菜宮雪の空想箱

4.ジーク王子の願い(2)




 エディンは、ひぃ、ひぃ、と泣き声をあげて首を振って拒んだ。
「お許しを。無理です」
 涙目になって、懇願する。肩に乗って、生の首元に歯でカリカリしているのは、黒ネズミのニレナ。
「無理なんです! こんなの自分には……あっ」
 耳たぶにかじりつかれた。飼い主のジーク王子は、全身汗まみれになって耐えているエディンを、心から楽しそうに眺めているのだった。
「ニレナはエディンが気に入っているようだ。よかった。これなら安心して任せられる」
 王子は満足そうに微笑んで、立ち上がると、肩にニレナを乗せているエディンに近づき、ニレナをつかみ取って、その背に愛しげに頬を寄せた。
「ニレナ……しばらく離れるが、寂しくないだろう? 大好きなエディンがお前の世話をしてくれる」
 ようやくネズミから解放され、エディンは滝のように落ちる自分の汗を袖でぬぐった。
「ジーク様……私には荷が重すぎます。こんなネズミの世話など、どうしてもできません」
「なんだと? 今、何と言った」
 笑っていたジーク王子の声が、突然低くなった。
「ですから、こんなネズミの世話はできないと――」
 王子は、むっ、と眉を寄せた。
「エディン、今、こんなネズミ、とニレナを侮辱したな。この子は特別な子だ。こんなネズミなどとバカにされるような、野ネズミではないことはわかるだろう」
「すっ、すみません。失礼しました。ニレナ様は、すばらしすぎて、私にはとても、お相手は務まりません」
「なんとかなる」
 王子の顔は真剣だった。空色の瞳は、まっすぐにエディンの目を捕らえている。冗談には見えない。エディンに一時的に預けるだけなのだと思いたい。それでも、嫌なものはイヤだ。絶対に。
「……あの……お返しする日はいつですか」
「未定だ。王女の理解を得たら、すぐに引き取るから、私の代わりに大切にしてくれ。明日の朝、箱に入れて渡すから、仕事をあがる前に取りに来い」
「それなら、ニレナ王女様がお越しになられた日に、直接見せて相談なさればいかがでしょうか」
 さしでがましい、と思いつつも、そう言ってみた。このままでは、ニレナネズミを引き取らされてしまう。
「ジーク様、こんなにかわいいニレナ様を人に預けることは罪です。ニレナ様だって、おさみしいでしょう。おそれながら、おかわいそうです」

 ――その凶暴ネズミはそんなこと思ってないですけど。
 
 王子は、かすかに眉を寄せたが、すぐに、いつもの笑みに戻った。
「さみしいからかわいそう……か。そのとおりだ。この子を誰にも預けたくはない。でもね、エディン」
 王子は、手に持っているニレナの背をやさしく撫でると、さみしげに目を細めた。
「この子をこのままここ置いておけば、私の体の傷はいつまでも減らない。ニレナ王女が来るまでにあと十日しかないのだ。王女を妻に迎えるのに、こんな噛み傷だらけの体では、いけないだろう。彼女が私のことを理解してくれたら、夫婦でこのニレナを迎えたい。預かってもらうのはそれまでだ。餌代を後で渡す。この子の世話を頼めるね?」
「……」
「頼む」
「私は動物には慣れておりませんので……お世話をするにはもっとふさわしい人もいると思います」
「そんなことを言わずに、どうか、ニレナを頼む、エディン」
「……」
 下を向いて口を閉じる。しかし、王子はしつこい。
「私の頼みをきいてもらえないのか? こんなにいい子だ」
 王子は、手に持っているニレナを、ほらっ、とエディンの鼻先に押し付けた。ネズミが口を開けて、エディンの鼻を噛もうとする。
「う……いえ……」
 目の前に出された、赤い口と小さな歯に、思わず数歩下がってしまった。
「頼めるのは、エディンかドルフしかいない。私だって、この子を手放すのは辛いのだよ。こんなにもニレナに愛されている君の家なら、きっと大丈夫だと思う。この子の幸せが私の願いだ」
「幸せ……」

 ――ジーク様、僕の幸せはどうでもいいんですかね……僕はこの、かわいいかわいいニレナネズミ様のおかげで、不幸が寄って来るような……

「では、頼んだからな」
「……(イヤです)」
 ……言葉にできなかった。


 翌朝、エディンは、菓子箱を抱えて城を出た。陰鬱な顔のエディンとは対照的に、ドルフの方は、機嫌よさそうににやにやしながら、隣を歩いている。エディンが抱いている箱の中からは、ガサガサと小動物が動く音がする。
「がははは……おまえは押しが弱いな。結局、断わりそびれたか。そんなに嫌なら、ここで箱を開けて、その辺に逃がしちまえ」
「このネズミを捨てたら、ジーク様に殺されますよ。それに、すごく不安なんですけど、もしも、預かっている最中に死んだらどうしたらいいんですかね」
「その心配は確かにあるな。黒ネズミの寿命は、長生きしても二年ぐらいだろう? そいつはそろそろ死ぬぜ」
「死ぬぜって……そんなに軽く言わないでください。やっぱりドルフさんが預かってくださいよ」
「頼まれたのはおまえだ。受けた以上、しっかり面倒をみてやるんだな」
「こんな癖の悪いネズミは大嫌いです。こんなの連れ帰ったら、家族が何と言うか……」
「箱から出さなければいいだろう。痛い思いをしてまで遊んでやる必要なんかない」
「そうですよね……」
「ま、がんばれよ」
「がんばりたくもないです。ずっと箱に閉じ込めておきますよ」

 エディンは暗い顔をしたまま、ドルフと分かれ、自宅の扉を開けた。
「おかえり、エディン、お疲れ様」
 母親のフィーサが迎えてくれたが、すぐにエディンの持っている箱に目を止めた。
「何をいただいてきたの?」
「ジーク様の恋人だよ」
「えっ?」
 エディンは、驚く母親に、口元だけの笑いを返した。
「ジーク様は罪作りなお方なのさ」


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