10.
彼の病室の前に置いてきたケータイから初めてのメール返信が来たのは、次の日曜日の昼過ぎになってからだった。飛び出しそうな心臓の鼓動をおさえ、恐る恐るメールを開く。
【市民病院へ来ていただけませんか】
用件だけのつれないメール。久しぶりの連絡なのに近況報告すらなく、他人行儀な文面にいろいろな憶測があふれてくる。思い出すのは、頭部に巻かれていた包帯に、剃った頭髪。
――メールを打ったのは本人じゃないっぽい。もしかして、頭を打って記憶喪失?
「そんなはずないじゃない。ばかばかしい。ドラマでもあるまいし」
単純に体力がなくてまだメールを打つこともできないのかも。だけど、最悪の場合、容態が急変してしまったとか――
「いやっ!」
両手で顔を覆う。自分の顔を隠したって不吉な妄想からは逃げられはしないのに。
この一週間、家の電話が鳴るだけでビクビクし、仕事から帰ると無気力にベッドに沈みこんだ。仕事中に何度もケータイを覗いても、あのケータイからのメール着信はなく、何の情報も得られない。それでも病院に行って彼の痛ましすぎる姿を見て、怪我の程度を知り現実に直面することが怖かった。
一週間が経過した現在、私も多少冷静さを取り戻した。どんな状態の彼でも生涯献身的に尽くすことが自分にできるのか、という自信もなくなってきている。もしも、彼が一生治らない、起き上がることはできない、と宣告されてしまったら。
私が、両親と自分の幸せだけを考えるなら、選ぶ道はたぶんひとつしかない。
でも、彼を愛している気持ちは消せない。彼を失いたくない。怖い。彼の様子を知りたくても、やっぱり知りたくない。
いくつもの矛盾した感情が心の中で交錯し、私の気持ちも体力ももう限度だった。すべては憶測から来る苦しみ。病院へ来てほしいと連絡があったのだから、勇気を出して出かけてみよう。少しぐらいはよくなっているに決まっている。現実から逃げてばかりじゃダメ。
ありったけの勇気をかき集めて訪問した病室には、純也はいなかった。お父さんが留守番をしており、純也は今、検査室へ行っているという。彼が死んでしまったのではないとわかり、胸をなでおろした。
お父さんは、窓際の長椅子に腰かけ、私に付添い用の丸椅子を勧めてくれた。私たちは向かい合うように座った。
「携帯電話をお持ちいただき、ありがとうございました。連絡に使わせていただきます。このようなことになってしまい、申し訳ありません。純也と都合を合わせて、今月中に家内と共にそちらへご挨拶に伺うつもりでおりましたのに」
「いえ……」
彼によく似たお父さんの顔を見ていたら、不安が口からこぼれそうになり、奥歯をかみしめてこらえた。
――現実を受け止めるって、決めたじゃない。
私の気持ちを察するように、お父さんは静かに言った。
「ご心配をおかけしましたが、純也は峠を越えました。事故現場の写真を見た限り、車はクシャクシャで、どう見ても死亡事故だと思える状態でしたから、死なずにすみ、あの子は幸運でした」
雲の切れ間から光が差した。
「ああ、よかった!」
つい明るい声を出してしまった。
彼は助かったんだ。ここ何日も体に巻きついていた茨がとれたような気分だ。
充血した目をしょぼつかせていたお父さんは、急に姿勢を正した。
「亜来さんにお願いがございます。純也がある程度回復するまでは、時々ここへ足を運んで励ましてやってくださいませんか」
「お父様……」
どうして急にそんなことを言うのだろう。付き合っているなら、見舞いに来ることなんか当たり前なのに。
私の疑問が顔に出てしまったのか、お父さんは申し訳なさそうに、瞬きした。
「純也は回復したとしても、前と同様に稼げるかどうかはわからず、会社をやめるかもしれません。適齢期の女性に対し、そんな将来のない男のそばにいろとお願いすることは、常識はずれなたわごとだと承知しておりますが、あの子が不憫で。どうか、お願いします」
お父さんは椅子に座ったまま腰を大きく折り曲げ、私に頭を下げた。一段と薄くなった頭が目の前に。呼吸をするのも苦しそうなお父さん。泣きたくてもきっと泣けないのだろう。この前の食事会の時にはなかった目の下の隈。よけいに年齢が増したように見える。純也に障がいが残る、とお父さんは遠まわしに言っているのだろうか。
「純也には今までずっと苦労をさせました。すでに純也から聞いているかもしれませんが」
