15.帰巣本能?
「ひあっ、それは!」
王子の右手の中に捕まれている黒い塊。つかみきれない灰色の尻尾がクニャクニャと動いている。
「そっ、それは……どうして……ニレナ様がここに……」
自宅からこの城は、歩いていける距離だが、ネズミの足にすれば遠い距離だと思われる。それでも、ここにいる以上、認めないわけにはいかない。
――帰巣本能? ここまで戻って来たのか!
エディンは、自分の顔から血の気が引いて来るのがわかった。これで、ニレナネズミが家にいないことがばれてしまった。言い訳が出てしまう。
「ニレナ様は私の家におられたはずですが……」
王子は真っ青になっているエディンには気がつかない様子で、楽しげに、エディンの目の前にネズミを差し出た。黒い毛におおわれた小さな身体が確認できる。汗が全身から噴き出す。
――やっぱり、黒ネズミだ。ニレナだ。うあぁぁぁ……終わった。ガルモ家の将来はもう終わった……
エディンは持っている槍で身体を支え、倒れないように、少し足を開いた。呼吸をするのも苦しい。
王子は、にこにこしながら、手に持っているネズミをさらにエディンの顔に近づける。エディンは思わず、下がりたくなったが、こらえた。
「エディン、よく見ろ。ニレナに似ているけど違う。あの子はこんなに太っていない。この子は、今捕まえたばかりなのだ。この背中、丸々してなかなか気持いいぞ。エディンも頬ずりしてみるか」
「えっ……あの……」
――ニレナではない? た……助かった……
王子の言葉に、一瞬ほっとした喜びがあったが、まだ唇が勝手に震えてしまう。
「ほら、エディン、なかなかかわいい子だ。ニレナの友達か、家族ではないだろうか」
「そ……そうですね。きっとニレナ様のご家族でございましょう」
唇がひくひくしたおかしな笑い顔でごまかす。
「この子はまだ調教していないから、急に噛みつくかもしれない。訓練する必要がある」
「あなた様はどうして調教など、ではなくて、えっと、失礼しました。そちらは、どこで捕まえたのですか」
「ニレナの穴だ。この部屋のそこにある」
王子は、寝室の端に置いてある茶色い家具を目で指した。
寝室の壁の隅に置かれている、大人の腰の高さほどの木製家具。平らな上の部分には、王子の小物を入れる箱や、小さな絵などが置かれている。五段ほどの深めの引き出しが付いているが、それはきちんと閉じられており、どこに穴が空いているのかはエディンにはわからなかった。
「今日は、新しい子に出会えた特別な日だから、エディンだけに、ニレナの穴を見せてやろう。私の留守中に穴が塞がれてしまうと悲しいから、場所は誰にも言わないでくれ。いいな?」
前から疑問に思っていた、ニレナの住処。ドルフでも知らないネズミの巣。この機会を逃せば、もう教えてもらえないかもしれない。少し落ち着いてきたエディンは、普通に返事をした。
「はい、見せていただけるとは、この上もない幸せでございます」と、言ったが。
――しまった。それより先に言うべきことが。
顔を引き締める。
「すみません、ジーク様。穴は後で見せてください。それよりも、陛下がお呼びとのことです。すぐに陛下のお部屋へお出ましになるようにと、小姓が伝えてきました」
笑顔で家具の前へ移動したジーク王子は、それを聞くと、不快そうに、むっ、と眉を寄せた。
「なぜだ。こんな時間に父上が私を呼び出すわけがない。間違いではないのか」
「私は……伝えるように言われただけで……」
笑顔が消えてしまった王子に、エディンは頭を下げて小さな声になった。
「何の用なのか、聞いて来い。どうしても、と言うなら出向くが、できるなら明日にしたい。こんな姿では部屋を出ることはできないし、せっかくのこの子との時間をつぶしたくない」
エディンは一礼すると慌てて廊下へ戻った。
廊下では、ドルフと小姓が立ち話をしていた。ドルフは一人で出て来たエディンを見て、おや、という顔をした。
「ん? ジーク様はどうした。おまえの大声が聞こえたが、まさかアレか?」
ドルフは、意味ありげに片目だけまぶたを閉じ、自分の首筋に残る、小さな噛み傷の痕をさりげなく指で示した。エディンは、またネズミがぁ、とドルフに泣きつきたいのをこらえ、小姓に向けて質問した。
「ジーク様は、明日にしてほしいとおっしゃっておられる。陛下の御用はお急ぎの用件なのか」
エディンに問われ、まだ十五歳ぐらいの小姓は眉を下げて困った顔になった。
「詳しくは、僕は知らないんです。陛下のお加減がよくないと聞いてきただけです」
そういうことならすぐに王子を連れて行った方がいい、とドルフが言うので、エディンは王子を呼びに戻った。
ジーク王子は寝室の寝台に腰かけ、手に黒ネズミを持ったまま待っていた。
「父上がお倒れになったのか」
「いえ、そうとは聞いておりませんが、お具合がすぐれないので、至急、陛下の元へ参じるようにとのことでした」
そうか、と王子はすぐに寝台から立ち上がった。
「わかった、すぐに仕度する。エディン、着替えるから、この子を持っていてくれ」
王子は、有無を言わさずエディンの手を取り、黒ネズミを握らせた。
エディンの手の中で、温かい毛むくじゃらがもそつく。鳥肌が立った。
「ひぇっ」
「静かにしてくれ。絶対に離すな。せっかく捕まえたのだから。父上の見舞いを終えたら、すぐに返してもらうから、少しの間だけ持っていてくれればいい」
王子は手早く服を身につけると、エディンのネズミにはかまわずにさっさと部屋を出て行こうとする。
「お待ちください。警護いたします」
ここで置いて行かれては、何のための警護兵かわからない。エディンは慌てて後を追う。手にネズミを握りしめたまま。