菜宮雪の空想箱

17.見えない敵


 
 エディンは、声にならない悲鳴をあげて身をかわした。自分のすぐ前で人が動く気配。槍で応戦したかったが、何も見えない状況でむやみに振り回せば、ジーク王子に当たってしまうかもしれない。
 おのれの身を守る為に、槍を正面にかまえたが、それを適当に振り下ろすことはできなかった。
 王子もドルフも息をこらしているらしく、位置がはっきりつかめない。敵の人数すらわからない闇の中で、必死で周囲の気配に神経をとがらせる。
 今度は背後に人が動く気配。はっと息を引き素早く向きを変え、暗闇の中に静かに槍を向ける。
 手ごたえはない。
 王子はたぶん左側にいるはずだが、移動しているかもしれない。恐怖に身を任せて、槍をおもいきり振り回したくなる衝動を抑える。
「ジーク様、ご無事ですか」
 エディンの声に誰も答えない。怪我をした者が出すであろう、痛みをこらえる息遣いがどこかにある。血の臭いがゆるい風に乗って漂う。
「ジーク様?」
 かすかなうめき声が聞こえた辺りに注意を払う。徐々に目が慣れて、そこにドルフと王子らしき人影がしゃがみこんでいるのがわかったが、どちらかが怪我をしているのか、あるいは二人ともやられているのかはわからない。その向こうに複数の黒い影。
 エディンは王子を守る為に、影と王子たちの間に飛び出した。
 それに応じるように、相手が少し下がった気配を感じる。二人? いや、三人いるのか。緊張で槍を持つ左手が汗をかいて震える。ネズミを持つ右手にも、無意識に力が入った。ネズミが苦しがってまた尻尾でパタパタとエディンの袖口を叩いて来る。

 ――こいつっ! 静かにしてくれ。気が散るじゃないか。

 今さらながら、利き手の右にネズミを持ってしまったことがくやまれた。左手だけで持つ槍は心もとない。この状況では持ち変える暇もなさそうだ。
 エディンがネズミを捕まえている手を弛めようとした時、城内の兵が走って来る音が、遠くから近づいてきた。
 明かりで周囲が照らされれば、状況が確認できて戦いやすくなる。

 ――早く。早く来い。ここを照らしてほしい。
 
 祈るような気持ちで、複数の足音が聞こえて来る方にちらりと顔を向けた時。

「うわああっ!」

 正面から右肩に強い衝撃を感じ、エディンは尻もちをついていた。

 ――殺される!

 無意識に槍を前へ突き出したが、槍はあっさりと叩き落とされ、カランと音を立てて石畳みの上に転がった。懐に入れていた剣を抜き放ったが、まだ立ち上がれない。
 相手の足音とかすかな衣擦れ。
 肌で感じる殺気。
 普通に息をすることすら危険を招きかねず、息を止めたまま腰を地面につけたまま、必死でずりずりと後ろへさがる。
 剣が振られる気配に、とっさに、体を回転させて、首のすぐ横に突きたれられた剣をかわした。石畳の隙間に刺さった剣はすぐに引き抜かれ、エディンの上に再び振り下ろされようとしている。
「わぁ! やめてくれ」
 エディンは、大声で叫びとっさに手に持っていたネズミを敵に向かって投げていた。ポンと当たる音。キャッ、と女性が出すような甲高い悲鳴が闇の中を突き抜けた。
 逃げ腰だったエディンは、相手の輪郭を確かめた。はっきりとはわからないが、自分の相手をしている賊は、小柄な体つきをしている気がする。

 ――女? 女なら僕でも倒せる!

 エディンは勢いよく立ち上がろうとしたが、極度の緊張で腰が砕けてしまい、がくがくする足元は危うい。転ばないように、肩幅に足を開く。相手が再び襲ってくる気配。
「エディン、どけ」
 声がして、突然肩を後ろにひっぱられてエディンはよろめいた。カンッ、カンッ、と刃物同士がぶつかり合う音の後、今、自分を殺そうとしていた小柄な賊の影が、膝を折って倒れ伏したことがわかった。
「ドルフさん、すみません、助かりました」
「ドルフではない。ぐずぐずするな、まだ向こうに賊がいる。ドルフを援護しろ」
 エディンはヒッと顔をひきつらせた。それは王子の声だった。王子を守るべき警護兵が王子に助けられてしまった……
 自分の腰ぬけぶりに隠れたくなったが、今度は王子の影を見失わないように、王子の位置を確かめながら賊に向かって走る。先程やられた肩に痛みを感じるが、今はそれどころではない。
「ドルフさんは」
 王子にたずねようと思った時、城内の他の兵たちが到着し、真っ暗だった中庭に燭台の光が入って来た。ようやく付近の様子が鮮明になった。
 王のいる建物の入口を守っていた兵は、みな血だまりをつくって倒れ、エディンたちと一緒にいた小姓もすぐそこで死んだように転がっていた。
 ドルフはいつの間にか王の建物の扉付近に移動したらしく、建物を背に賊に槍を向けて睨みあっている。
「ジーク様、ここは我らにお任せください。賊は一人たりとも逃がしはしません」
 駆けつけた応援の兵が、王子と向かい合っていた賊に横から斬ってかかる。目の部分だけ穴の開いた黒い仮面で顔を隠した賊は、兵の攻撃をかわしながら舌打ちすると大声で号令をかけた。
「引き上げだ」
 賊たちはバラバラと王の建物に沿って裏の方へ逃げ出した。応援の兵達が、待て、逃がすな、と声を上げながら追っていく。
 
 残されたエディンは、王子に駆け寄った。ドルフも注意深く周囲に目を配りながら王子の元へ戻って来た。
「エディン、ああいう時はな、声を出しては負けだ」
「はい……」
「ドルフの言うとおりだ。返事をすれば自分はここにいると相手に教えているのと同じだからね」
 王子の穏やかな口調にエディンはほっとしながら、深く頭を下げた。
「ジーク様、すみませんでした。お怪我はございませんか」
「ああ、たいしたことない」
 王子は血の流れる手の甲を見せた。
「かすり傷だ。それよりも、この賊を先に止血しろ。そう深く刺していないから助かるはずだ。誰のさしがねなのか、問い詰めてはっきりさせなければならない」
 エディンは、置いていかれた賊の横に屈んで、意識のない体をころがして仰向けにした。あっ、と声を上げそうになる。触れた体はやわらかい。肩から胸にかけて傷を負ったらしく、衣服が裂け、血のしみが大きくついている。
 エディンは剣で賊の衣服を切り裂き、血まみれの胸元を開いた。目に入ったふくらんだ胸元。やはり女だった。素肌の胸を見るとつい目を反らしたくなったが、衣服を裂いた布で簡単に止血をした。
 王子は剣を握ったままその様子を黙って見おろしていた。
「この女……城内の者かもしれない。この女が賊を招き入れた可能性がある。エディン、この者の仮面を取れ」
 エディンは言われたとおりに賊のフードを払いのけ、着けていた仮面をゆっくりと外した。目の部分だけ穴のあいた仮面の下にあったのは血の気を失った若い女性の顔。
「ああっ! この方は――」
 エディンは思わず王子の顔を見上げた。仮面を外された女の顔にじっと見入っていたジーク王子は、低くうなるような声を出した。

「なぜ君がここに……」

 王子の手から、血の絡んだドルフの剣が滑り落ちた。女の血で汚れた剣は、乾いた音をたてて石畳みの上で横になった。
「ニレナ王女……」



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