お父さんは眉を寄せながら、純也の母親と離婚したことを語った。
「純也の実の母親、幸恵は育児ノイローゼでした。私はそれが見抜けず、専業主婦なのに純也の世話をまともにやらない幸恵に離婚届けを突き付けて実家へ帰しました。幸恵の反省を促すつもりでしたので、離婚する、しないは自由だと言ったのですが、離婚届はすぐに提出され、幸恵はその後半月もしないうちに縊れ死んだのです」
「育児ノイローゼで結局首吊りに……」
「そうです。純也はそんな形で実の母親を失いました。それが純也の不幸の始まりでした。私がもっと幸恵を支える努力をしていたら……後悔しても遅かった」
実母はこのお父さんに殺されたようなものだ、と純也は言っていた。そういうことだったのか……私は知らないうちに力が入ってしまっていた肩を弛めた。お父さんは深い苦悩を宿した表情で話を続けた。
「純也には母親が必要だと思い、洋子に求婚しました。洋子は、幸恵が死んだ当時から私と同じ会社で働いていて、離婚した私が純也を保育園へ入れようとした時に、入園準備品を作ってくれた女性で」
洋子さんは当時から社内でも手芸好きで知られていたので、特別に親密な関係というわけではなかったが、体操服の名札付け、園の指定サイズのシューズ袋などを作ることを頼んだのだと言う。
「ですが、洋子は純也の為に私の妻になることを嫌がってなかなか結婚してくれず、数年後、やっと妻に迎えたのに、純也は洋子を母親とは認めてくれなくて、私は頭を抱えました。幸恵の親戚にも苦しめられました。あることないこと、いろいろと私や洋子の悪口を純也に吹きこんでしまい」
私は申し訳ない気分になった。お父さんの再婚の件に関しては、ものすごく失礼な先入観を持っていた。洋子さんは略奪婚ではなかったんだ。
「純也の態度に手を焼いた私は、幸恵の写真などをすべて処分しましたが、それが間違っていたのかもしれません。新しい家族として仲良く暮らしていくためには、そうすることがよかれと思いやったことでしたが、純也にはショックだったようで……」
父親としてどうしていいかわからなかった、とお父さんは眉間に苦悩をにじませながら語った。私は何を言えばいいかわからず、黙ってお父さんの疲れた顔を見つめていた。
「洋子は、礼也が生まれてからは、純也のいい母親を演じることをあきらめてしまいましてね、家庭内はどこかギスギスしており、決して居心地のいい空間ではなかったのです。すべて、私のせいです。家のことは妻にまかせ、男はしっかり稼いでくることだけが甲斐性だと信じて疑いませんでした」
額にうっすらと汗をにじませているお父さん。人にこんな話をすることはつらいに違いない。何年も大変だった家族の様子を想像でき、展望台での純也のさみしそうな顔が思い出された。
「礼也がナチュラルの活動を始め、私はすがる思いで活動を支援することを決めました」
そこからの話は純也から聞いた話とほぼ同じだった。ナチュラルを通して家族が歩み寄ったのだと。純也が入会して家族として再出発できたと。
「付き合っている女性がいると純也が打ち明けてくれたのは、ごく最近のことです。以前は、必要以外は絶対に口を利かず目も合わさなかったあの子が、私にそんな話をするとは」
父子の会話がようやくできた、とお父さんは顔をほころばせた。
「聞けば、亜来さんと八年もお付き合いをしているのに、結婚の話を出したことがないと言うではありませんか。私は、すぐにでも男としてのけじめをつけるように言いました。純也は私の二度の結婚が失敗だったと思っているので、家庭を持つことには逃げ腰になっておりましてね、それも私の責任です。亜来さんにお会いできて、これでようやくあの子も幸せになれると思ったところに今回の事故で」
お父さんはまた眉を寄せて厳しい顔になった。
「残念ながら、純也の体は、完全に元に戻ることは難しいと言われております」
低い声が病室に響いた。私はそうかもしれないとどこかで予想していた。彼の様子があまりにも痛々しかったから。
「純也の治療は何か月にもおよび、費用もかかる。亜来さん、せっかく純也との結婚を考えてくださったのに、申し訳ありません。本来ならば、このまま別れていただくことが筋だと思いますが、今、亜来さんに去られては、あの子は生きる気力すら無くしてしまう」
