菜宮雪の空想箱

34.地下通路


 
 地下道をさらに進むと、片開きの金属製の扉があった。身を屈めないと通れないほど狭く小さな扉には、鍵はかかっていない。ジーク王子は、扉を手前に開くと、エディンとアリシアに、少し待つように命じ、自分だけ扉の向こうへ入った。
 扉の隙間から、王子が持つ燭台の光が揺れてくる。奥は通路よりも広い空間があるようだが、暗くてよくわからない。エディンもアリシアも明りを持っていないので、周りが見えない狭い通路で緊張しながら立っているしかない。

 待っている間もあいかわらずの動物臭さに、エディンは足元ばかり気になって仕方がなかった。黒ネズミはここにいっぱいいそうだ。いつ足に登ってくるかわからない。だが、この暗さではネズミがそこにいるのかどうか、確認できそうにない。
 と、エディンに手をひかれていたアリシアが、急に、暗闇の中でもたれるように腕をからめてきた。
「アリシア様?」
 あわてて彼女の腰を抱き寄せるようにして、倒れそうな体を支えてやった。暗すぎて、彼女の顔色はわからないが、彼女の体が平熱ではないことはわかる。
「大丈夫ですか? 少し休憩するようにジーク様にお願いしましょう。通路はもっと先まであるみたいですし」
 アリシアは、弱々しい声で返答した。
「ありがとう、エディン。休まなくても大丈夫。こんなネズミ臭くて不潔なところでへこたれるわけにはいかないもの。倒れたらネズミのえじきでしょう。もしも、この奥にネズミがいっぱいいたら……」
「うげぇっ!」
 エディンの声に驚いたアリシアは、体を離した。
「何? エディンは時々変な声を出すのね」
「ちょっと、その……ネズミと聞いて、思い出したことがありまして」
 エディンは、ブルルっと身震いした。

 ――まさか。この扉の中はネズミだらけで、床が黒くなるほどにうようよ……ひぃぃ!

 地下道内は狭く、レンガで床も壁も覆われており、足音が響きやすい。そんなにたくさんのネズミがいるなら、もっと音がするはず。エディンは耳をすませた。ネズミの音は。

 しっかりと聞こえるのは王子が動きまわっている足音。通路を歩き始めた時に感じた動物の気配――カリカリと何かがうごめく気配――は、今のところはない。
 
 ――ここは静かじゃないか。
 
 苦笑して、ネズミだらけの妄想を打ち消した。しかし、動物の臭いは地下道内にこもっている。確かにここは『ニレナの穴』であり、きのう王子がつかんで持ってきたネズミも、きっとこの通路のどこかに住んでいるのだろう。
 その時、扉の向こうの明るさが増した。
「明りを灯したから、二人とも入ってこい」
 王子の声に、エディンとアリシアは、身を屈めて小さな扉をくぐった。

「まあ!」
 驚いた声を出したのはアリシア。
 いくつもある燭台に照らされた中。通路ではなく、完全な部屋になっているそこで、最初に目に飛び込んできたのは、色とりどりの衣装たち。
 王子の寝室ほどの広さがある部屋の中央には、木製の、丸テーブルと二組の長椅子。低い天井と窓がない壁は、レンガが丸出しではなく、木板で覆われ、そこにはいろいろな衣装が数えきれないほどかけられている。夏用の袖のない服から、冬向けの厚い上着まであり、どの季節にも対応しているようで、男女どちらも揃っている。どれも王族が着る衣装には見えない、質素で目立たない服ばかり。大きな衣装箱もいくつかある。室内には服だけでなく、帽子などの小物の他、弓などの武器も、かけられている衣装の下に、無数に積み上げられていた。
「すごいですね……地下にこんな部屋が」
 エディンも、ネズミのことは忘れて、衣装が並ぶ室内を見回した。王子は、エディンたちが驚いた様子を見て、満足そうにほほ笑んだ。
「驚いたか? ここは見ての通り、隠密に城外へ出るために着替える部屋だ。それだけでなく、城が包囲されてしまうような緊急時の避難用にもなるし、武器を補充するための場所でもある。ここで着替えて、外へ出る準備をしろ。どれでもいいから、好きな服を選べ」
 エディンは、自分の着替えならば王子の部屋に置いてあるので取りに行く、と言いかかったがやめた。またネズミ臭い通路を戻りたくはない。
 言われた通りに服を探す。
「早くしろ。外に馬車を待たせてある」
 王子にせかされ二人はすぐに服を決めた。
「見ないでください」
 アリシアに言われて、エディンはあわてて背を向けて、着替えにかかった。肩が思うように動かせないエディンの着替えを、王子が後ろから手伝ってくれた。
「またしてもジーク様にお手伝いさせるとは、申し訳ありません」
「急いでくれないと困るのだ。手配しておいた馬車をいつまでも通りに置いておくと目立つ。逃げた賊の残党たちが、町なかをうろついて、情報収集に走り回っていると思う。不審な馬車がいつまでも止まっていれば目をつけられてしまう。アリシアの気分がすぐれないことは承知しているが、そういう事情だから休む暇は与えてやれない。支度ができたらすぐに移動だ」

