38.アリシア!
廊下へ飛びだしたエディンは、左右を見たが、アリシアの姿はどこにもない。
――しまった。うかつだった。
自分のおろかさに唇を噛む。ほんの少しの話し合いの間だけと思い、アリシアを一人にしておいたのは間違っていた。彼女は眠っていると思っていたし、話し合いそのものは長時間だったわけではない。失敗だったのは、自分がうっかり眠ってしまったことだ。
走りかけたエディンは、思わず負傷している肩をおさえた。薬を飲むと、とてつもなく眠くなり、薬が完全に切れると、今度は痛みが復活してくる。肩はまだ熱を持っている。
「……痛っ」
アリシアにもそろそろ薬が必要な時間。彼女はあんな体でいったいどこへ行ってしまったのだろう。屋敷内に誰かが侵入し、連れ去った可能性もある。
「誰かいないか」
返事はどこからも聞こえてこない。それは当り前。話し合いで役割を分担し、それぞれネズミ捕獲に向けて動き出しているはず。都合良くその辺りにいるわけがない。
アリシアの傍にいるはずのシュリアの姿が見えないことにもあせりを覚える。
「シュリア! どこだ」
廊下を速足で歩いていると。
厨房方面から覚えのある話し声が聞こえてきた。ほっとするも、声の調子は尋常ではない。大慌てで廊下を進む。
近づくにつれ、大声の会話がはっきりと聞こえてきた。話の中に自分のことが入っているとわかると、エディンは足を止め、ゆっくり静かに、身を隠すようにして厨房の入り口へ近づいた。
「あんたなんかを伯爵様が愛してくれるわけがないよ」
「あなたこそ、貴族の夫人になるのが夢? 確かに、エディンと結婚すれば、伯爵夫人になれるものね。すり寄っているのはあなたでしょ」
「すり寄る? それは違うよ。伯爵さまはお疲れなんだ。傍にいてやさしくしてくれる女が必要なことが、あんた、わかんないわけ? 誰のせいであんなに疲れていると思ってるんだよ。かわいそうに、あんな場所で眠っちゃって。どきな。元気が出る料理をいっぱい作るんだから」
「なにするのよ。痛いじゃない」
「邪魔。具合が悪いんなら、とっとと戻りな」
「私を監視するからずっと一緒にいないといけないって、あなたが言ったくせに」
「それはなるべく一緒にって意味。ずっと一緒とは言ってないよ。悪いけど、料理で勝負なら、あたし、あんたなんかに絶対に負けないよ。そんな体で食事を作って、同情で釣って伯爵様をたぶらかそうなんて、下心丸出し」
「なんですって、私はそんなつもりはないわ。どれだけ人をばかにすれば気が済むのよ」
エディンはこらえきれなくなり、厨房へ走りこんだ。
「いいかげんにしてくれ」
「あっ、伯爵様」
調理台の前にいた、白いエプロン姿のシュリアが、にっこりと振り向く。彼女の向かいには目を吊り上げたアリシアが。エディンはため息をつきたくなる気持ちを抑え、できるだけ静かな口調で言った。
「シュリアは使用人らしくしてもらわないと困る」
シュリアは悪びれず、甘えた声を出した。
「だってぇ、伯爵様、この女、最悪なんだもん。怪我人のくせにうろうろするからさ、寝てろって言っているのに」
「その言い方はよくない。君はここでは使用人だ。忘れるな」
シュリアは、プーッと頬をふくらませて抗議したが、エディンは気にしないことにして、アリシアに視線を移した。
「アリシア様……どうしてこちらへ? てっきりお休みになっておられるかと思っていました」
「勝手なことをしてごめんなさい。みなさんのお話が聞こえてしまったの。少しでも何かできたらと思って。眠ったら気分が良くなったから、お食事の用意ぐらい手伝おうかと思ったのに、この人がごちゃごちゃうるさくって」
「お気持ちはありがたいですが、今は、どうか、傷を治すことだけに専念なさってください」
シュリアが勝ったとばかりに口をはさむ。
「ほら、あたしの言ったとおりだ。さっさとあっちへ行きな」
エディンはむっとしてシュリアをにらみつけた。
「そんな口の利き方しかできないなら、君をここに置いておくことはできない。陛下の私兵でも、不祥事があったと報告して城へ帰すぞ」
シュリアはエディンの剣幕に、ビクリと肩をすくめたが、すぐに顔をあげて言い返した。
「伯爵様、忘れちゃだめ。この人はジーク様を誘惑したとんでもない女だよ」
シュリアに指差されたアリシアは、反論せずに、口を閉じたままシュリアに冷たい目を向けたが、やがて視線を落とした。
「シュリア……よく聞いてほしい。君がアリシア様に敬意を払えないことは理解できる。だけど今は、殺傷事件の貴重な生き証人であるアリシア様をお守りすることが私たちの仕事だ。キュルプ王家ゆかりの方としてこの屋敷へお迎えしているのだから、それなりの対応で頼む」
「でも、伯爵様、どんな理由があったとしてもだよ、あたしは――」
エディンはシュリアをさえぎった。
「もっと立場をわきまえてくれ。それとも、君はアリシア様を自殺に追い込みたいのか?」
シュリアは一瞬だけ引きつった顔になったものの、すぐに自分を取り戻した。
「自殺? あたしはそんなつもりはないよ。ただ、むかつくんだよね。この女さ、今度は伯爵様を誘惑しようとしているのが見え見えだもん」
誘惑!
