葉桜の展望台で

 2.

 退院の見通しが立ったころ、亜来のご両親が見舞いに来てくれた。お二人そろっての見舞い。緊張する。
 お母さんは、亜来を家まで送っていったときに何度か玄関先で会ったことがある。亜来によく似た雰囲気の落ち着いた女性で、ゆるくパーマがかかった短い髪を伸ばせば、もっと亜来と似て見えるだろう。
 はっきりとした二重瞼や背格好も亜来とそっくり。太すぎず、細すぎず、小柄。無地の紺色のひざ下スカートに、七分丈のベージュのジャケットを羽織っている。
 初対面のお父さんは、どこにでもいそうなサラリーマンっぽい。黒縁の眼鏡をかけていて、堅そうなごましおの前髪をきっちりと後ろへなでつけ、きちんとしたワイシャツ姿だった。

 ひととおりの見舞いの挨拶が済むと、お母さんが本題を切り出してきた。
「あの……入院しておられるところ、大変申し上げにくいことですが……今後、お仕事はどうなさるのですか。ひとり娘を嫁にやる母親として、どうしてもそれだけは知っておかなければと思いまして」
 やはり、そういう話が出たか。
 俺は包み隠さず話した。
「今までは外回りの営業をやっていましたが、内勤に変わることになりました。総務課へ転勤です。通う場所は同じですから、通勤時間は今までと変わりません。片足が治らないかもしれなくて、外回りは無理ということで、上司が考えてくれたようです」
「忙しい部署ですか」
「それほどでもないと思います。残業はあるかもしれませんが、今までより仕事は楽になりそうです」
「お給料は下がってしまうのですね?」
「残念ながら営業手当はもらえません。その代わり、残業手当が付くと思います」
「あのう……嫌なことを言うようですが、職場が変わっても亜来を養っていけますか?」
 厳しい質問。いやがらせを言いに来ているわけではないとわかっている。お母さんは真剣だ。本当に亜来のことを愛している。俺は誠意をもって対応しなければならない。
「……精一杯働きます」
 つい、視線が下になってしまった。
 今はそうしか言えない。俺と初対面のお父さんは、俺たちのやり取りに一度も口をはさまない。俺は亜来の婿にふさわしいかどうか、お父さんにしっかりと吟味されているのだ。黙っているだけに何を考えているのかわからず、ただ怖い。
 ――亜来さんをまかせてください。絶対に幸せにしてみせます。
 本来はそう言うべきだろうが、こんな状況でそんな言葉は言えるはずもない。
 くそう。事故さえなければ。
 ここで弱気な俺を見せるわけにはいかない。給料が減ってしまう現実はどうしようもない。それでも真面目に働く。亜来を生涯働かせ続けるような苦労をさせたくない気持ちは俺にだってある。
 亜来のお母さんは容赦ない質問をぶつけてくる。
「事故の保険は出たんですか」
「一応、会社の方で、仕事帰りの事故扱いにしてもらえまして、入院費用は会社の保険でまかなえそうです」
「それはよかったこと」
 会話がとぎれた。
 聞きたいことはこれだけだろうか。しんとして気まずい雰囲気が数秒。
 ここで何か言わなければ。
「ご心配をおかけしてすみませんでした。一日も早く体を治して亜来さんを迎えにいけるよう努力します」
 お母さんは愛想笑いすらせず、じっと俺の全身を見ていた。
 いよいよ緊張し、体がガチガチになってくる。
 冷静に。これは入社試験のようなもの。人生に何度も訪れるであろう運命を決める山場のひとつにすぎない。がまんのしどころだ。
「芝川さん、亜来との結婚は、正式に決まっていません。きちんとした両家の顔合わせもしていないですし」
 さりげなく痛い言葉。確かに結婚のことは正式に決まっていない状態と言える。いかにも結婚が決まったこととして話をしたことがまずかったか。
 お母さんは、なんだかどんどん不機嫌になっていくみたいだ。
 汗をかいた首筋も脇の下も冷たい。ご両親が高い壁に見えてきた。だけど、どうしてもこの壁は越えなければいけない。
 半身をベッドごと少し起こした状態で会話していたが、痛い首を少し下げて俺なりの誠意を示す。
「こんなことになって、顔合わせの予定が流れてしまったことは、本当に申し訳ありませんでした」
