3.
夕方、亜来が来る時間になるまで、ベッドの中で、亜来のお母さんが言ったことを何度も何度も考えた。
俺はどうすべきか。
亜来のご両親は、娘が専業主婦になることを望んでいるようだけど、亜来自身は、子供ができるまでは今の職場に勤め続ける考えだったはず。寿退職するとは言っていなかったと思う。俺もそのつもりだった。
しかし、状況は前と違う。こんな俺の給料だけで、生活が成り立つだろうか。
じわじわと押し寄せる不安。首筋を走る冷たい汗に寒気を覚える。新しい職場。新人と同じ。仕事が合わなくても辞めるわけにはいかないだろう。
その日も、いつものように亜来が来てくれた。午後六時半を少しまわったところ。
最近彼女は「調子はどう?」とは訊かなくなった。俺の状態は落ち着いているけれど、劇的によくなっているわけではないから。
ベッドにあおむけになったままで、亜来の顔を見上げる。彼女は今日、昼間に自分の両親がここへ来たことはまだ知らないに違いない。
「なあ、亜来、疲れてるよな?」
「そりゃあ、少しはね。今日は余分な電話が多くって昼休憩が少ししか取れなかったの。忙しい日に限って雑用電話ばっかりで」
やっぱり俺のせいで亜来は疲れている。この時間にここへ来るために、長く残業ができず、よけいに忙しい思いをしているのだろう。
よく見れば、亜来の頬は少しふくらみが減った気がする。目の下にも薄い隈が。
これ以上、無理をさせてはいけない。ご両親が心配するのは当たり前。ずっと無理をさせてきた俺は、亜来のことよりも自分のことで頭がいっぱいのクズだった。
彼女を大切に思うなら、疲れさせてはいけない。どうせ、俺は。
ならば、俺が愛する彼女にしてやれることは――
亜来の両親の訪問の時からずっと考えて、それしかないと思った。
「あのさ……」
俺の中で煮詰まってきたことを言葉にする。
「疲れてるって正直に言ってほしい」
「そう? じゃあ言うよ? ああ、疲れたぁー。今日は最悪でね、めちゃくちゃストレスたまった。気が滅入ってるから、なんかおもしろい話をしてよ」
明るい笑顔の亜来。本当に疲れているだろうに。冗談抜きで。
「そんなにくたびれてまで、ここへ通う必要なんてない。これ以上俺にかまうな。明日からここへ来なくていい。どうせ俺は歩けやしない。こんなしみったれた病室に無駄足運ぶより、どこかのいい男を捕まえて幸せになれよな。俺たち、別れよう」
一気にぶちまける。気が高ぶってきつい言い方になってしまった。
もう引き返せない。俺たちは終わる。終わらせなければいけない。
事故はなかったことにはできず、俺の右足は完全には治らない。仕事は今まで通りにはいかない。給料も下がるだろう。亜来のご両親は結婚に遠まわしに反対している。俺のところへ通うために亜来はすっかり疲れている。
今後も付き合っていくのに無理な理由はこんなにたくさんあった。俺は、今まで都合の悪いことすべて、考えないようにしてきたけれど、俺は亜来にふさわしくない。
こんななさけない俺ができる精一杯のことは、俺から決断すること。
突然の別れ言葉に、亜来は驚き、大きな目を何度も瞬きした。
「ちょっと、なんで……急にそんなこと言うのよ」
かわいそうに頬がひきつっている。きっと傷ついたことだろう。だけど、これは亜来のため。
「今日、亜来のご両親、お見舞いに来てくれたんだけどさ……俺では亜来を幸せにはできないって、よくわかったんだ。亜来には本当に感謝している。今までありがとう。もうこれで充分だから二度とここへ来るな。わかったらすぐに帰れ」
「純也……」
「俺、楽しかったよ。亜来と出会えてうれしかった」
「そんな……」
ポロポロと亜来の両目から涙が零れ落ちた。彼女はそのまま一言も発さず、病室を逃げるように出て行った。別れ言葉もなく。
カツカツとせわしげな靴音が遠ざかって行った。
終わった。あっさりと。
八年に及ぶ彼女との日々。たった数分言葉を交わしただけで、こんなに簡単に終わってしまった。
溜息をつくと、こらえていた涙がどっとあふれてきた。
