32.お願いですから
王女は黙ってジーク王子に背を向けた。
エディンは、この女性がニレナ王女ではないなどとは信じがたいが、背中を向けたことが答えなのだと思った。都合の悪い突っ込みからどう逃れるつもりだろうと見ていると、王女はクスクスと笑い声を立てた。
「おもしろいお話。私がニレナではないとおっしゃるのね。数年前にここへ来た、首にほくろのある女が偽者かもしれなかったとは思わないのですか」
からかうような王女の口調にも、王子は怒ることはなかった。
「そういう考え方もできる。だが、君が本人だとしても、今となっては何の意味もない。この城の流血騒ぎのことはキュルプ王家に伝えたが、結婚式は予定通り行うと、向こうは連絡してきたと昨夜教えただろう。君がニレナ王女本人であってもなくても、私の花嫁『ニレナ王女』は来るわけだ」
王子の言葉に、エディンは驚いて、冗談かどうか、思わず王子の顔をじろじろ見てしまった。王子はまじめそのもの。
――結婚式は予定通りに?
エディンは驚きを抑えられずに口を挟んでしまった
「それは本当なのでございますか。予定通りにご結婚なんて……もしも、お越しになる方が偽の王女様だったら、ジーク様は出自のわからない女性と結婚させられてしまうかもしれません。そんな……」
「そうだね、エディン。そう思うのは当然だ。もしも、ここにいるのが本物のニレナ王女ならば……ね」
王子は含んだ言い方をして軽く笑った。
「だけどこの女性はニレナ王女ではない。ここへ運び込んだ時は、私は本人だと思っていた。だから命を助けたくて、ここへかくまった。首にほくろがないことに気が付いたけれど、それでもニレナに違いないと信じていた。でもやはり別人だ」
「しかしながら、この方は、あの肖像画の王女様にそっくりです。他人にしては似すぎていると思うのですが……」
「だから私もだまされた」
背を向けてジーク王子とエディンの会話を聞いていた王女は、寝台の中で向きを変えると、王子をにらみつけて反論した。
「首にほくろなんて、元々ありません。その日は、偶然、首にかさぶたができていたのかもしれません」
王子は、不快そうに片眉をあげた。
「見苦しい。あきらめろ。君の本当の名前は?」
「ニレナです。無礼なことばかり言わないでください」
「それなら、私の婚約者と同じ名前だということにしてやろう。だけど、君は、私と手紙を交わしていたニレナ王女とは絶対に別人だ。ちょっと君を試してみたけど気がついたかい? 大切な友の名前を、私はわざと間違って言ったのに、君は訂正しなかったね」
「えっ?」
王女の顔が引きつる。王子は追い詰めるように目を細めた。
「王女の愛玩動物の名前は『パピ』ではなく『ピパ』だ。しかも、君は『パピ』が何かも言えなかった。本当は知らないのだろう? それでも君は自分がニレナ王女だと言い張るのか。私が手紙を交わしていた『ニレナ』の方が偽者だったとでも言うつもりなのか?」
「私を不快にさせるような質問にはお答えできません」
王女は、眉を寄せたまま目を閉じてしまった。王子の方は、そんな彼女を冷たく見おろして唇を引きしめている。
エディンはどうなることかとはらはらしつつ、このうえもなく居心地の悪い雰囲気に耐えた。
長い沈黙の後、王子が口を開いた。
「ニレナ、取引をしよう。君の命を助けることと引き換えに、君が持つ情報を私に渡してくれ。私は約束は必ず守る。エディンが証人だ。君は死ななくてすむ」
「取引材料などありません。私を賊として裁けばよろしいでしょう」
「意地を張る必要などない。君が私の予想している人物だとしたら、すべてを話せない事情もあると思う。君は素直じゃないから、刃物で脅したとしても、何も言いそうにないね」
王子は「困ったものだ」と言いながら、自分の上着の胸ポケットを探った。