「謝ってほしいわけではなくて……事故で仕方がないことですものね。飛び出してきた猫をよけて電柱にぶつかるなんて運が悪かったとしか言いようがないですし、ご家族も大変だったことでしょう。ただ、私たちは亜来のことが心配でたまらないんです。あの子、本当はとても疲れやすい体質なんですよ」
「亜来さんはお疲れのところ、毎日仕事帰りにここへ寄ってくださって、感謝しています」
「えっ、毎日? それは知らなかったわ。仕事で遅くなっているとばかり」
 驚いた顔になったお母さん。お父さんと顔を見合わせている。亜来が毎日ここへ来ていることは事実なのだから、隠しておくことでもない。
「父が亜来さんに勝手に頼んでしまったらしいです。毎日は大変だからやめるように俺は言ったのですが、それでも亜来さんは毎日顔を出してくれて、元気をくれます」
「そうだったの……」
 いちだんと怖い目つきになった亜来のお母さん。
「芝川さん」
「はい」
 叫びたいほど怖い。何の宣告がくるというのか。緊張から全身に震えが来そうだ。言葉まで震えないよう気を付ける。
「娘をひどく疲れされるようなことは絶対にやめてください。あの子、このごろ帰って来てそのまま着替えもせず寝てしまうことがたびたびあるんです。あの子に無理はさせたくない。生涯フルタイムの共働きを期待するなら、亜来のことはあきらめてください。あの子の母として、それだけは申し上げておきます」
 お母さんも、その後ろに影のように寄り添っているお父さんの静かな視線も冷たい。二人ともこれだけは譲れない、という意思がにじみ出ていた。
 ああ。マジで、全力でこの場から逃げたかったって亜来に言ったら、俺は笑われるだろうか。
 亜来がここへ寄ってくれて俺は支えられていることは否定できない。しかし、それは俺が亜来に甘えて疲れさせることに他ならないなんて考えもしなかった。
 口がどんどん渇いていく。落ち着け。
「亜来さんは自分にとっては、失うことができない大切な女性です。一生フルタイムで働かせるつもりはありません。家事も仕事も押し付けて、疲れさせて不幸にするようなことはいたしません」
 べつに俺は、亜来に一生働き続けてほしい、なんて思っていない。だけど、所得が足らず、仕方なく少しは働いてもらうこともあるかもしれない。
 内勤になって俺の給料だけでやっていけるのかどうか、今は全くわからない。仕事も外回りの営業とずっと事務所にいる内勤とはやることが全然違うわけだし、自分としても不安でいっぱいだ。どうしても内勤の仕事が無理なら転職も考えないといけないかもしれない。それもやってみないとわからないことだ。とにかく、ここにいて寝ているだけでは何の計画もたてられない。
 お父さんが沈黙を破った。
「家内が失礼なことばかり言ってすみませんね。これだからひとり娘は困るとお思いになりませんでしたか? 芝川さんの新しいお仕事がうまくいくよう、お祈りしております。それで亜来を迎えることが無理なようでしたら、結婚のお話はなかったことにいたしましょう。怪我を治しながらよくお考えください」
 お父さんの言い方は、ビジネスマンが得意先に繰り出す話術のようによどみなかった。
 言いたことは結局それかよ。亜来との話をなかったことにだと? 

 二人が帰ると、半身を起こしていた俺は脱力してベッドに横たわった。
 あの人たちも俺と亜来が結婚することを遠回しに反対している。
「なんだよ」
 俺のおやじといい、亜来の両親といい……亜来と別れた方が、あいつの幸せにつながるとでも言いたそうだ。それが一般的な考え?
 結婚ってなんだろう。妻を養えないなら結婚はやめたほうがいいなんて、今時そんな考え普通通用しないだろうが。古すぎる。共働きの夫婦なんてたくさんいるじゃないか。
「金か……」
 天井を見上げる。現実には金が大事だってことぐらい俺にもわかる。俺がうまく稼げなければ、お金の使い方で亜来とけんかになってしまうかもしれない。
 おやじたちみたいにぎくしゃくする夫婦になるなら、結婚なんてしない方がいいじゃないか。
 結婚せず、ちょっと遊ぶだけの関係の方が楽かも――
 おいっ、何考えてるんだ。
 俺はおかしくなっている。亜来とずっと一緒にいたくて、プロポーズしたというのに。
 また気分が悪くなってきた。
 首が痛い。気持ち悪い。




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