 エディンとアリシアが着替え終わると、王子は、すぐに、部屋に三つあった扉のうちのひとつへ案内した。

 再び王子が先頭で燭台を持ち、エディンがアリシアの手をひく形で後に続く。
 明るくした部屋はすぐに後方へ遠ざかり、狭い通路をひたすら進む。途中から動物臭さはなくなったが、景色に変化がなく、距離も方向もつかめない。それほど歩いていないのかもしれないが、単調な通路はとても長く感じた。
 どれぐらい歩いたかわからないまま、さらに進むと、頑丈な鉄扉に行きついた。大人の腰の高さほどしかない扉。王子が、持っている鍵で扉を開くと、その先はまっすぐな上り階段になっていた。
 長い階段を上り始めると、すぐにアリシアが息をきらし、倒れかけてエディンの片腕にすがった。王子はそれに気が付き、振り返りはしたが、足を止めることはなかった。
「もう少しだ、辛抱しろ。馬車に乗ったら、すぐに休める」

 どこまでも両側に迫る壁。幅は人が二人肩をぶつけながら並んで歩けるほどしかなく、圧迫感でよけいに狭さを覚える。
 アリシアを引きあげるように階段を上るエディンも苦しいと思い始めた時、突然、空間が少しだけ広がった。
 そこは、ちょっとした踊り場が作られており、今までと同じような鉄扉が行く先を封じている。王子が鍵で開く。開いた扉の向こうに、さらに上り階段が続いているのを見ると、アリシアはあからさまにがっかりしたため息をついた。王子は、扉を全開にすると、エディンたちに先へ行くように、あごで合図した。
「悪いが、私はすぐに戻らないといけないから、ここまでしか案内できない。この階段を上って外へ出れば、馬車が待っていると思うから、それに乗れ」
「かしこまりました。馬車でどこへ行けばいいのですか」
「言っただろう。ガルモ邸だと」
 エディンは空気の固まりをゴクンと飲み込んで、詰まりそうになった。
「結局、私の屋敷に決まったのでございますか!」
 声が大きくなってしまった。王子は「静かに」とエディンを制すると早口で説明した。
「御者には行き先を伝えてあるから、黙って馬車に乗れば屋敷まで連れて行ってくれる。馬車は、その後はガルモ家の物として使っていい。この階段を上りきったところで待っている男が、アリシアをかくまうための経費を渡してくれるから、それを自由に使え」
 エディンは、アリシアの潜伏場所が自宅に決まったことで汗をかいたが、同時に、ドルフの身柄がどうなったのかも気になった。聞こうと思ったが、王子はせわしげに説明を続ける。
「それから、アリシアの監視役として、王の私兵が一人、そちらへ派遣されることになった。すでに馬車に乗り込んで待っているはずだ」
「陛下の私兵の方が……」
 王の私兵は、王が国費ではなく、私財をさいて雇っている秘密兵。エディンのように、兵庁が管轄している城の兵ではない。秘密兵は、普段は兵の服装をしておらず、使用人にまぎれて城に出入りしているらしい。彼らは、王に絶対の忠誠を誓っており、いざという時には命をかけて王を守るだけでなく、城内のあやしい者に目を光らせる密偵の役もしていると言われている。
 エディンは、私兵の話は聞いたことがあった気がしたが、何人城中にまぎれているのか、誰がそうなのかは知らなかった。
「どなたが来てくださるのですか?」
「私も、選ばれた私兵の顔も名前も聞かされていないのだが、派遣される者は、若いがとても腕利きだそうだ。それならアリシアの監視役と同時に守り役も務まる。王の私兵だということを伏せて、ガルモ邸の使用人として一緒に連れて行くがいい」
「陛下の兵をお借りできるとは、本当にありがたき幸せでございます」
「本当はもう一人ぐらいつけたかったが、城内の守りが手薄になった今、何人もそちらに人を回すことは無理だった。アリシアが城内で死ななかったことは、おそらく賊たちは知っていると思う。賊たちが全員捕まるまでは、アリシアは探され、狙われ続けるだろう。さあ、見つからないように急いで行くのだ。エディン、くれぐれもアリシアを頼んだぞ。大切な生き証人だ。絶対に守りぬけ」
「はいっ!」
 エディンは頭を下げた。


