葉桜の展望台で



 番外:愛と同情――君を手放したくなくて(純也視点、本篇10話読了後推奨)
※「葉桜の展望台で」本篇10話目と最終話の間の純也視点の話です。一部本篇のネタバレを含み、ちょっとだけ大人っぽい部分もあり、ご注意)

1.

 天井からぶら下がる大きな点滴の袋。その背後にある生成りのカーテン。いつ見ても同じ風景。
 仕事帰り、車を運転中に、突然脇道から猫が飛び出してきた。とっさにブレーキを踏み、猫をひかないようハンドルを切った。電柱にぶつかった……と思う。

 入院してちょうど一週間。
 今日はレントゲン検査のため病室を出た。
 ゴロゴロと動く寝台で運ばれていく。病室から出るだけでも俺は人の手を借りないとなにもできない。 亜来が置いて行ってくれたケータイに触れることすらかなわない。
 検査を終え、再び個室へ。殺風景な廊下を機械的に運ばれていく。自分で歩いているわけでもないのに、たったこれだけのことでめちゃくちゃ疲れた。どうしてこんなに体力が無くなってしまったのか。目も開けていられないほどくたびれた俺は、人形のようにベッドに移された。

 俺を運んできた看護師さんたちが部屋を出て行くと。
「具合はどう?」
 すぐ近くでなつかしい声。
「純也、私がわかる? 聞こえてる?」
 亜来だ。亜来がやっと俺のところに。
 重いまぶたを必死で開く。
 すぐそこに俺の顔を上から覗き込んでいる女。長いまつげのぱっちりとした目。卵形の顔。セミロングの髪は今日は後ろで束ねられていた。
「……あ……き……」
 なさけない自分の声。かすれているじゃないか。もっとしっかりしないと亜来が心配する。よく来てくれたね。会いたかったんだ。
「純也……純也っ!」
 ぽつり、ぽつり、と俺の顔の上に、亜来の涙が落ちて来る。
 がっかりしただろう? こんなになさけないから。
 抱きしめたいのに俺は動けない。
「生きてる……よかった。ごめんね。本当に泣きたいのは純也の方なのに……私、死にそうな純也を見たら、たまらなくて」
 亜来はハンカチを取り出して自分の涙をぬぐうと、俺の顔に落ちた涙もそっとふいてくれた。
「本当に私のこと、わかるよね? 忘れてないよね?」
「亜来、ごめん」
 はからずしも約束をすっぽかしてしまったことをわびた。事故の翌日、二人で結婚のことをいろいろ決める予定だったのだから。式場も指輪もその日に。
「記憶は全部あるよね?」
 亜来は確かめるように俺を凝視している。
「大事な亜来のこと……忘れるわけないだろ」
 ああ、本当に残念な俺の声。空気交じりでカスカス。もっとしっかりした発音ができないだろうかと自分でも思う。だけど、あちこちが痛すぎて力が入らない。
「何日もここへ近づかなくてごめんね。きっと大丈夫だと信じていたけど、確かめることが怖かったの。今、お父様から怪我の具合について聞いて安心したよ、峠は越えたって言ってもらえて」
 彼女はそう言いながら、新たな涙をぬぐう。後ろにいたおやじが黙って部屋を出て行った。亜来はそれすら気が付かないようで、すすり泣いている。
「私、しばらくの間は仕事帰りにここへ寄るから。だから――」
 だから?
 言葉の続きを聞こうと思ったら、ふわりと亜来の香り。彼女の唇が俺の頬に触れた。唇はすぐに離れ、亜来は涙が渇ききらないままの目でにっこりと笑ってくれた。
「元気になろうね」
「もちろん。ずっとこのままなんてごめんだ」
「顔、だいぶましになったね。市民フェスティバルの帰りにここへ寄った時に見たらね、すっごく腫れてて、誰かわかんなくて、しかも今よりもいっぱいガーゼが顔に付いていてびっくりした」
「顔はガラスの破片が飛んだだけだから軽傷だよ」
「ほんとに……純也が死んじゃうかと思ったもん」
「死んでたまるか。約束しただろ?」
 俺たちの将来のこと。
「うん……」
 たったこれだけのやりとりでも、俺の心は満たされていく。早く退院して迎えに行ってやりたい。もう絶対に離さないと俺は決めたんだ。亜来と連絡がとれずあせりまくった日々のことは、今も頭に焼き付いている。当たり前のように傍にいてくれた存在を失ってしまうかもしれないと思うことがあれほど恐ろしいことだったとは。

