39.ニレナか?
アリシアをその場に残し、エディンはシュリアと共に、厨房へ走った。
「ネズミはどこだ!」
シュリアが指差した厨房の床の上には、ひっくり返って黒い腹を見せているネズミが。大きさはちょうどニレナネズミぐらいで、女性のこぶしより小さい。
「ごめん、踏んじゃった」
「踏んだ、だと?」
あっけらかんとしているシュリア。予想外の事態に怒る気にもならない。エディンは、ネズミの横にしゃがみ込んで、苦々しくうめいた。
「うああ……似ている」
あのニレナネズミに。大きさも、色も。
「伯爵様、お願いだから、怒らないで。だってさ、虫かなんかいるなって思ったら、もう足の下に来ていたんだもん。よける暇もなかったんだよ」
「う……気にするな。どうしようもない。こいつはジーク様とは無関係だと思いたいけど、たぶん」
そんなふうに人の足元にチョロチョロ出てくるネズミなど、そうそういない。きっとこれはニレナだ。足に登って甘えようとしたに違いない。
「気絶しているだけなのか?」
ネズミはエディンに腹をつつかれてもピクリとも動かなかった。
「ダメだな、どう見ても死んでいる」
腹まで黒一色のネズミは、無防備に手足を開き、ひっくり返ったままだった。
「殺しちゃってごめんね。でもね、あたしは、まだなんとかなると思うよ。ここにもいるもん」
「えっ?」
エディンは顔をあげた。
「もう一匹?」
「こっちのも、さっきは死んだみたいに動かなかったんだよね。こっちも殺しちゃったかと思ったけど、動いているよ」
シュリアが示した先に、木製の棚の柱にはりつけにされているネズミが。
そのネズミは、開いた料理用のハサミで体の真ん中を挟まれ、柱にくっつけられており、よく見れば、口と鼻先がひくひく動いている。
エディンは飛びはねるように近くへ移動した。
ネズミは、ハサミの刃により、表面の毛がすれ、軽い怪我をした状態で固定されている。
「ハサミを使って捕まえるなんて、すごいな」
「えへへ……」
シュリアは、嬉しそうに目を輝かせた。
エディンは、シュリアが腕利きの私兵としてここへ来たことを思い出した。彼女はこういうことが得意なのかもしれない。こうなるまでの状況は説明してもらわなくてもわかる。彼女はネズミの気配を感じ、とっさに一匹を捕まえたが、足元に来たネズミには対応できなかったのだろう。
「ねえねえ伯爵様ぁ、どう? こっちが例のネズミだといいのに」
「う〜ん……これもジーク様のに似ているな」
動けなくなっているネズミも、ニレナネズミの大きさにそっくりだが、似たようなネズミはいくらでもいる。
「ジーク様がお越しになったら、このネズミを見せればいいんでしょ?」
「いや、それもまずいだろう。怪我をさせてしまったことばれたら、きっとお怒りになる。このままでは逃げられてしまうから、とりあえず檻に入れよう。ニレナかどうかを確かめるのはそれからだ」
「それがネズミの名前なんだぁ」
エディンはあっ、と気が付き、首をすくめそうになった。
――しまった。うっかりニレナの名を出してしまった。
「きゃはは、変なの。ニレナちゃ〜ん……ってなにそれ。ジーク様ってネズミをそんなふうに呼ぶんだね」
シュリアは声を出して笑っている。エディンもつられて笑ってしまった。
「なんだ、君はそのことを知っているのではないかと思っていた。君は、ジーク様のことについて、陛下からどこまで聞いているんだ?」
「どこまでって、ジーク様が餌付けしたネズミがニレナって名前だなんて、知らなかったよ。ジーク様が寝室に誰かを連れ込んでいるって話はうわさで知っていたけど。もしかして、伯爵様が夜のお相手をしていた?」
「なっ! 違う、それは絶対に違う!」
「だってぇ、みんな言っているよ、ジーク様が夜の兵隊さんを部屋に連れ込んでいるってさ」
話がおかしな方向に曲がってしまい、エディンは必死で否定した。あせって舌をかみそうになる。
「ち、ち、違うんだ。確かに部屋に呼ばれてお邪魔する時はあるけど、君は勘違いしている。笑っていないで聞いてくれ。ニレナネズミが、ジーク様の――」
「ニレナですって?」
ふいに後ろから聞こえた声に、振りかえったエディンは、青くなった。
シュリアの方は笑うのをやめ、不快そうに眉を寄せる。
「なにあんた。怪我人は寝てろって言ったのに」
廊下に置いてきたはずのアリシアがそこに来ていた。
――今の会話、アリシア様に聞かれたか?
シュリアと話したことをすべて取り消したいと思ったが、もう遅い。
――ええい、どうとでもなれ!