「仕方がない、気分転換にどうでもいい話をしてやろう。今日、ちょっとばかり興味深い品物が手に入ってね、君に見せようと思って持ってきたのだ」
王子は、ポケットから取り出した何かを王女の目の前に持って行った。彼女にしっかり見えるよう、てのひらを開いて握っていた物を見せた。
王女は見るなり、目を大きく開いた。王子の手の中には、赤茶色の巻き毛のひと束が乗っている。
王子は、ふっ、と笑った。
「顔色が変わったな。では君の正体は私の予想通りか。君はこの髪が誰の物なのか知っているのだろう?」
王女が返答するまでに、一瞬、間があった。
「……何のことですか。意味がわかりません」
「これは、ある女性の髪だよ。それから、彼女が付けていた髪飾りがこれで、彼女の夫の髪の束がこれ」
王子は、糸でまとめてある黒っぽい短髪の束も出して見せた。さらに出す。
「まだある。この夫婦の子どもたちの髪がこれとこれ」
「そっ、それがどうかしたのですか。そんな誰のものともしれない髪の毛になど興味はありません」
王女は目をとがらせて怒りを示しているが、心なしか、肩が震えているようにエディンは思った。
「君が知らないなら教えてやる。この髪の持ち主たちは、一家ごと行方をくらましていたが、先日、この町のはずれで惨殺死体となって発見された。夫婦と、十歳前後の少年が二人。彼らはどうしてそんな死体になってしまったのだろうね。一家の中では、年頃の娘の死体だけがまだ見つかっていないらしい。ちょうど君ぐらいの年齢の娘がいたそうだが」
「……」
王女は唇をピクピクと引きつらせていた。王子はその様子をじっくり観察しながら、追い打ちをかける。
「これは、本当にその惨殺死体たちからとった髪だ」
王子が出てきた地下への階段から吹きあげてくる風が、静かな部屋の空気をかすかに揺らす。王女は黙って王子を見上げ、すぐに目を反らした。
「ニレナ」
王子はやさしく王女の手を取って、髪の束と髪飾りを握らせた。
「君の……大切な人たちの遺品だ。これは君が持つべきだ」
「何を根拠にそんな……まるきり見当違いです。髪の毛なら生きている人間からでも取れます。それに、町はずれに誰かの死体が本当にあったとしても、私には関係ありません。ジーク様は、その髪の人たちが私の知り合いだとおっしゃりたいのでしょうけど、似たような髪はいくらでもあります。勝手に決めつけないでください」
彼女の言葉はきついが、言い方は勢いを失い、全く元気がない。瞳がうるんで、今にも泣きそうだった。
「君のニレナとしての役割は終わった。今言ったことは真実だ。君の家族は、何者かに全員殺された。君は家族を人質に取られたから、ニレナ王女になりすましてこの城へ侵入する条件を飲み、家族を開放させようとしたのだろう?」
息をすることすらためらうほど、張り詰めた寝室内の空気が漂う。
ジーク王子がどこまで真実を言っているのか、エディンには全くわからなかった。王子は辛抱強く、王女の自白をうながす。
「全部話して楽になれ。協力してくれれば命はとらず、君が今後も安全に暮らせるように、力を尽くすと約束する。それとも、君がこの髪の人たちを殺したのか?」
「そんなっ、違います」
王女は毛布を引っ張り上げると、顔を隠してしまった。その手に握られた髪の束も毛布の下に入り見えなくなった。
「ここからは私の想像だが、君は――」
王子は言いかかって、途中でやめた。王子は、秘密の階段を振り返り、中に注意を払っている。エディンものぞきこんだが、誰かが来る様子はない。
王子は「様子を見てくる。少しだけ待っていろ」と告げ、燭台を手に取ると、細い秘密階段を下りて行った。
エディンは自称王女と二人きりになった。
「あの……」
