葉桜の展望台で



8.

「すみません、兄貴のケータイが事故で壊れちゃって、連絡できませんでした。亜来さんのケータイの番号、兄貴しか知らないし、ゴタゴタしてて、そちらの自宅の電話番号を調べている余裕もなくて」
 ケータイが破損……どうりで返信が来ないはず。だから、彼とお母さんの姿がなかったんだ。
 不吉な予感に胸が重くなる。
「純也は……純也さんは大丈夫なんですか?」
「朝、僕が見たときは、意識はなくて眠っていました。今から市民病院に行ってみてください。手術中で本人には会えないかもしれないけど、向こうには母がいるから」
「手術が必要なほどの怪我ですか?」
 礼也さんは硬い表情で頷いた。体のどの部分を、何時からの手術で何時間かかる予定なのか、とは怖くて聞けなかった。
「僕は、今から、借りた音楽機材を友達の家に運んで、その後、運搬用のレンタカーも返しに行かないといけないから、今すぐには病院へは行けないんです。でも、父ならこれから病院へ行く予定なので、よければ父の車に乗ってください。父はあのテントに」
 礼也さんは指で方向を示してくれた。お父さんが、まだ話をしている姿が見える。
「わ……わかりました。教えてくださりありがとうございました」
 私は急いで礼也さんから離れた。
 まだ話し込んでいるお父さんのところへは行かず、関係者スペースから走り出た。
 状態を詳しく知りたい。彼が今、どんな状態なのか。足がガクガクして転びそうになる。意識がないなんて。
 私は公園内の木陰に入ると、ケータイを取り出し、祈るような気持ちでこの付近の事故のニュースをチェックした。それらしいニュースは見あたらない。だとすると、彼の怪我はたいしたことはないのだろうか。念のため一日だけ検査入院という場合もあると思う。だけど、それはあくまでも想像の範囲で今はまだ何の情報もない。
 礼也さんは『事故を起こした』と言った。彼の自損? 事故に相手はいるの?
 彼は決して乱暴な運転をする人ではなかった。むしろ慎重な方だった。誰かに追突されたのかもしれない。あせってスクロールしても、この辺りの事故のニュースはひとつも出てこない。
 ニュースをチェックすることをあきらめた私は、再び関係者入り口へ戻り、中を覗いた。お父さんはまだ話をしている。待っていられなくなり、小走りで公園から出て駅に向かい、駅前にいたタクシーに飛び乗った。


 市民病院へはタクシーで十五分ほどで到着した。病院受付で病室番号を教えてもらい、急ぎ足で病棟五階へ向かった。
 白い壁の続く長い廊下。漂う消毒液の臭いは、これが現実であることを私に認識させてくれる。冗談ではなく、本当に彼はここに入院しているのだ。
 彼の名札がかかった病室はすぐに見つかった。扉をためらいがちに小さくノックすると、『お母さん』である洋子さんが顔を出した。今更ながら、何の見舞い品も用意しなかったことに気が付いたがもう遅い。
「まあ、亜来さん、よく来てくださったわね。びっくりしたでしょう」
 お母さんは疲れの濃く出た目をしている。昨夜からずっと寝ていないのかもしれない。
「礼也さんから入院のことをうかがって、市民フェスティバルの会場から直接ここへ来ました。あの……純也さんの具合はいかがでしょうか」
 部屋は個室で、他に見舞客はいなかった。お母さんはベッドを半分ほど隠していたカーテンを開けてくれた。
「純也、亜来さんが来てくれたわよ」
「っ!」
 彼の姿を見た私は悲鳴をあげそうになった。
 腹部だけうすい上掛けをかけた彼。眠っている顔は赤黒くむくんで別人のようだった。ベッドに付いているネームプレートがなかったならば、この人が彼だとはわからなかったかもしれない。
 顔には細かい切り傷がたくさんあり、右頬から右目にかけてガーゼに覆われている。下唇はぶつけたのか分厚く腫れていた。頭に巻かれた包帯の端から見える地肌で、頭髪を全部剃ったのだとわかった。首には厚く太い頸椎カラーが巻かれ、右腕は肩から指先まで包帯で覆われている。そして、一番驚いたのが、右足が吊られていることだった。大袋の点滴が絶え間なく落ち、心拍数と血圧を記録する機械は、彼の状態を示し続けていた。彼は管だらけだった。
「……何が……あったんですか」
 そう言うのが精一杯だった。
「昨夜仕事帰りに電柱にぶつかったらしいの」
 お母さんは事故の場所などを説明してくれた。
 彼の車はあまり幅が広くない道路の反対車線の電柱に激突しており、警察の人が言うには、飲酒運転ではなく、ハンドル操作を誤った線が濃いらしい。
「ブレーキ跡はあったらしいから、完全に気を失っていたってわけではないみたい。フロントと運転席側のガラスが割れて飛び散って、切り傷だらけ。怪我はほとんど右半身ばかり。骨折は何カ所も。幸い首の骨は折れていないけど、むち打ち状態ですって」
 嗚咽がこみあげてきた。
 昨夜からこんなことになっていたなんて。私がのんびりと着ぐるみ劇を見ている間も彼は。
 私が泣いちゃいけない。強く唇を噛む。
 ――純也、私、市民フェスティバルの会場へ行ったんだよ。劇を見て、私もナチュラルの活動に加わってもいいって思ったのに。純也の家族になって、私も一緒に。ねえ、今日、お昼ごはんを食べに行って、そのあと結婚式場を見に行こうって約束したじゃない。寝ている場合じゃないよ。
 心で呼びかけても、眠っている彼の目は開かない。私は胸の苦しさを感じ、変わり果てた彼の寝顔から目をそらした。
 その時、扉がノックされ、看護師の女性が入ってきた。女性は点滴の速度を確かめ、彼の状態をカルテに記入していく。
「お変わりないですか? お熱はいかがです?」
 お母さんが体温計を手渡す。
「尿管の具合を見ますね。ちょっと失礼します」
 看護師は彼のベッドの下を覗いてから、彼の腹を覆っていた薄い上掛けをさっとめくり、前合わせになっている浴衣のような衣服をはだけさせた。
 私は見てはならないものを見ている気持ちになり、お母さんに軽く会釈すると逃げるように病室を出た。
 こらえていた涙がボロボロ落ちる。しゃっくりあげながら下りのエレベーターを待っていると、上がってきたエレベーターから彼のお父さんが降りてきた。
「おお、亜来さん」
 私は黙って頭だけ下げ、入れ違いにエレベーターに乗った。
 今は何も話したくない。彼が心配でたまらなくても、痛々しい様子を観察しながら傍に付いているのもいたたまれない。
 お父さんが何か言ったような気がしたが、泣き顔を見られたくなくて、エレベーターの扉を閉めた。



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