エディンは開き直って、できるだけ普通の顔を作って、唇のひくつきを抑えながら言った。
「ジーク様は、大切な婚約者の名をネズミにつけて、溺愛しておられたのです」
「すごい名前をおつけになったのね」
アリシアが、先ほどのシュリアとの会話を突っ込んでこなかったので、エディンは安心し、冷静さを取り戻すことができた。
「シュリア、檻をここへ持ってきてくれ。居間に置いてあるはずだから、大急ぎで頼む」
「うん、わかった。すぐに持ってくるからね。見張ってて」
シュリアは、文句を言わずに走って行った。
はりつけにされているネズミの前で、エディンはアリシアと目が合った。
つい先ほどのキスを思い出し、エディンは恥ずかしくなって、すぐに彼女から目を反らし、ネズミを注視した。
「お休みくださいと申しましたのに」
緊張して声が低くなる。言い方がきつくなかったかと、自分の声が気になったが、アリシアは、普通に答えてくれた。
「そのつもりだったけど、気になって見に来たの」
――やっぱりさっきの会話は丸聞こえだったか。
あせりの汗で首が冷たい。
――落ち着くんだ! 僕はジーク様とは何もない。
エディンは、大きく息を吸い込んだ。やましいことは何もないのだ。いや、少しはあるが。ネズミの餌食になってしまったおぞましい過去の記憶。
――冷静に。普段どおりに話せるように。
「騒がしくしてすみません。ネズミ騒動が終わったら、もう少し静かになると思うのですが」
「私に気を遣わないで。これがニレナなんて、ジーク様ってやっぱり変わった方。あんな整った顔立ちでさわやかそうなのに、怖いところもあるし、見た目どおりの人じゃないのね」
「……大声では言えませんが、そのご意見には、強く同意します」
アリシアはエディンと目を合わせて、ふふっと笑った。
アリシアの笑顔にエディンの緊張がほぐされていく。首筋の汗が襟に吸い込まれる。
――大丈夫だ。アリシア様は何も気にしておられない。
アリシアはネズミに少し顔を近づけじっくりと観察した。
「これが特別なネズミには見えないわ」
「ニレナとは違うかもしれません。実は、ジーク様が寝室で、いつもネズミを呼び出すときに使っていた歌があるんですよ。ちょっと歌ってみてもよろしいか?」
「歌?」
「『いとしのメレン』って歌をご存知ですか?」
「花束を好きな女の子にささげる歌のこと?」
アリシアは出だしを口ずさんだ。
「そうそう、それです。ジーク様は、その歌の名前を変えて、ニレナにして歌っておられた。するとですね、恐ろしいことに、どこからか一匹のネズミが走り出てくるんですよ。それがニレナネズミで」
「そういえば地下通路が動物臭かったわね。きっとあそこのどこかにネズミの巣があって、歌が聴こえると出てくるように訓練されているんだわ」
「自分もそう思います。地下通路のことは知りませんでしたし、何よりも、ジーク様とネズミが結びつかなくて、驚いたのですけどね。では歌ってみます。このネズミが『ニレナ』なのかどうか試してみましょう」
「いとしの姫ニレナ〜 この花束を大好きな君にぃ〜」
「やめて、ネズミがハサミから抜けそう」
「むっ!」
――逃がすものか!
エディンは歌をやめ、ネズミを捕まえていたハサミをサッと取り去り、今にも逃げだそうとしていたネズミを素手でつかんだ。ネズミは、キュッと声を上げ、手足や尻尾を振り回して暴れる。またしても思い出す嫌なネズミの感触に、萎えそうな心を奮い立たせる。
「こら、おとなしくしろ。おまえはニレナか?」
エディンは自分の手に握られているネズミをじっくりと観察した。全身を覆う黒い毛。ピンクの手足と鼻。飴玉のように丸くて愛くるしい両眼。特に特徴もない、ごく普通の黒ネズミ。王子のニレナかどうか、見た目ではわからない。
「歌で反応したってことは、これがジーク様のかしら」
「どうでしょうか。全力で逃げようとした時に、私が歌っただけかもしれません。これがニレナだとありがたいですけど、怪我をさせてしまっているから手放しで喜ぶことはできません。死んでしまったそっちがニレナかもしれませんね。ジーク様なら、ひとめでおわかりになるのでしょうけど」
そこへ、シュリアが飼育用檻を抱いて入ってきた。それは、ドルフが最初に持ってきてくれた、頑丈な金属製の檻で、ネズミ一匹の住まいとしてはかなり豪華な代物だ。さっそくそこへネズミを入れた。
「これでよし」
「やったぁ、捕まえた」
一同は、ほっとして、よかった、と喜んだ。この時ばかりは、シュリアとアリシアも、いがみ合わずにこやかにしていた。
手洗いを終えたエディンは、ネズミのことをシュリアに頼み、アリシアと部屋に戻ることにした。
