9.
私は悲しく暗い気持ちを抱えたまた自宅へ帰った。予定外の早い帰宅に、母が驚いて玄関まで出てきた。
「なに、亜来ちゃん。えらく早かったわね。夕食いらないんじゃなかったの? 芝川さんといろいろ決めるならもっと遅くなるかと思った。式場を見てきた?」
私は首を横に振った。母は私の泣き顔にすぐに気が付いてくれた。
「どうしたの。芝川さんと喧嘩でもしたの?」
「純也が――」
その後は言葉にならなかった。
――死にそうになってるの。
病室での彼の姿が思い出されてたまらなくなり、母に飛びついて子どものように泣き崩れた。母はそんな私を抱きしめ、髪を撫でて落ち着くまで何も言わずにそうしていてくれた。
やがて私が落ち着いて自分から体を離すと、母はリビングに私をいざないソファに座らせると、優しく言った。
「亜来ちゃん、何があったのか知らないけど、芝川さんとの結婚はやめなさい。結婚準備をするだけでこんなに泣かされるなんて、芝川さんっていったいどういう人なの。乱暴されたんじゃないでしょうね。これでは心配で嫁に出せやしない」
「違う、彼を悪く言わないで。彼……昨夜、事故で入院しちゃったの」
「えっ、芝川さんが怪我をなさったの?」
母は、怪我の程度などをあれこれ尋ねるが私は見た通りにしか答えられなかった。
「何日ぐらい入院するかもわからないの?」
「とてもじゃないけど、あれこれ聞けるような状況じゃなかった」
「事故車の運転手はご本人? まさか、人をはねたんじゃないでしょうねえ。同乗していた人を死なせてしまったとか」
母の言葉に震え上がる。全力で否定した。
「そ、それは絶対にないよ。ご家族の話から推測すると単独事故で自損っぽかった。人をはねたんならネットニュースに出てると思うし」
「そう……誰かを負傷させたのではないなら不幸中の幸いかもしれないけれど、意識不明の重体ってことだね?」
私は首を縦に振った。彼の顔のむくみ具合からして軽傷には見えず、意識が回復しても二、三日で元気になれるレベルではなさそうだった。
「病室はナースステーション近くの個室だったの。そこって危ない患者さん用の部屋だよね」
母はしばらく考えていた。
「個室は症状が重い患者さんが多いかもしれないけどねえ……そういう人だけの専用部屋とは限らないよ。緊急入院の場合は、たまたま部屋が空いていなくて個室に入れられる場合もあるし、弟さんとお父さんが市民フェスティバルの方に来ていたんなら、今すぐどうこうなるってことはないと想像はできるけどねえ」
少しだけ気持ちが楽になった。彼のあの姿に大きなショックを受けたけれど、落ち着いて考えたら希望が全くないわけではないのだ。純也の命の灯が消えかかっているのならば、その家族が着ぐるみ劇なんかを優先させるわけがない。
「いやなことを言って悪いけど、芝川さんには障がいが残りそう?」
恐れていることを母はずけずけ言う。
「……全然わからない」
自分の声がなさけなくほどか細いと思った。
母は私を落ち着かせようと、熱い紅茶を淹れてくれた。
「飲みなさい」
目の前に出された湯気が立ち上る紅茶。いつもより多くミルクと砂糖を入れた。熱さをこらえゆっくり飲む。甘い液体が喉を下る。
「この前言っていた、ご両親との顔合わせの話は中止だね。後日、芝川さんのご家族からここへ電話が入るの?」
「それはないと思う。彼のケータイ、事故で壊れちゃったし、ご家族はうちの固定電話の番号も知らないから」
「えっ、容態が急変した時でも連絡はもらえないの?」
「急変なんて縁起でもない」
ケータイだけで連絡をとっていた私たち。お互いの自宅の固定電話へ連絡を入れたこともなかった。
「それならね、亜来ちゃん、面倒かもしれないけど、後でもう一度病院へ行ってうちの電話番号を書いたメモをご家族に渡しておきなさい」
「今からまた病院なんて……私、行くのが怖い」
心の震えはまだ収まっていない。あまりにも悲しい彼の姿。思い出すだけで心臓が握りつぶされるような感覚になる。
「怖くても、このままでは連絡ももらえないんじゃあ、どうしようもないでしょう。病院へ行ったら、番号メモを渡すついでに、芝川さんの怪我の情報をもらってきなさい。治らないなら、冷たいようだけど結婚はあきらめるのよ。生涯動けない人の面倒をみて暮らすための結婚なんて、幸せになれるわけがない」
「酷い! 彼が苦しんでいるのにどうしてそんな無神経なことを言えるのよ。彼は絶対に元通りの元気な体になる」
向きになって言い返した私の顔を、母は何秒もじっと見ていた。私は話を終えようと立ち上がりかけたが、母に腕を引っ張られてソファに強制的に沈められた。