――亜来、さようなら。
もう会えない、なんて思うと心が破れそうになるから、彼女は俺よりも気が合う男が見つかったのだと想像することにする。
そうだ。そう思えば、心の痛みなんかどうってことない。
亜来はこんな走ることもできない男よりも、もっとハンサムで、金持ちで、やさしい男に幸せにしてもらおう。それでいい。彼女が俺のものでなくなったと考えると、息をすることすら苦しいけれど、いつかきっと、俺は悲しみを乗り越えられる。亜来は俺の知らない誰かと家庭を持って笑い合って……
「っ……」
だめだ。がまんしたいのに、涙が止まらない。
「亜来……亜来っ……ごめんな」
――勝手な俺を許してくれ。やっぱり戻ってきて……。
耳をすませても、ここへ向かう足音は聞こえてこない。
彼女が戻るはずないじゃないか。俺はなんて都合のいい馬鹿だろう。今、自分で傷つけたのに。
本当に大好きだった。こんな形で別れの日を迎えるとは想像もできないほど幸せで。事故を起こすまでは。
夜、おやじが仕事帰りにのぞきに来てくれた時、俺は最悪の状態だった。呼吸が不規則で苦しく、涙を止めることができない。
「どうした、先生を呼ぼうか?」
「いや、大丈夫だけど……今日は足が痛くって……」
足よりも心が。
「目が真っ赤じゃないか」
「今日は目がかゆくてさ、涙が出っぱなし。この部屋埃っぽい」
枕元に置かれているタオルが手放せない。
「院内で風邪をもらったんじゃないのか。ん?」
おやじは病室に置かれていた亜来のご両親の見舞い品を見つけた。
「お見舞いに誰か来たのか」
「ああ、亜来のご両親」
「あちらから来てくださったか。本当はこちらが先にご挨拶にうかがうべきだったが、仕方がないな。顔合わせの時に快気祝いを用意して、お礼をきちんと言わなきゃいかん」
「放っておけばいいよ。俺、亜来と別れたから。二度とあの家族にかかわりたくない」
おやじは眉を寄せて俺を覗き込む。
「あちらのご両親に何か言われたか」
「別に」
終わったことだ。おやじに全部話したとしても無意味。
「亜来さんが別れると言ったのか」
いちいち尋問するようなおやじの言い方がむかつく。
「どうでもいいだろ! 別れたんだから誰が言ったとか、関係ない」
「どうでもいいとは何だ。親族顔合わせの話まで出ていた時に」
「俺は誰とも結婚しない」
一生独身でいい。こんな足だし、何よりも、亜来以上に好きになれる誰かなんて、現れるわけがない。
長すぎた春。俺には春はもう来ない。それでもこの選択は間違っていなかった、よかったんだといつかは笑えるようになりたい。新しい部署で仕事に没頭して、嫌なことはすべて忘れよう。
俺は間違っていない。みんながこれでよかったと思うはずだ。今はコントロールしきれない感情が涙をあふれさせても、きっとこれは一過性のもの。
「純也……本当にそれでいいのか」
なんだよ、このおやじは。急にしみったれた顔しやがって。自分だって亜来と別れろって言ったんじゃないか。
物を投げつけたくなる衝動をこらえた。
「これで満足しただろう? おやじの望み通り、亜来と別れたんだからさ。俺から別れるってちゃんと話を出した。その見舞い品、そこにあるだけで不快だから持ち帰ってくれよ。亜来のケータイも返してくれていい」
「本当に亜来さんと別れたのか」
「さっさと帰れ! うっとうしいんだよ」
涙声は隠せなかった。
おやじはそれ以上は聞かず、うなだれて帰って行った。俺が泣いていたことはたぶんばれている。
ちょっと言い過ぎた、とはわかっているけれど、今は……
枕元のタオルを強くつかむ。
ただ、ただ、不安という黒い塊に押しつぶされそうだった。
結婚できたとしても、亜来を幸せにする自身がない。右足のリハビリは思うように進まない。あせれば、あせるほど、暗い心の沼にどんどん沈んでいく。
自分の口から吐き出す溜息。溜息だけですべてがいいことにつながるならば、何度でも繰り返そう。
なにもかも空しい。
消灯し、見慣れた病院の狭い空間が闇色になって眠りを促してくれても、なかなか眠れない。