16.捨てたい
「父上のご容体はどうなのだ」
ジーク王子は、部屋の入り口で待っていた小姓に問い詰めた。
「ジーク様、申し訳ありません。陛下のご様子をきちんと伺ってくるべきでした」
笑顔がないジーク王子に、小姓は恐縮して、ペコペコ頭を下げ続ける。
「わかった。すぐに見舞いに行く」
ドルフは、王子を追って飛び出してきたエディンの姿を見るなり、丸い目をくるくると動かした。その視線の先は、明らかに、エディンが不自然に後ろに回している手に注がれている。
「おお?」
エディンは瞬きを頻繁にして、ドルフに、見るな、黙ってくれ、と合図と送ったが、ドルフは、それには気がつかず、すっとエディンの背後に回り込んで、その手からネズミの尻尾がはみ出ているのを確認すると、おう、と声を出し、エディンの腕を引っ張って身体を寄せ、耳元でささやいた。
「おい、アレがここにいたのかよ」
「いえ」
「なんだ、違うのか」
「家族かも」
エディンは小さな声で答えた。その間に、王子と話が終わった小姓が、首を伸ばして、エディンが背中に回した手の中を覗きこんだ。
「あれ? ネズミだ」
はっきり言われてしまっては、隠しようもない。エディンは、自分の背中に回していた手を前へ出して、ドルフと小姓に堂々と見せた。
「寝室内にいた」
「お部屋にそれが? あなたが捕まえたのですか」
小姓はエディンに向かって質問したつもりのようだったが、答えたのはジーク王子だった。
「捕まえたのは、エディンではない。私だ」
興味津々な小姓に、王子は王族の微笑みを浮かべたが、すぐに笑顔を消した。
「みな、今ここで話をしている暇はない。黒ネズミのことは後でいい。とにかくすぐに父上の部屋へ向かおう」
王子は、さっさと歩きだす。小姓は廊下を照らす為に慌てて先頭に立った。置いて行かれないようにドルフとエディンが続いた。
城の最奥にある国王の寝室は、ジーク王子の部屋がある建物とは別棟で、屋根だけの長い渡り廊下を通らないとたどり着けない。庭園を囲むように作られているこの渡り廊下には、ところどころ燭台に火が灯されているものの、薄暗く、太く四角い柱の陰に誰か潜んでいても遠目ではわかりにくい。城内巡回の兵が時々通るものの、昼間ほど安全ではないことは間違いなかった。
エディンとドルフは細心の注意を払い、四方に目を走らせる。ドルフが時々、ブホッ、と不自然な咳払いをたてては、視線をエディンの背中にやる。その度に、エディンは、王子に見えないように気をつけながら、顔をしかめてドルフを槍の柄でつつくのだった。
エディンは背中に回している右手の中で、もぞもぞしている感触に身を震わせた。
――ううぅ……この黒ネズミを早く捨てたい……いや、殺したい。これは害獣だ。
手から伝わるネズミの生温かさと、毛の感触に、またしてもよみがえるニレナネズミの記憶。思い出して、ひいぃ、と叫びだしたくなる衝動を飲み込む。
――ジーク様がまたおかしな趣味に走らないようにするのは臣下の務め。あんなことをさせてはいけない。今すぐに殺そう。僕は正しい。不潔な黒ネズミはジーク様のお傍にいてはいけないんだ。
ネズミを握る手に軽く力を込めた。小さな生命は必死で逃げようとし、尻尾でパタパタとエディンの袖口を叩いてくる。その音に気が付き、ジーク王子が、足を止めた。
「エディン」
――わわっ!
手の力を弛めた。
「は、はい。なんでございましょう」
「ちょっと見せろ」
エディンは、背中に隠すように持っていたネズミ入りの手を、王子の前に差し出した。
「暴れているようだが、しっかり捕まえておけ」
「はい!」
同時に足を止めたドルフと小姓の注目も、エディンの手の中に集まっている。
「なかなか元気なやつだな」
王子はそう言って、ふっ、と笑うと、また歩き出した。一同は無言で従う。ドルフが意味ありげに、エディンに向けてにやりと笑いを送って来る。
エディンは、王子に聞かれないようにゆっくりとため息をもらし、ネズミを握りしめた手をまた後ろに回してついていった。他の巡回兵たちに、こんなものを持ち歩いている姿を見られたくない。
この手で殺せないなら、今すぐ捨てたい。どうしても捨てたい。さっさと手放したい。気持ち悪い。二度と見たくも触りたくもない。この城の塀の向こうへ、思いきり放り投げたら、気が晴れるかもしれない。
途切れることのない不快感を抱いたまま、薄暗い廊下を進んで行くと、やがて王の部屋がある建物の入り口が見えてきた。敷地内で最奥にある王の居住空間。この渡り廊下はその一角につながっている。
と、急にドルフが王子の前へ走り出て、「エディン」と叫んだ。
「ジーク様をお守りしろ」
「えっ?」
ドルフはエディンに構わず、早口で王子に告げた。
「これ以上進んではなりません。ここでお待ちください」
手の中のネズミにすっかり気をとられていたエディンは、慌てて行く先を見ると、今から入ろうとしている建物の入り口を守る兵たちが、数人その場に転がっているのが目に入った。エディンが、「あっ」と驚きの声をあげたのと、王子が大声を出したのは同時だった。
「これはどういうことだ。誰かいないか」
王子の声に、応じる声はどこからもない。ドルフは緊急を告げる小笛を懐から取り出すと、吹きならした。ピィーと鋭い音が、夜の城内に響き渡る。エディンもまねて笛を取り出そうとしたが、片手は槍、もう片手はネズミで塞がれ、何もできなかった。
ドルフは、小笛を口にくわえて吹きならしながら、倒れている兵達に用心深く近寄ると、笛を傍に置いて、息があるかどうかを手早く確かめたが、駄目だ、とつぶやいた。
「死んでいる。こいつも、こいつも……全員がやられてる。見ろ、胸を一突きだ。これじゃあこいつら、ほとんど即死だっただろう」
王子のすぐ横で立ちすくんでいる小姓は物も言えず呆然としている。エディンも、初めて見る死体に、足が、ガクガクとして、祈る言葉すら浮かばないまま、見ているだけだった。
死体になっている兵士たちは、エディンも顔をよく知っている男たち。言い知れぬ恐怖と悲しみに、息が詰まってしまったエディンが王子の顔を見ると、王子は今までに見たことがないほど深く眉を寄せていた。
「まさか、父上の容態がすぐれぬとは、襲われて怪我をした、ということではないのか」
いつもの穏やかさのない王子の口調に、小姓は、唇を震わせながら、首を横に振る。
「存じません。僕は……何も……本当に知らないんです」
「まあいい。父上が心配だ。行くぞ」
「しかし、ジーク様、賊が潜んでいるかもしれません。危険ですから、巡回兵が到着するまで少しの間、ここでお待ちください」
立ち上がったドルフが、王子を押しとどめようとした時。
周囲は突然の闇に包まれた。付近のすべての燭台が消え、小姓が手に持っていたはずの燭台も、光を発していない。急に訪れた闇に、誰がどこにいるのかすらわからない。
「明かりはどうした」と王子の声。
「誰だ、明かりを消しやがったのは。出て来い!」
ドルフの怒鳴り声も静かな闇に響く。
「出て来いと言っているだろう。人殺しめ」
返事の代わりに鈍い音がして、誰かが倒れる気配がした。
「ジーク様!?」
叫んだエディンの左頬のすぐ横を、何かがヒュッっとかすめた。