エディンは、ごくりと空気を飲み込んだ。アリシアはうつむいたままだった。シュリアに口の利き方を指導しようとしていた気持ちは、簡単にふやけた。
あの時見てしまったアリシアの美しい裸身が、脳内でうごめく。
彼女を縛ろうと格闘した時、はからずしも体が触れ合ってしまった記憶も生々しくよみがえる。
――こんな美しい人に誘われたら、たぶん、僕は逆らえない。アリシア様はジーク様とどこまで……
「伯爵様、あたしばっかり怒らないでよ。この女だってさ、口が悪いよ」
一瞬麻痺してしまった頭。怪しい妄想をあわてて振り払う。
「あ、ああ……そうか」
――僕は今、何を考えていたんだ?
恥ずかしい想像から現実に戻り、赤い顔になってしまったエディンは、ごまかすようにシュリアに背を向けた。
「と、と、とにかく、二人とも、けんかはやめてくれ。シュリアはちゃんと『アリシア様』とお呼びするように」
エディンは、アリシアの手を取ってうながした。
「お部屋へ戻りましょう。シュリアが食事の用意をしてくれる間は、私がアリシア様の傍にいるようにします。シュリアは夕食の支度をやってくれ」
背後からシュリアのつぶやきが何か聞こえたが、エディンは無視し、逃げるようにアリシアを厨房から連れ出した。
エディンはアリシアの手を取り、幅が広い廊下をゆっくりと歩いた。廊下の壁は至る所に絵がかけられ、ところどころに人物や馬の等身大の彫刻が置かれている。壁そのものにも、細かい、鳥や木などの絵がびっしりと描きこまれている。
先ほどまでうつむいていたアリシアは、廊下に出ると顔をあげ、興味深そうに室内を眺めた。
「エディンがこんなに大きなお屋敷のご主人様だったなんて。廊下が普通の広間ぐらいあるなんて考えられない。こんな豪華な壁、すごいわ。内装はお城と変わらないのでは?」
「この屋敷は王族が所有していた物件を、数代前が何かの褒美としてたまわったと聞かされています。父が生きていたころは、この家も栄えていました。多くの使用人、頻繁に訪れる父の客人、豪華な食事。何の苦労もなく贅沢に過ごせる日常。それが当り前だと私は思っていたんですよ。父がいてこそあの生活が成り立っていたのです。今は手入れする人手がないですからね、この絵なんかもしっかりと見れば、ほこりまみれです」
「あら、本当だわ」
正直なアリシアに、エディンは苦笑した。
「これでもたまには掃除をしているんですけどね、家族三人で暮らすには広すぎる」
「お父様が亡くなられたの?」
「はい。たった四、五年しか経っていないのですけどね、屋敷はこのありさまです。父の死はあまりにも急で、私は、自分が当主になるということの心構えが全くできていませんでした。自分がもっとしっかりしていれば、こんなに落ちぶれることもなかったのです。この屋敷の恥ずかしい現状をお見せしてしまい、申し訳ありません。今は、大勢の人を雇うだけの資金もなくて」
「そう……だからエディンは、お城の兵士をやっているのね」
「兵としては何の階級もない下っ端です。しかも、夜間専門で昼間は寝ており、家のことは何もできません。亡き父がこれを知ったらさぞかし驚くと思います。父の顔があれば、もっと違った仕事をやっていたことでしょうね。それでも屋敷を維持するためには、今の仕事を続けるしかありません」
アリシアはふと足を止めた。
「エディン」
アリシアはエディンの手を離し、正面からエディンを見上げた。
「ごめんなさい……」
彼女の紺色の瞳がまっすぐにエディンに向けられる。エディンも歩きかけた足を止めた。
「急にいかがなさいました?」
「このお屋敷にはどうしてもエディンが必要だとわかった。奥様も、ルイザさんも、とてもやさしくて、いい方。もしも、エディンが私に殺されていたら、あの方たちはどうなっていたかと思うと……」
「私はこの通り、生きています。心配なさることは何もありません」
エディンは、笑って見せたが、アリシアは顔を曇らせたままだった。
