14
次の週末、友香は例のダム湖へ向かって車を走らせていた。
午後八時すぎ、真っ暗な中、弱い雨が降っている。助手席の足元には、水が三分の一ほど入った手付きバケツ。アリマセが中で泳いでいる。
友香は水がこぼれないよう気を付けながらゆっくり走った。
「着いたよ。いい感じに誰もいないから、今のうちに」
「いやあ、車ってすごい振動ですねえ」
アリマセはバケツの淵にはい登り、さしのべられた友香の手のひらの上に乗った。
「あんたさ、ドライブしたいって言ったけど、それじゃあ外が何も見えなくておもしろくなかったでしょうに」
「いえいえ、僕はこんな体験ができただけでありがたいんですよ。人間の車に乗せてもらえるなんて光栄です。友香さんはやさしいなあ。こんなにやさしい人間は友香さんしか知りません」
友香はアリマセを手に乗せて堰堤の上でしゃがみこんだ立った。
「降りて。ここにみんないるはず」
「友香さん」
手の上のアリマセは、ペコリと頭を下げた。
「ありがとうございました」
ケータイストラップのように小さくてかわいいアリマセ。お皿が街灯の光でぴかりと光る。
「こっちこそ、ありがとうね。あんたといろいろしゃべって、あたしもびっくりするような体験ができて楽しかったよ。ここはうちから遠いから、あたしとは会えないと思うけど元気で。みんなによろしく」
別れの挨拶をしても、アリマセは手から降りようとしない。
「どうしたの?」
「あの、友香さん、いつぞやのお話のことですが」
「なんの話だったかな」
「あのですね……僕、指輪を渡したじゃないですか。あの時の返事をですね……ごにょごにょ……」
小さなアリマセは、はにかんだように首をすくめ、上目づかいに友香を見る。
友香は噴出しそうになった。
「『友達からお願いします』って言ったこと? あたし、ちゃんとあんたの友達やってるよ。こんなところまであんたを運んでがんばってるでしょうが」
「友達の次にほしいのは――」
真剣なアリマセの目にドキリとする。小さいけれど眼力はある。
「友香さん、僕」
「あ、あのさ、あの指輪にこだわるならいつか返すよ。今ここにないけど、あれはあたしが持っていちゃいけないと思う。あんたが好きだと思う相手がいるならその子に渡しなよ」
「友香さん、ちゃんと聞いてください。僕はずっと友香さんのことが気になって仕方がなかったんです。こういう気持ちを好きだって表現するんですよね? だから指輪を渡したんです」
「やだ。最後ぐらい嘘はやめてよ」
「これは嘘じゃないです」
「あんたの話のほとんどは嘘ってわかってるから、信用できないよ」
「そんなことおっしゃらずに信じてください。僕は本当に友香さんのことが好きです。雨の日が楽しみでした。このワクワクする気持ち、どう言えばわかってもらえますか。移住先のここに来てしまった以上、なんらかの約束をしておかないと、僕たちは会えなくなってしまいます。友香さん、僕とまた会ってくれませんか?」
「あんたさ……あたしは人間で、あんたは河童ってわかってる? ここまで来るの、大変だってことも理解できるよね」
「わかってますよ。でもここで別れて会えなくなったらさみしいです。僕はまた会いたいんです。何度でも。僕は友香さんに彼女になってほしい」
「それはちょっと……」
「僕には友香さんが必要です」
「……おかしな嘘を言わないでよ」
「嘘ではなくて、僕はもっと友香さんと話したいです」
「あ、あたし……」
「本気で友香さんと二人で――」
「ごめん!」
ボチャンと音と共に、アリマセの体は暗いダム湖の中へ消えた。
友香は走って車に乗り込み、急発進させた。
――ごめん。つい、手が勝手に動いて彼を投げてしまった。あたしはなんてひどい女だろう。話の途中だった彼をダム湖に投げ捨てるなんて。
「あんたの言いたいことわかってる。あたし、無理なんだもん。これ以上深入りするのが怖い」
運転しながら何度も目こすった。
「現実的に考えたら、あたしはどうしても河童の彼女になんてなれない。こんなところへしょっちゅう通うことなんてできないよ。この車はあたしのではないし、電話もメールもできない相手なんて」
涙が次々あふれてきて、視界がぼやける。
「そんなさみしい付き合いなんてあたしはいや。ここへ通ってあんたに会うために自分の車を買うことも無理だし、将来考えるとやっぱりね……。勝手でごめん、ごめんね……」
――でもね、あんたと話すの、楽しかったよ。あたし、あんたに仕事の疲れを癒されていたの。それでも、どこかで線引きしないといけなかった。さようなら、二度と会うことのない河童の王子様。
ラジオから流れる失恋ソングが暗く黒く胸にまとわりつき、後味の悪さに口が渇いていた。
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