彼の体は元通りには治らない……はっきり言われてしまうと、やはりショックだった。
どの程度までなら治るんだろう。彼が検査から戻ってきたら、それがわかるのだろうか。
私はへこんでいく気分をこらえ、何の衝撃も受けていないふりをした。
「純也は亜来さんなしでは生きられません」
お父さんは真直ぐに私の様子を見ている。もしかすると、この人は、この前の食事会の後に、私が彼からのメール連絡を故意に絶っていたことを知っているのかもしれない。その時の、ただならぬ彼の様子も全部。
「亜来さんは、結婚に強い不信感を持っていた純也が、初めて結婚したいと思った女性です。今は、どうかそばにいてやってください。せめて、あの子がある程度回復するまで。元気になったら、亜来さん自身の幸せのために、純也から去っていただいて構いません」
お父さんのひとことひとことは、私の心に深く入ってくる。
――私の幸せ……
心配そうな母の顔が浮かんだ。
私は一呼吸置くと、震えそうになる声をしぼりだした。
「……メールの返信はご本人からだったのですか?」
お父さんは口を閉じてしまった。答えたくない、ということなのか。
静かすぎる病室。廊下には誰もいないのか、物音ひとつしない。三十秒ほど置き、お父さんがようやく口を開いた。
「メールの返信をしたのは自分です。純也はまだメールを打てるような状態ではありません。起き上がるどころか、痛み止め薬の副作用でほとんどの時間は眠っており、意識はとぎれとぎれの状態です。あんな体なのに女性をそばに呼び寄せることには抵抗があったのですが、純也はうわごとで何度も亜来さんを呼んでいました。家内と話し合い、悩んだ末、ずうずうしくも回復するまで亜来さんにお付き合いしていただけたらと思い、いただいたケータイから連絡をさしあげた次第です」
――やっぱり、彼が自分で打ったメールではなかったんだ。
それは悲しいけれど、うれしさもある。彼が私の名を。朦朧としていても私のことは忘れていない。そう思うだけで私は救われる。
――大丈夫。絶望するのはまだ早い。痛み止めの薬をやめたら意識がはっきりするかもしれないし。私、まだあきらめない。
顔を上げた。
「私……純也さんと約束しました。結婚して幸せな家庭を作ろうって。その約束が現実になることを信じています。少しでも回復の手助けになるのなら、毎日仕事帰りにここへ寄ります。純也さんなしで生きられないのは私の方で……」
言葉にすると、自分の気持ちもはっきりした。
母はあれこれと不安要素ばかりあげていたけれど、私は決めた。彼が私を必要としてくれる限り、私は会いに来る。結婚についての結論は今は出さずに、彼の回復をのんびり待つ。それではまた母が何か言うかもしれないけど、彼と交わした約束が果たせる日がいつか来ることを今は祈りたい。この場で別れを決めることなんかしない。
私たち、葉桜の展望台で、ずっと一緒に、と誓ったんだから。
何年も付き合ってきた私たちは、いつのまにかお互いにすっかり依存していた。どちらかが距離を置こうとしても、きっとまた近づきたくなってしまう。展望台で話をした時もそうだった。お互いに怒っていたのに、その状態を続けたくなくて。いつも通りの二人に戻りたくて。
――愛してる。
二人でいることがここちよすぎる。私たちはお互いが必要。
「私にできる限りのことをさせてください」
「ありがとうございます、純也もきっと喜ぶでしょう」
お父さんはまた深く頭を下げた。
やがて、廊下の奥からガラガラとワゴンを押す音が聞こえてきて、検査を終えた純也が病室に戻ってきた。ベッドに横たわったままで。
移動用ベッドを押してきた看護師さんたちが手際よく彼をベッドに移す。
看護師さんたちが引き上げると、私はベッドに近寄った。あいかわらずの痛々しい姿。それでも前回よりも顔の腫れが引いたように思う。彼とつながっていた何本もの管は、今は点滴だけになっていた。頬あたりのガーゼも小さく薄くなっている。
「具合はどう?」
声をかけると、点滴の付いている左腕がかすかに動き、まぶたが薄く開いた。
「純也、私がわかる? 聞こえてる?」
「……あ……き……」
ひび割れた口びるから弱々しくかすれた声が。
彼は私を認識してくれている! 意識が戻っているんだ!
「純也……純也っ!」
彼の顔の上に、私の涙が落ちてしまうのを止めることはできなかった。