4.
別れた日の翌朝。
何ごともなかったかのように、普通に朝は来る。
よく眠れていないのだから、当然、体調は悪い。むかつく胃をおさえる手はむくんで、いつもより太くなった指は動かしにくい。朝の点滴と回診が終わると、リハビリ室へ。
そして、だるい正午を回り、ベッドの上で悶々とした時間が無駄に過ぎ、午後六時を回る。
コツコツと廊下に足音が響くたび、耳を澄ませてしまう。家族がここへ洗濯物を取りに来るのは三日に一度。おやじがきのう来たばかりだから、今日は誰も来ない。
ひとりきりの病室。テレビをつけてもおもしろくなく、すぐに消した。
「ははっ」
隣の部屋に聞こえるほどの大声で笑いたくなる。俺は世界一の愚か者。
何を待っているのか。亜来とは別れたのだから来るわけがない。あれは別人の足音だ。亜来の歩く音に似ていても。
ほら、違った。足音はこの部屋の前を素通りだ。
また足音が。あれも亜来の歩き方に似ている。違うと思うけど。
近づく足音。
止まった。
病室の扉が遠慮がちな小さな音でノックされた。会社のやつかもしれない。
返事をすると、静かに扉がスライドされ、見覚えのある顔が覗いた。
「へへっ、今日も覗きに来ちゃった。この部屋涼しいね。外はものすごく暑いのに」
半袖のブラウスに膝たけスカートの女。今日は髪を全部束ねて後ろで丸めている。
会いたくて、だけど、会ってはいけない相手がそこに。
――亜来。
あわてて電動ベッドを操作して上半身を少し起こす。今日はひげも剃っておらず、見苦しさ全開。亜来の訪問を期待しつつも、絶対に会えないと思っていたから、自分をきれいに見せる努力すら怠っていた。
彼女の顔はいつもより青白く、目が腫れているように見える。すっかり腫れている俺の目元と同じように。
明るい口調とは裏腹に、亜来の目元は笑っておらず、少し寄せた眉が無言で苦悩を語る。こんな顔を見るだけでいいようのない感情がこみ上げ、自分の顔がくしゃくしゃになってしまいそうだった。
振ったのは俺の方。だから俺が泣くのはおかしい。
昨日で永遠に会えなくなると思っていたけれど、それが今日に引き延ばされただけだ。また会えて幸せだと思う。
「今日も来てくれたのか。もう会えないかと思った。俺、昨日、酷いこと言ったから」
できるだけ感情を込めずにそう言ってみた。
「母が、ごめんね。純也にいろいろ言ったんでしょ?」
「あやまらないといけないのは俺の方だから。亜来のご両親は間違ったことを言っているわけじゃない」
「本当にうるさい親で、うんざり。こんなところまで来て、入院中の純也にあれこれ言うなんて、信じられない」
亜来は、もう一度「ごめん」と言った。
「あやまらなくてもいいって。仕事復帰のめどは立ったけど、給料は減ってしまうし、内勤ではその先の昇給もしれている。そんな男に大切なひとり娘をやりたくないって思うのは当然だろう? でもそれは自分ではどうにもならないんだよな」
日に日に重さを増す厳しい現実。事故から二カ月が過ぎても体は戻っていない。もう少し時間がほしい。体が回復して、新しい仕事に慣れて、亜来をきちんと養えるだけの自信を持てるようになる時間を。だからと言って、亜来をいつまでも俺の都合のいいように引き留めることもつらすぎる。右足は元通りにならず、待たせておいて、苦労させないとは言い切れない。親たちが言う通りに別れた方がいいと思える。
亜来はさらにベッドに近寄り、置いてあるパイプ椅子に腰かけると、上掛けの上に出ていた俺の右手に触れた。右手の治療は終わり、傷跡はあるが包帯は外れている。
「嫌よ」
「何が?」
「そういう考えが嫌。お金が足りないなら、二人で協力して質素に暮らしていけばいいだけの話でしょ。どうしてみんな、最初から私たちの結婚は無理だって決めつけるのかな」
