35.馬車の中で
エディンが驚きを口にする前に、御者の男が、しぃ、と制し、首を回して周囲を確認した。
「お話は後ほど。お乗りください」
石畳がまっすぐに延びる道。通りに人の姿はちらほらある。通行人たちはこちらをジロジロ見ることなく普通に歩いており、怪しい雰囲気はない。大通りの両側には石造りの建物がびっしりと隙間なく並ぶ。ほとんどが二階か三階建てで、一階部分が店舗になっているところも多い。それらの建物の中から誰かが見ていたとしても、こちらからはわからない。
エディンは素直に御者に従い、急いでアリシアの隣へ乗り込んだ。箱型の馬車の扉が閉められ、馬車がゆっくりと動き出すと、エディンは窓の日よけ布を下げ、外を見えなくした。
先に乗っていた女性は進行方向を背にして座っており、エディンとアリシアはその女性と向かい合って並んで座った。馬車に揺られると、一気に緊張が抜けて疲れが押し寄せる。アリシアも力尽きたように、エディンにもたれかかった。
馬車の中にいた女性は、疲れ果てているエディンたちにはかまわず、楽しそうに目を輝かせた。
「伯爵様、おはようございます」
女中のようなワンピースに白いエプロンを着た女性は、茶色い目を細めてにっこりと笑った。
「君が陛下の私兵だったのか」
前に会った時、彼女は黒っぽい髪を後ろでひとつに束ね、白い布帽子をかぶっていた。今は帽子はないものの、束ねた髪形はそのまま。
「もう忘れちゃった?」
「いや、忘れていないけど、まさか、陛下の私兵がこんなに若いなんて思わなかった」
驚いて彼女の顔をまじまじと見る。エディンと同じぐらいの年齢、十八歳ぐらいに見えたあの女性に違いない。アリシアがたずねた。
「お知り合いなの?」
「知り合いというか……知り合ったばかりなんです。城で拘束されたときに、ジーク様の代理で私を探してくれた人です。彼女はシュリアといって、城の厨房にいる女性ですが、まさか陛下の……」
シュリアは得意げに、うふふ、と笑い声をたてた。
「そうなんだよ、伯爵様。ジーク様もあたしのことは御存じなかったみたい。陛下から事情は全部聞いているから安心して。この女が逃げないように、徹底的に見張るから。あたし、こう見えても、剣投げはとても得意。この女が逃走しようとしたら、足の腱を切ってやるよ」
アリシアを馬鹿にしたような言い方だったので、エディンはシュリアを叱った。
「そんな言い方、失礼だ。陛下から事情を聞いているのなら、アリシア様の素性は知っているんだろう? 彼女はキュルプ国、前王のお子。敬意を払うべきだ」
「それは聞いた。でもそんなの母親が勝手に王の子供だって思い込んでいるだけだよね。認められていないなら、誰の子かわからないのと同じだよ」
エディンにもたれかかるようにしていたアリシアは、失礼なシュリアにキッと眉をつりあげた。
「私は前王の子供として認められてなくてもいい。そんなことあなたにごちゃごちゃ言われる筋合いはないわ。あなたこそ何よ。馴れ馴れしい口の利き方をして、何さまのつもり? いくら特別な兵でも、そんな態度しかとれないなんて、偉くもなんともないわね」
「ふん! いい子ぶる気? あたし、知ってるもん。あんた、裸になってジーク様を誘惑しようとしたんだってね。最低なあばずれだ」
揺れる馬車。狭い車内でにらみ合う女性たち。今にも乱闘になりそうな気配に、エディンは割って入った。
「シュリア、アリシア様に無礼な口の利き方をするな。彼女の顔立ちを見れば、キュルプ王家の血を引いていることは明らかだ」
「伯爵様、甘いよ。他人の空似ってことかもしれない。この女を丁寧に扱う必要なんてないんだよ。この女、本当はアリシアって名前なのに、ニレナ王女の振りをして嘘をついてたんだろ? とんでもない嘘つき女。こんな女を守らないといけないなんて、あたしもついてない。伯爵様もかわいそう」
シュリアが大げさに首を振ると、アリシアはシュリアを殴らんばかりににらみつけた。
