草の山にシーツをかぶせて、お昼寝したことは何度もあるの。とても気持ちいいのよ。草がもっと乾いていれば最高」
 それはエディンには考えられないことだったが、アリシアがシーツを貸してほしいと言うので、エディンはいったん自分だけ室内へ戻り、古くなった毛布を持ってきた。今は誰も使っていない使用人用の毛布を、草の山を少し崩したところへ敷いて、二人でその上へ座り込んだ。
「ほら、フカフカして気持ちいいでしょう?」
 アリシアはうれしそうにそう言うと、胸の傷をかばいながら、ゆっくりと横になった。
「エディンも横になればいいのに」
 胸元が見えそうになり、エディンは目を反らした。
「そんなことをしたら眠ってしまいます。痛み止め薬のおかげで毎日とても眠いですから。アリシア様もそうじゃないのですか?」
「アリシアって呼んでいいって言ったでしょ」
 アリシアは、クスッと笑うと、手を伸ばして、すぐ横にあったエディンの手と指を絡めた。彼女は、ドキリとしているエディンのことは全く気にしていない様子だった。
「遠慮しないで横になって」
 エディンの腕が、絡んだ指に軽く引っ張られる。こうなると逆らうことはできない。エディンは肩に気をつけながらアリシアに並ぶように横になった。
 仰向けになって見上げれば、青い空には雲の筋すらない。ふと、顔をアリシアに向ければ、紺色の瞳がエディンをまっすぐに見つめている。絡んでいるアリシアの指に力がこもった。
「エディン……」
 紺色の瞳が近づくと、静かに閉じた。

 ――どうか、このひとときが長く続きますよう。ネズミのことも、賊のことも何も考えずにいられる時間を一瞬でも長く。

 求められるままに、唇を重ねた。と、絡んでいたアリシアの指の力が急に抜けた気がした。
「アリシア……様?」
 暖かな吐息が離した唇からもれた。規則正しい呼吸。
 彼女は早くも眠ってしまっていた。エディンは泣き笑いしながら、自分もあくびをした。眠い薬は、場面も時間も選んでくれないのだ。
「お部屋へ戻りましょう」
 そう言ったものの、彼女を無理に起こすことはしなかった。大切な二人だけの時間。もう少しだけこうしていたい。
 あの時、アリシアは、ニレナネズミに襲われて身もだえしているエディンを、ただ一人だけ笑いはしなかった。エディンの悲鳴を聞いたアリシアは、ねずみ部屋に駆けつけると、エディンの首に取りついたニレナネズミをひきはがして檻に放り込んでくれた。

 ――アリシア様は決してネズミ好きではない。それなのに僕の為に……

「感謝しています」
 空気だけの声でささやき、アリシアの額にやさしく唇を落とすと、自分も目を閉じた。薬の眠気が一気に来る。


「伯爵様ぁ、探してたんだよ。こんなところにいたのー」
 シュリアの声が遠くに聞こえる。眠すぎて目が開かない。
「ちょっとあんた、伯爵様とこんなところで何やってんの。起きなさいよ!」
「静かにしなさい。エディンが目を覚ましてしまう。今寝ついたばかりなんだから」
 アリシアの控えめの声。
「あんた、うそ寝してたの?」
 二人の会話が聞こえているのに、すぐに起きられない。眠気は強力だった。
 ――けんかはやめろ……
 声にならない。アリシアが身を起こしたようだ。
「エディンに毛布を持ってきて。彼、薬のせいもあるけど、ずっと昼夜逆の生活をしていたから、昼間起きていることには体が慣れていなくて、時間に関係なく眠くて大変みたい。このまま休ませてあげたいの」
「わかったよ。伯爵様が大事ってことはあたしも同じだからね」

 やがて、眠すぎて目が開かないエディンに、そっと毛布がかけられた。
「言っておくけど、毛布を持ってきたのは伯爵様の為だから。あんたの命令に従いたかったわけじゃないよ」
 エディンは目を閉じたまま二人の会話を聞いていた。眠りの波でところどころ話が途切れる。

「そんなこと、いちいち言わなくてもいいわよ」
「あんた、賊だもんね。仕方がなかったから、お城へ侵入して人を傷つけた? そんな屁理屈、あたしは許さない。あたしの両親はね――」
 
 ――眠い……シュリア、もうやめろ。何度言えば気が済むんだ? アリシア様がかわいそうじゃないか……

「――なんだからね。あたしはあんたを見てると――」
 アリシアが言葉に詰まっている。
「……ごめんなさい」
「あんたにどんな理由があっても、あんたが悪の一味だったことは変わりがないんだ」
「そうね……そうよね……その通りよ」

 ――シュリアは言いすぎだ。なぜ、彼女はあんな言い方ばかりするのだろう……

「あんた、これからどうすんの? まさか、一生このお屋敷で――つもり?」
「声が大きすぎるわ。エディンが起きてしまう」
 エディンは眠気を払って起きようとした。体を少し動かしたら、毛布が掛け直された。
二人の会話が夢の中で切れ切れになって通り過ぎて行く。

「私はエディンのことは――でも、どうせ私はそのうちに――と思うの。だから――」
「ふーん」
 会話はまだ続いていたが、エディンはこらえきれず眠りの深い闇に落ちていった。


 エディンは、そのまま草の上で昼すぎまで眠っていた。目覚めた時、言いようのない幸せに包まれた。すぐ横にはアリシアの寝顔が。そして、絡んだ指もそのままだったから。
「アリシア様、お部屋に戻りましょう」
 身を起こし、上から覗きこんで声をかければ、アリシアのまつ毛がまぶしそうに震えた。無理やりたたき起こされる時の子どものように、アリシアは、毛布を引っ張り、顔を隠そうとする。
「アリシア様、起きてください」
 毛布を少しどけて、アリシアの顔を出してやる。
「ん……」
 アリシアの目が細く開いた。
「そろそろ中へ入りましょう。すみません、アリシア様が毛布をかけてくださったのですね。すっかり眠ってしまいました」
「私も寝ていたわ。外でお昼寝は久しぶり。気持ちいいものでしょ?」
 アリシアがゆっくりと起き上がる。目が合うと、二人同時にくすっと笑った。

 手をつないだまま、室内に戻って行く。言葉では気持ちはきちんと言っていないが、絡めた指は暖かい気持ちにさせてくれる。

 ――僕は、あなたのことが……あなたが僕をどう思っていようとも。
 
 春色のエディンを飛びあがらせる出来事があったのは、その夜のことだった。



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