「苦労はさせたくないんだろ。そんなことぐらい俺だってわかる。だから」
――俺は身を切る思いで別れを切り出したんだよ。誰が別れたいものか。
思いのすべてを吐き出しそうになる。
「ねえ……そんなに私を切り離したいの?」
彼女の言い方はきつくない。切なさがいっぱいで、今にも泣き声になりそうだ。俺は収めていた涙が再び溢れそうになってきた。
きっと亜来は、昨夜はショックで眠れなかったことだろう。それでも亜来のために勇気をふりしぼり、言いたくないことを言い続ける。
「俺では亜来を幸せにできそうにない。普通、ちょっと考えたら、そんなことぐらいわかるじゃないか。この足だぞ。もう治らない。しかも、仕事は営業からはずされて、出世街道から完全に遠のいた」
またしても気が高ぶって批判するような言い方になってしまう。彼女は、唇をゆがませ、ぽろぽろと涙をこぼした。
頼むから泣かないでほしい。俺だってこらえきれない。
ぐっと唇を引き締めた俺の顔を、彼女は涙目みつめてくる。
「なによ、そんなの変。足が片方ぐらい思うように動がなくても、生きていけるじゃない。仕事だってクビになったわけじゃないんだし」
「それでも、俺と結婚となると、皆が祝ってくれるわけではなさそうだ。亜来なら、もっといい人に出会えるだろうさ。なにせ、こんなわがままな俺に八年も付き合うことができたんだからな」
「……っ」
「明日からここへ来るなよ」
「すぐに結婚できないなら別れないといけないの? 私たち、今まで何年も結婚の話なんかせずに付き合ってきたじゃない」
亜来が触れてくれている右手。愛し合う時はいつも指を絡めていた。
彼女の潤んだ瞳から目をそらす。
「俺も来年には三十になるし、亜来だって今度の誕生日が来たら二十七。この先、結婚しないなら、今までのようにだらだら付き合うわけにいかない」
「なに言ってんの」
「現実の話。同情だけでは結婚って無理だろ」
「どこ見てるの? 私の顔を見て話をして」
「泣き顔なんか見たくない」
「こんなこと言われて、泣かない女なんていないよ」
亜来に何を言っても泣くだけだ。とにかく帰らせなければいけない。
「俺、本当に感謝しているから。明日からは来るなよ。さあ、帰れ。遅くなるとお母さんが心配する。俺、今日は体調が悪いから、まともに話せるうちに帰ってくれ」
「純也」
亜来は名を呼ぶと身をかがめた。
彼女のやわらかな唇が頬に触れる。
「私が同情だけでここへ来ていると思ってるの? そんなんじゃない。ここへ来て純也に会うとほっとするからここへ来てるのに、どうしてそれがわかんないのよ」
そんなやさしいことを言ってくれるな。俺の目の中の涙がもう限界。
「亜来を……不幸にしたくない」
涙をこぼさないよう、目に力を入れる。
静かに涙を流していた亜来は、とうとう声を出して泣き始めた。
「不幸ってなにそれ。意味わかんないよ……っ……ひどい、急に別れるなんて」
半泣きの俺は必死で言葉を吐き出す。
「……帰ってくれよ……頼むから」
「帰ったら終わっちゃうよ」
「そうでないと、俺、亜来にずっと甘えてしまいたくなる」
「私は純也の支えになりたい。ずるいけど、事故直後は、母の言う通り、別れないといけないかもしれないって考えたよ。純也が寝たきりになってしまっていたら、それか、記憶がなくなってしまっていたら、正直、結婚は絶対無理だって思った」
そりゃそうだろう。寝たきりの男に一生尽くすような人生、こっちだって送ってほしくない。
「私ね……事故直後は怖かった。純也がどうなっちゃうのか想像しただけで怖すぎて、一週間もここへ寄りつけなくて。その一週間のうちに、私はどうしたらいいのか、ずっとずっと悩んだ。私はひとり娘だから、両親の老後のことも考えないといけないし」