 昨夜、亜来のことでおやじと喧嘩になった。

『純也、亜来さんが買ってくれたケータイはこのままお返しする。彼女との結婚はあきらめろ。彼女はいい子だが、別れた方がいい』
 何を言われたのか、理解するのに数秒かかった。
 どうして? みんな、亜来のこと、あんなに気に入ってくれたじゃないか。俺にはもったいないようないい子を連れてきたって、ほめてくれたくせに。
『亜来さんのことが好きなら、彼女の幸せを一番に考えてやるのが男ってもんだろう』
 おやじは言いにくそうに口をモゴモゴさせている。
『たぶん、おまえ――』
『右足だろ? 先生から聞いたよ』
 それは昨日、担当医から告げられていた。治療は難しく、普通に歩くどころか、車の運転も難しいかもしれないと。
 ショックだったけど、先生は、精一杯の治療をしてみるから一緒にがんばろうと言ってくれた。リハビリをどんなにやっても、右足は完全に元通りにすることは不可能かもしれない。だけど、左足は大丈夫だ。腕も治るはずだから、車のハンドル操作はOKだし、左足だけでアクセルとブレーキを使う車にすればいい。
 事故前のように自分の足で速く走れなくても、片足で立つことならできるだろうし、男としての機能は問題ないと太鼓判をおされている。
 おやじは何を心配しているんだろう。
『亜来さんとは別れた方がいい。苦労をさせることがわかっていて婚約するのもどうかと思うぞ。おまえの足が悪いから、かわいそうだから付き合ってやるなんて思われたらつまらない』
『かわいそう……俺が?』
 心臓がひくつく。
『亜来はそんな考え方はしない!』
 そんなことは絶対にない。おやじは亜来のこと、何もわかってない。
 ついこの前、俺の家での食事会後、別れかけた俺たち。
 あの時、亜来は、だらだら続いてきた俺との関係を見直そうとしていた。亜来にも迷いがあったと思う。俺とのメールを切ろうとした亜来。俺の方が浅はかだった。いつまでも学生の延長のような付き合い方で、将来の約束も何もしてやらず、気ままに彼女を振り回して思いやりが足らなかったところがあった。あの葉桜の展望台で別れを告げられたとしても、俺は何の文句も言えなかっただろう。
 それでも亜来は俺を捨てなかった。彼女は、別れの衝撃を味わって涙するよりも、歩み寄って共に生きる道を選んでくれた。
 葉桜の展望台でお互いの気持ちを確かめ合って将来を決めた俺たち。ちょっと怪我をしたぐらいで別れるなんて軽々しく言わないでほしい。
『亜来のケータイを貸して』
 おやじは動こうとせず、あわれむような目つきで俺を見おろしていた。
 なんていじわるな面だ。俺と同じようながっしりした体つきで、太い眉の顔。広すぎる光るおでこ。俺の将来はこんな顔になるだろう。和解したけど、自分勝手なおやじのことはやっぱり嫌いだ。突き飛ばしてやりたくなる。
 ああ、この身体が自由に動かせたらなら。そこにあるケータイすら自分で取ることができないなんてくやしすぎる。
『なんでいつまでもケータイ取ってくれないんだよ。亜来が俺のために持って来てくれたんだろ?』
 力を振り絞って抗議。
『おまえの気持ちはわかるが、連絡してどうなる。彼女にとって何がベストなのか、よく考えてみろ。まともに動けず彼女を守れないなら、彼女を自由にしてやるべきだろう。しゃべるのも苦しそうなくせに』
 いちいちむかつくことを言う。おやじは昔からそうだ。人の気持ちなんて関係なく自分の主張を通そうとする。
『まともに動けないってなんだよ。杖をつけば歩けるようになるって先生は言っていた。たとえ一生杖を手放せなくても、俺は杖で亜来を守る。俺にとって亜来は――っ』
『純也?』
 苦しい。息が。
 急に顔から血の気が引いたような感じがする。全身に冷たい汗が噴き出した。
『純也、どうした、気分が悪いのか?』
 言葉にならず、唇をパクつかせた。頸椎カラーが巻かれた首がきつい。いや、きつくはないはず。なんだかわからない。息苦しくて吐きそうだ。呼吸が……息を吸っているのに……。
『気持ち……悪……吐きそう』
『ちょっと待て。タオルを』
 おやじは俺の首元にタオルをあてると、枕元にある呼び出しのベルを押した。すぐに看護師の女性が来てくれた。
『いかがなさいましたか』
『吐きそうだと訴えております。少々興奮させてしまいました。将来のことを話していたら、突然具合が悪くなってしまいまして』
 おやじが説明している。ほどなく点滴に何かの薬が入った。猛烈な吐き気と不規則になってしまった呼吸が徐々におさまっていく。
 ――亜来に会いたい。俺はこんな体でも、やっぱり会いたい。別れるなんて嫌だ。
『純也……よけいなことを言って悪かった。またおまえを傷つけてしまった。俺は父親としてはまだまだおまえの気持ちがわかっていないようだ。亜来さんと別れろとは今後は言わないから、おまえの好きにすればいい。できる限りのことはしてやろう。彼女に連絡してやる』
 おやじの小さな声が届いたが、眠りに沈められた。


 今、目の前に亜来が来ている。おやじが連絡してくれたらしい。涙混じりの彼女の笑顔が、あわれみの笑いであるわけがない。
「亜来、今日は来てくれてありがとう。俺、早く退院できるようがんばるから」
 だから、俺に時間を。亜来を迎えにいけるようになるほど体が回復するまでの時間を俺にくれ。たとえ片足が治らなくてもおまえを守りぬいてみせるから。
 ――待っていてくれるよな?
 心の声が届いたかどうかはわからなかったが、亜来の様子はいつもと変わらなかった。
「私、夕方しか来られないけど、絶対に毎日顔を見に来るからね」
「無理するな」
 亜来は俺の気持ちを察するように、点滴がつながる左手の指先を、両手で包み込むように握ってくれた。
「熱があるね。具合が悪そうだから今日はこれで帰る。純也が思ったより回復していて安心した。ちゃんと話せるじゃない」
 まだ帰らないでくれ。もう少しだけ俺と一緒に。
 とは言えなかった。俺は極端に体力が落ちており、とても疲れていた。亜来がいるのに生あくびが出そうになる。
「また明日ね」
 亜来はかわいい笑顔を見せると、帰って行った。
 けだるさと痛みの中で目を閉じる。
 早く動けるようになりたい。
      


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