「シュリアの言うとおりね。私なんか、守られる価値もない女。賊の指示どおりにすれば、私の大切な人たちを助けることができると信じていた。早く彼らの無事を知りたくて、精一杯うそ泣きをして、あなたを死体にしてでも、お城を脱出しようと思っていた。あなたが死んでしまったら、奥様たちをどれほど悲しませることになるか、考えもしないで」
「過ぎたことです。早くお忘れになってください」
「エディン」
かすかな衣擦れの音。
あっ、と思った時にはそうなっていた。
アリシアはエディンの胸に顔をうずめていた。
「アリシア様?」
アリシアは肩を震わせて、泣き声を上げた。エディンは倒れそうな彼女の背に手をまわして支えてやった。
「私……最低ね。私の母が死んだ時ね、悲しくて、悲しくて、何日も泣いたわ。私はまだ十二歳だった。その後は、住み込みでお世話になっていた農場にそのまま置いてもらうために、私は必死で働いてきた。あれと同じような苦労を、ここの人たちにさせようとしていたなんて……」
「落ち着いてください。前にも言いましたが、あなた様は利用されただけです」
「利用されるのは愚かな証拠。自分のためだけに平気でうそをついた。ニレナ王女本人だと何度も言い張って。でもエディン、これだけは信じて。私は誰も殺していない」
「それはわかっています。あなた様の剣では、誰も殺せませんよ。何の訓練も受けていない兵である私ですら、仕留めることができなかったのですからね」
エディンは、なだめようと冗談めかして言ったつもりだったが、顔をあげたアリシアは笑ってくれなかった。
「自分が悪かったってわかっているの。でも、ここでシュリアに罵倒されながら生き長らえるなんていや。早く裁かれたい」
アリシアはまたエディンの胸に顔をこすりつけるようにして身体を寄せた。伝わる体温と髪の匂い。めまいがしそうになる。
――うう、またしても拷問だ……これ以上こうしていたら……アリシア様は気が付いているかもしれない。僕の心臓がやかましく打っていることに。また鼻血が出そうだ。これ以上は無理。妄想がああぁぁ。がまんの限界。もう無理。無理!
「無理です!」
つい口に出てしまった。
「そうよね、私は自分勝手な女。本当なら、こんなふうにエディンにやさしくされることすら許されないのよ」
「そ、そういう意味の無理じゃなくて……あの、えっと……そのような悲しい話はやめましょう」
エディンは、汗をかきながらも、アリシアの肩をつかんで、できるだけやさしく引き離した。
「シュリアには、私からもう一度、きつく言っておきます。体調がすぐれないから、悪い事ばかりあれこれ考えてしまうのです。私もそういう時はありますから。とにかくお部屋でお休みください。お薬を飲みましょう」
「エディン。私……」
「……」
驚きの声をあげる暇もなかった。
唇に、一瞬の甘い風。
「アリシア様……」
エディンは息を飲み、自分の唇に指先で触れた。
今、確かに、ここに、彼女の。
「二人だけの時は、アリシアと呼んで」
涙で濡れた紺色の瞳が、至近距離でエディンをからめとる。
「アリ……シア……」
術にかかったようにそうつぶやくと、アリシアの手がエディンの髪に伸び、頭を引きよせた。頬が触れ合う。自分を抑えていた、エディンのがまんの糸が、今、プツンと切れた。エディンの指がアリシアの髪へ。
「お許しを」
もう一度だけ。
あなたの唇に触れることを、どうか。
そうしたくてたまらなかったのだから。
「伯爵様ぁ〜!」
突然、廊下の奥から聞こえてきた大声に、二人はパッと離れた。
「伯爵様、ネズミを捕まえたよー。早く来てぇぇぇ、早く、早く〜ぅ」
シュリアがパタパタと走ってくる。
「捕まえたのか! よくやった。ジーク様のネズミか?」
シュリアは近づくなり、アリシアには目もくれず、エディンの腕をつかんだ。
「それはわかんないけど、すぐに見に来て。捕まえたんだけどさ、ごめん、殺しちゃったみたいだから」
「ゲッ! 本当か!」
甘い触れ合いで熱くなっていた心臓が、一気に冷えた。
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