アリシアの部屋へ入ると、アリシアは横になる前に、寝台の横で、エディンを見上げた。エディンはドキリとして身構えたが、口付けはなかった。
「ねえ、エディン」
「はい」
「ちょっと気になることがあるの」
「なんでも遠慮なくおっしゃってください」
「さっきのシュリアの話って本当?」
「はい、真実です。ジーク様はネズミにニレナと名付けて――」
「聞きたいのはそのことじゃなくて、エディンがジーク様の夜のお相手をしていたって話の方よ」
アリシアの声は鋭い。
エディンが反論する前に、彼女は詰め寄った。
「そういう趣味があるなんてね」
突然の氷のような言葉に驚いたエディンは、無意識にアリシアの腕をつかんでいた。
「それは絶対にありません! 城ではそんな話にされているのかもしれませんけど、僕は違います。ジーク様に命令されても、うわさされているような行為は一切ありません」
「うそよ」
「僕はうそなんかついていません。信じていただけないのですか」
エディンをにらむようなアリシアのきつい目つきが、突然くしゃりと崩れ、彼女は肩を震わせながら笑い始めた。
「アリシア様?」
「冗談よ、ごめんなさい。エディンがどんな反応をするのか見たかったの。ここ数日見ていただけでわかったけど、あなたは、いつも、どんなことでもまじめで一生懸命。うそなんてつけっこないわ。私、あなたの言うことは全部信じる」
「すみません、冗談もわからなくて」
エディンは頭をかいた。
「だから、それがエディンの魅力なのよ。怒った顔も、困った顔も好き」
「……ありがとうございます」
照れ笑いするしかない。アリシアのことはまだよくわからない。本気なのか、からかわれているだけなのか。
それでも、何も考えずに今は、言葉どおり受け止めたい。
アリシアの紺色の瞳がエディンの青緑色のそれをとらえる。
「エディン、ずっとそばにいて。私……本当はね、怖くてたまらないの。そのうちに、私を殺しに誰かがここへ来るような気がする。おかしいでしょ、自分で死んでもいいなんて言ったくせに、いざ誰かに殺されるとなれば怖いなんて」
「いえ、おかしくないです。それは普通ですよ。だれだって殺されたくない」
「そう言ってくれるとほっとするわ」
「そのうちに、ジーク様が悪人たちを捕まえてくれるはずです。今は静かに時を待ちましょう。その前に、お互いに怪我を治さなければなりませんね。私もおそばで体を休めます。なるべくここにいるようにしますから」
「エディン、ありがとう」
背伸びをしたアリシアが、エディンの頬に口付けると、エディンはこらえきれずに彼女の肩を抱き寄せた。流れで自然に唇を寄せ合う。
「はい、終わり。そこまでにしときなよ」
水を差されて二人は戸口を振り返り、同時に叫んだ。
「シュリア!」
エディンから離れたアリシアが、威嚇するように速足で戸口に近づく。
「何をしに来たのよ」
「傷薬を取りに来ただけだよ。ニレナちゃんに塗る薬。ここに置いてある、あんたの薬を塗ってやろうと思ってさ」
「のぞき見なんて趣味が悪いわね」
「それはあんたのこと。さっき、厨房での話を盗み聞きしていたくせに」
「聞こえてきただけよ」
「伯爵様をたらしこんじゃったんだ。すごいね、あんた」
二人の間にエディンが割って入る。
「シュリア、そういう口の利き方はいけないと言ったじゃないか」
「だってぇ〜」
「シュリアの顔を見るだけで気分が悪くなるわ。薬を持ったらさっさと出て行って」
「ふ〜ん、そんなこと言ってぇ、あんた、また伯爵様を誘惑する気なんだろ」
「あなたに関係ないわ」
「あいにく、伯爵様は今からニレナちゃんのお世話があるんだからね、あんたなんかとずっと一緒にいるわけにはいかないんだよ」
「エディンは、私のそばにいてくれるって言ったのよ」
「よせ、二人とも」
すっかり恒例となった女二人の言い争い。
――頭が痛い。
結局、エディンは、シュリアに押されてしまい、シュリアと二人で、仮名ニレナネズミの薬塗りを今からやることになった。そばにいると約束したばかりなのに、アリシアを部屋に残していくのは気が引けたが、シュリア一人では、ネズミが逃げてしまう危険を主張されると、そうするしかなかった。屋敷内の他の者は皆、忙しく、ドルフも外出している。
シュリアと廊下を歩きながら、エディンは軽いため息をついた。
部屋を出るときに浴びせられたアリシアの刺すような視線。背後から冷水を投げかけられたように感じた。
つかの間の春は……終わってしまったかもしれない。
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