 扉の前で王子と別れたエディンとアリシアは、暗闇に取り残された。ひとつだけだった明りは、王子が持って行ってしまったので、狭く急な階段は、手探りで進むしかない。エディンが這うようにして先を進み、すぐ後ろにアリシアが続く。
「エディン、待って。何も見えないわ」
「私はここにいます。足に触れてください」
 真っ暗闇。アリシアの指先がエディンのふくらはぎに触れて来た。
「ゆっくり行きましょう」
 手で階段を探りながらゆっくりと進む。何段も上らないうちに、階段はらせん状に変わり、上から光が漏れているのが見えた。周囲が徐々に明るくなって来ると、二人は安堵の声をもらした。
「エディン、見て、明りが!」
 エディンは足を止め、滝のように流れる汗をぬぐった。階段は、木のふたがされた天井へ消えていた。天井のふたの隙間から、光がもれ落ちている。上から入ってくる空気には、ネズミ臭はなく、甘い香料の匂いがする。
「やったわ、たどり着いたみたいね」
 二人は、階段に座り込み、ふぅ、と息を吐いた。
「これは厳しい道でした。ご気分はいかがですか。これ以上階段が続けば、私もへたってしまうところでした」
「心配してくれてありがとう。体調はよくはないけど、エディンこそ、ふらふらしてるじゃない。私がしがみついていたから、骨折している肩が痛いんでしょ。ごめんなさい、どうしようもなくて」
「いえ」
「疲れたって言えばいいのに」
 エディンは苦笑いした。体調が万全ならば、たいしたことはない階段かもしれないが、狭く圧迫感がある暗闇の中ということもあり、精神的にも疲れを感じていないと言えば嘘になる。
「アリシア様。この先が階段になっていたら、もう少しだけこのまま休みましょうか。ジーク様は急げとおっしゃいましたけど。ちょっと様子を探ってみます」
「気を付けてね。何が待ち構えているかわからない。なんだかいい匂いがするわ。甘いお菓子を焼いているみたいな……」

 エディンが、天井板を少しだけ上げて覗くと、そこはごく普通の民家の一室だった。エディンが持ち上げている天井板は、この部屋の真ん中あたりの床板の一部だとわかった。さらに詳しく様子を見ようと天井板の隙間を大きくすると。
「おみえになったか」
 声がして、誰かがエディンに気が付き、駆け寄ってくる。
「お待ちしておりました」
 階段の天井板が、バッと取り払われ、昼の光が目に入り、エディンもアリシアもまぶしさに目がくらんだ。よろめきながら二人が階段から這い出ると、そこには中年に見える、脂ぎった顔の男が待ち構えていた。
「こちらをお持ちください」
 中年の男は、愛想よく、エディンに紙の手提げ袋を渡した。薄い黄色で、不規則な地模様が入った紙袋。

 ――あ。この包み、見覚えがある。

 抱きかかえるほど大きな紙袋は、中が見えないように、入れてあるものまで同じ模様の紙で包まれていた。
 男は紙袋を渡すと、エディンたちに付いて来るように言った。甘い菓子の匂いが室内を満たしている。
「幸せな匂いね……」
 アリシアがうれしそうにささやいた。

 無言の男に連れられて、表通りに面した窓がある場所まで来ると、はっきりどこかわかった。
 王家御用立て菓子店『ジェランの店』――ニレナネズミを入れて持ち帰った時の箱を使用している焼き菓子店。
 この店は、城からは完全に外に出た表通りに面した場所にある。
 エディンは案内してくれている男を後ろから観察したが、城内で会った覚えはなかった。男は白い前掛けをしていたが、菓子店の店主か、店員かはわからない。それとも。
 ――この人が一緒に連れていく私兵?
 疑問をぶつける隙もなく、男は廊下を通って、二人を菓子販売をしている店内に案内し、ガラス窓ごしに見えている、店の前にいる二頭立ての馬車を指差した。
「あちらに」
 男は余分なことは何も言わない。落ち着き払っている様子から、すべての事情を知っているのだろう。
 エディンは周りに注意を払ったが、幸い他の客はいない。体調の悪さを忘れ、陳列された焼き菓子に見とれているアリシアをうながして、店の外への扉を開けた。
「お買い上げ、ありがとうございました!」
 案内の男が店内で深々と頭を下げる。その声に押し出されるように外へ出て、馬車の前へ進んだ。男は付いてこない。どうやら、あの男は私兵ではなかったようだ。

 エディンとアリシアが近づくと、御者席に座って待っていた別の男が、さっと動いて扉を開けてくれた。中にはジーク王子が言った通り、すでにひとり乗っている。アリシアを先に乗せ、御者の顔を何気なく見たエディンは、驚きの大声をまたしても出しそうになった。
 
「っ!」

 つばの広い帽子をかぶり、顔を隠すようにしていた御者の顔は――
 それに、馬車の中で待っていた人間の顔もどこかで見たような。



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