声をかけたものの、その後が続かない。もう一度声をかけると、彼女が毛布の下から目から上だけ出した。まつ毛が濡れ、目は赤い。
「何よ」
「あの、申し上げにくいのですが、なんとお呼びすれば……」
「私の名はニレナよ」
「では、あなた様は、やっぱりジーク様のご婚約者のニレナ王女様なのですね?」
しん、と静まり返る寝室。エディンは返事を待った。
――返事をしないということは、やはり別人か。では、ジーク様が言った数々のことが本当なのかもしれない。でも。
この女性はニレナ王女に似すぎている。国中にあふれる、この女性とそっくりな肖像画をどう説明したらいいのだろう。
「すみません、私はただの兵なのでさし出がましいですが、事情がおありなら、ジーク様にすべてを打ち明けた方がいいと思います。真実を告げれば、必ずお守りくださるでしょう」
「エディン、心配してくれてうれしいけど、何も話すことはできないの。さっきジーク様が持ってきた髪だって、私をひっかけようとしているだけの気がする。信じてすべてを打ち明けて、それがもしもジーク様の策略だとしたら……」
エディンは王子が下りて行った階段に目をやったが、王子はまだ戻ってこない。
――冷静に考えれば、ジーク様の策略ということも考えられる。死体なんかどこにもないかもしれない。だけど、王子が持ち込んだ髪を見て、この人は明らかに動揺し、今も泣いている……
エディンが考え込んでいるうちに、自称王女は再び毛布にもぐってしまった。王子が渡した髪の束は、今も彼女の手の中にある。
なぐさめるすべを思いつかず、エディンは泣き声がもれる毛布の塊をぼんやりと見ていた。
間もなく夕食時間かと思えるほど闇が深まってきた時、コツコツと足音がして、ジーク王子が秘密階段から戻ってきた。
その手には。
「はひゃっ! ジーク様、それはっ!」
王子が持っているものを見るなり、エディンは全身が鳥肌状態になった。
「しっ、静かに。そんな変な声を出したら、巡回兵が寄ってきてしまう」
王子はニコニコと笑い、手に握っているうごめく黒い塊を、目の前にかかげ、満足気に目を細めた。そして、自称王女がすすり泣いている寝台へ近づき声をかけた。
「ニレナ。君がニレナという名だと言うなら、私の婚約者と同じ名で呼んでやるから、ちょっと顔を見せろ。君に見せたい、いいものがあるのだ」
「見たくありません」
毛布の下からくぐもった声。
「そうはいかない。見てもらおう。かわいい生き物だ」
王子は笑顔で毛布をはねのけ、隠れていた王女の顔をさらすと、持ってきた黒く小さな生き物を目の前につき出した。
エディンが大嫌いな、黒く、モソモソ動く生き物。今、握られているのは、ニレナネズミよりひとまわり小さく、別の個体のようだった。
「きゃっ……!」
驚いた彼女の叫び声は、ジーク王子の手によってふさがれた。
「どうだ? ちょうど捕まえたから連れてきた。これは小さいが、結構どう猛な性格でもある」
王子に握りしめられた黒ネズミがもがく。それが徐々に自称王女の鼻先へ近づけられる。
「全部話すのだ。さもないと――」
自称王女は首をいや、いや、と横に振り、王子の手でふさがれた口の中で、ごもごもと必死で何か言った。王子は彼女の口から手を離したが、ネズミは今にも彼女の鼻にかみつきそうな場所に突き付けられている。
「さあ、知っていることをすべて言え。今回の殺傷騒動は誰のさしがねなのか」
王子につかまれている黒ネズミは、苦しまぎれに手足をめちゃくちゃに振り回して逃れようとする。王女の顔のすぐ前で、小さな手足と尻尾が動き王子の手から逃れようとする必死の泣き声を出している。
むき出しになったネズミの歯は王女の顔に届きそうなほど、すぐそこに迫っていた。