「頭を冷やしなさい。芝川さんが元通りに回復すれば何の問題もないわね。これは、あくまでも芝川さんが働けなくなった場合を想定しての話よ」
「母さんはどうしてそんなに極端に悪い方向ばかり考えるのかな。彼の状態はまだ何もわからないのよ。時間はかかるかもしれないけど、私は、彼は必ず治るって信じる。どうせ今まで八年も付き合ってきたんだし、結婚が少しぐらい先になったってどうってことないから」
「結婚ってものはね、お互いが与え、支え合って、成り立つもの。いくら亜来ちゃんがあの人のことを好きでも、一方的に与えるだけの関係では何年も続かない。そんなに重体なら、芝川さんとの結婚話は元からなかったものと思っておきなさい。同情だけで長い結婚生活は成り立たない。亜来ちゃんを幸せにしてくれる男性は他にもきっといるはず」
「同情……」
母の言葉の剣が刺さる。他の男性なんて……考えたこともなかった。私たちは、お互いに他の異性を知らない。彼はともかく、私は彼のことを最初で最後の相手だと思ってきた。それが特別なことだとは意識していない。
――ただ、離れたくなかったから。
それ以上の理由なんかない。彼の家族はちょっと変わっていて、距離を置きたくなったこともあったのに、彼のあんな姿を見ただけで自分の半身をもがれたようで、苦しくて、悲しくて。怒った彼は怖かった。それでもやっぱり寄り添いたいと思ってしまう。彼の腕も、胸も、声も、すべて、思い出になんかできない。
「私は同情心だけでお付き合いなんかしない!」
それでも母はしつこく食い下がる。
「事故に相手がいなかったとしても、自損事故なら、保険すら出ないかもしれない。車の修理代や怪我の治療費で結婚資金なんか、あっという間になくなるに決まってる。相手が貯金ゼロ状態となると、披露宴も新婚旅行もなしにしても、家を借りたり電化製品を買ったりとか、結婚で初めにかかる大きなお金は、全部亜来が出すことになるのよ。芝川さんのご両親がある程度出してくれたとしても無限に援助がもらえるわけではないし、うちだって限度がある。それでもあの人と結婚したいの?」
聞いているのも嫌になる。どうしてこんなに悲観的な考え方ができるんだろう。話にならない。
「もう黙っていて。想像だけで物を言わないでよ」
「亜来ちゃんのために最悪の事態を想定しているだけ。とにかく、ここで議論していても時間の無駄。もう一度病院へ行って、お医者さんから状態をもっと詳しく聞いてきなさい」
「……わかった。今から市民病院に行ってくる。車借りるね」
胸が痛くなるから病院へは行きたくはない。
それでも私は立ち上がっていつものバッグをつかむと、玄関へ向かった。
「おおまかな退院予定日と、その後の治療期間の情報も――」
母の声が後ろから聞こえた。
車で向かった先は市民病院ではなく、ケータイショップ。彼のためにプリベイト式携帯電話を買った。彼はスマホに乗り換えたがっていたけれど、スマホだと頻繁に充電が必要なので、病院で使うには向いていない。
いったん家に帰って、買ったケータイを充電して初期設定し、私のケータイからのメールを送っておく。
【元気になったら連絡してね。亜来】
設定が完了して袋に入れたケータイを持つと、再び病院へ行った。
静まりかえっている病室に入る勇気はない。この部屋の中にはぐったりとした彼がいるはす。今は静かに休んでもらおう。病室に入っても悲しみが増すだけで、私にできることはなにもない。彼の悲しい姿をまた見てしまったら、きっと私はがまんできない。すがって大泣きしてしまう。
袋に大きく宛名を書き、彼の病室の前にそっと置いて立ち去った。袋に入ったケータイを開けば、意味は分かってくれると思う。プロフィール欄は彼の名前にしてあるし、住所録には私のメルアドだけが入っているから。
――どうか、あのケータイから私のケータイへメール連絡が来ますように。【元気になったよ、会いに来い】って。
私が病院で純也のことを聞いてきたと思い込んでいる母は、夕食時、何も聞かなかった。帰宅していた父も、母から事情を知らされたはずなのに、彼の話題は一切出さない。急に家で夕食をとることになったにもかかわらず、おかずは私の好物ばかりだった。きついことを平気で言う母の無言の愛情が、いくつものお皿に盛られていた。
私はすっかり胸焼けした胃袋をかかえつつ、「おいしい、おいしい」と明るい笑顔を作って必死で食べた。
やっぱり、こんなに私を大切にしてくれている両親を悲しませるような結婚はできそうにない。もしも、メールの返信がいつまでも来なかったら……その時、私は――