「あなたなんかに守っていただかなくても結構。ここで降ろしてもらうわ」
アリシアはそう言うなり、馬車の扉を開けようとした。
「アリシア様!」
エディンがあわてて彼女の腕を引っ張ったので、アリシアはよろめいてエディンの膝に座るような形になってしまった。アリシアは、支えるように腰に回ったエディンの腕を振りほどこうとする。
「離してっ。こんな嫌な女に守ってもらおうとは思ないから。もういいの。生きている意味はないからすぐに殺されてもいい。ここで降ろして。私を自由にしてちょうだい、エディン」
「だめです。絶対に守りとおすようにと、ジーク様のご命令です。一緒に私の家までまいりましょう。精一杯のことはいたします」
「離してってば」
「っ!」
暴れたアリシアの腕がエディンの負傷している肩に当たり、エディンは顔をしかめた。アリシアが謝る前に、シュリアが食ってかかる。
「この乱暴女、伯爵様になんてことするんだよ。あんたなんか、しばっておいた方がいいんだ。ちょっと手貸しな」
「シュリア、よせ。僕なら大丈夫だ。アリシア様もまだ熱があるのだから、じっとしていてください」
アリシアはエディンから離れると、再びシュリアをにらみつけた。
「生意気な子供ね! 国王の特別任務を受けたと思って調子に乗ってるでしょ」
「うるさいな。計算高いあばずれのくせに。そうやってすり寄って伯爵様を誘惑する気なんだ」
「それ以上の暴言は許さないわよ」
「このあばずれ!」
「子供のくせに!」
二人の女の間に目に見えない火花が散る。
「二人ともやめてください」とエディンが言うのと同時に、パチン、と音がした。
「やったな、売女」
頬を抑えたシュリアがアリシアにつかみかかる。狭い馬車内で、髪の引っ張り合いが始まった。
「やめてください。やめなさい! やめるんだ。命令だ、けんかはやめろ!」
エディンがアリシアを引き離して、二人の女の戦いは、いったん終わった。
「痛っ」
シュリアのこめかみ部分に、小さな引っかき傷が出来ていた。
「伯爵様、見てよ、この女こんなに凶暴だよ。だから、そんなに大事にしなくてもいいんだって」
「わかったから、もう黙っていてくれ」
すかさずアリシアが突っ込む。
「エディン、わかったって、何が?」
「いえ……何でもないです……何もわかっておりません」
――おおう……これでは先が思いやられる。
エディンがため息をつきかけた時、馬車がとまった。
エディンが日よけを少しずらし馬車の外をのぞくと、ガルモ邸の前に馬車は着いていた。もともと歩いて行ける距離、それほど時間はかからない。
「門を開ける前に、一応、この館の当主としてこれだけは申し上げておきます」
エディンは、そっぽを向いている二人の様子をみながら話した。
「家の者は事情を何も知らないと思うから、余計なことは言わないでください。アリシア様は私の客人として、シュリアは使用人として紹介します。くれぐれも母の前ではけんかしないください。母は体調を崩しているから」
エディンは「仲良く」と二人に念を押し、門の鍵を開けるために、馬車を降りた。
馬車の扉を開けてくれた御者と目が合うと、御者は、分厚い唇で、にやり、と笑った。
御者の、腫れてすっかり大きくなってしまった唇と、目のあたりに残る、殴られたような赤黒い打ち身の痕。顔が全体的にむくんだ感じで、人相が変わって見えるが。
まぎれもなくこの御者は、毎晩のようにエディンと共に王子の部屋の前に立ち、耳栓をくれたあの男だった。
「ドルフさん……その顔……」
「おう、ひでえ面になってるだろ? あいつら、俺を犯人扱いして、拷問にかけやがった。ま、その話は後だ。誰かに見られないうちに、さっさと門を開けてくれ。ガルモ家は主人が帰ってきても誰も門を開けないんだな」
痛々しい見た目のわりには、ドルフは元気そうで、いつものように黒い瞳をくるくると動かしてみせた。
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