「さっさと言わないと、きれいな顔が台無しになるかもしれないね。かみつかれるとね、結構痛いのだよ。痕が残ってしまうことだってある。エディン。そうだろう?」
「はっ、はい! 大変痛いのであります!」
いきなり振られた話に、エディンはビクリとして姿勢を正した。
「ニレナとやら。誰の命令でこの城に来たのか? 答えろ」
王子は厳しい言葉とは裏腹に、楽しそうに訊問している。誰もがほれぼれするような麗しい笑みを浮かべた顔をしながら、黒ネズミを握りしめて女性を脅していた。
「……っ!」
ネズミの足の先が王女の頬に少しだけ触れた。王女は声にならない叫びをあげた。
「では、かみつかせよう。刺激的だから、癖になってしまうかもしれないね」
――それはあなた様だけです! おお、おやめください。
エディンは心の声を押し殺して成り行きを見守った。王子は王女が握っていた遺品を取り上げると、器用に片手だけで王女の両手首に紐をかけて、手を動けなくしてしまった。王女は涙目で抵抗する。
「いや! やめて!」
「言わないのなら、覚悟してもらおう。この城の罪なき者が何人も死んだのだ。君をこのまま逃がすことはできない。君が何も言いたくないのならば、言わずにはいられないような環境を作るだけだ。生まれてから一度も味わったことがないような刺激を君にあげよう。エディン、彼女の服を脱がせろ」
――ええぇぇ!?
「そっ、それはあまりにも……お気の毒な……」
「気にするな。この女は人殺しの仲間だ。本来ならば首をこの場ではねてもいい存在だよ。自分も殺されかけたことを忘れるな」
エディンは自分の顔が真っ赤になっていることに気がついたが、隠しようもない。王子はエディンの顔色は気がつかずに、ニレナの前でネズミをちらつかせるのに夢中になっている。
「彼女の上半身をはだけるだけでいい。肌にこの子を触れさせてやる」
命令に逆らうことはできそうにない。
エディンは心を決め、「失礼します」と王女の胸元に手をかけた。
ドキドキする心臓、鼻血がまた出そうな血液の暴走を感じながら、ひとつ、ふたつ、とボタンを解いていく。
包帯が巻かれた肩から胸が、そして、傷を受けていない方の白い胸もさらされる。
「やめて、人でなし!」
王女は身をよじって胸を隠そうとしたが、王子にあっさり抑え込まれた。
「それぐらいでいいぞ、エディン。さてと。ニレナ、これでも話してくれないなら……私が何をしたいかわかるか?」
王子の手に握られてあばれている黒ネズミが、あらわにされた胸元に近づけられる。尻尾の先が首筋に触れた。
「いや、いやっ!」
王女は引きつった顔で、泣きながら首を左右に振った。
「怖いのか? 慣れれば快感だ。君にたっぷりと教えてやろう。まずは首から」
王子は楽しげで、さらにネズミを肌に寄せ、王女の鎖骨あたりに小さな手足を触れさせた。
「ああっ、いやぁぁ! ネズミはやめてぇ」
「やめてほしいなら、事情を話すしかない」
「やめてって言っているじゃない」
「君が何も言わないなら――」
「やめてぇ!」
今にもネズミが首にかみつきそだ。
「誰の命令でこの城へ来たのか? 次に答えなければ一切手加減はしない」
「わ……わかりました。知っていることを全部言います! だからこのネズミをどこかへやってください。お願いします。早く、それをなんとかしてください。お願い……」
寝室内に王子の明るい笑い声が響いた。
かくして、がんこに沈黙を守ってきた彼女は、ジーク王子の、ネズミを使った脅しに屈した。
エディンは、棒立ちのままでこの光景を見ていた。王子を止めたかったが、かみつかれた痛みを身体が思い出し、全身を走る悪寒に、身動きができなくなっていたのだ。
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