亜来はすすり泣きながら続ける。
「だけど、純也は大丈夫だった。ちゃんと記憶はあるし、片足が動きにくくても介護は必要ないよね? それなら、今までと同じように付き合っていける」
「状況は前と同じではなくて、前とだいぶ違うって言っているじゃないか」
「私にとっては同じなの。ここへ通って、純也が前と同じかどうか、毎日見てきたよ。純也は怪我をしたけど、中身は何も変わらない。私が好きな純也のまま」
泣きながら訴える彼女の言葉ひとつひとつが、やさしい雨のように俺に降りそそぐ。
「亜来……」
「だから、私、これからも純也と付き合っていきたい。二人だけの……楽しい思い出をいっぱい作るの」
肩を震わせて涙をこぼす亜来。手を伸ばしかけて、思いとどまる。
彼女をここで抱きしめてしまったら、俺はきっと彼女を突き放すことなんかできなくなる。
「今の俺は、亜来に何の約束もしてやれないんだよ……喧嘩直後のプロポーズ受けてくれてうれしかったけど」
自分の声が小さくなってしまう。
葉桜の展望台でプロポーズした記憶が苦く蘇った。あの時は、亜来が断わったらそれきりだと思っていた。彼女を失いたくなくて、必死でメールして、彼女を待ち伏せして……。あの時も彼女を泣かせてしまったんだった。ついこの前の出来事だったのに、遠い昔のことのように色あせてしまった。
「だから何よ……っ」
しゃっくりあげながらも亜来はひかない。
「議論してもしょうがない。帰れ。俺のことは忘れていいから。その方が絶対に得だと思う。そうだろう?」
彼女を気持ちよく帰してやりたくて、精一杯の笑顔を作って見せた。唇が引きつった怪しい顔になっていたかもしれない。それでも最後ぐらいは、せめて気持ちよく――
「純也」
亜来は座っていたパイプ椅子から立ち上がって、俺の頭を胸にかき抱いた。
ふんわりと香る彼女の匂い。めまいがするほど、女性的な香りにやわらかな胸。
――亜来。大好きな俺の亜来。
こらえきれない衝動に、ついに、俺の目から涙が洪水のようにあふれ、彼女の胸に顔をうずめ、背に腕を回していた。
「俺たち、なんでこんなことになったんだろう。別れないと誰も幸せになれない」
亜来は俺の頭を抱きながら、首を小刻みに左右に振った。
「そんなことないでしょ。気持ちがあれば、きっとなんとかなる」
「俺と一緒になると、苦労するかもしれない。みんながそれを心配している」
「私は絶対に両親を説得してみせるから。それでも純也との交際に反対するなら、私は家を出てもいいの」
「それは駄目だ」
ご両親が気の毒だ。あんなに亜来のことを思ってくれる人たちは他にいない。
「両親はね、結局、ひとり娘の私しか頼る人はいないの。だから、一時期けんかして断絶したとしても、自分たちの体が弱ってきたころに、許してくれると思う」
「……」
亜来は真剣に将来のことを考えていたのに、うじうじ言っている自分が嫌になる。
――こんな俺で、いいのか? 自分に自信がもてず、女々しく、ちゃんと歩けない男でも。
そんな質問、するまでもなかった。俺も彼女も泣いている。いまさら、彼女の気持ちを試すような言葉など必要なかった。
嗚咽に震えるいとおしいぬくもり。
――離したくない。
俺の心は決まった。
腕を弛め、顔を上げて、涙で汚い無様な面を彼女にさらす。
「……亜来……ごめん、ありがとう……別れるなんて勝手なことはもう言わないから泣くな。俺、亜来と暮らせるように、できる限りのことはやってみるよ……みんなに結婚を反対されてもがんばる」
だから、一生、一緒にいよう。
うん、うん、と彼女はうなづいてくれた。
静かな病室で二人、互いの頭を抱き合ったまま長い時間泣いた。涙まみれの頬を寄せ、体温を感じていると、将来の不安が静かに収まっていく。
病室で交わしたキスは涙の味がした。