菜宮雪の空想箱

12

 季節は進み、春が来て、梅雨に入った。
 湿度が高く蒸し暑い日が続く。アリマセを初めて見つけてからちょうど十か月。
 すっぽかし事件前以来、雨の日の夜に公園池付近を歩いていても、アリマセは現れていない。

 雨天の暗い空を見ると、日が経ったにもかかわらず、どうしてもアリマセを思い出す。未確認生物の死体が池に浮かんだといううわさすらない。河童とは、死んでも死体すら残さない生き物なのだろうか。本当に怪しく、不思議な河童だった。
 いないとほっとする。あの嘘つきに振り回されることはもうないのだ。
 その反面、彼を最初に見た場所あたりを通るときは目が無意識に甲羅を探していた。


 梅雨の弱い雨がしとしと降る夜、通勤帰りの友香は公園横の土手道を歩いているとき、あっ、と足を止めた。いつか、アリマセが倒れていた場所あたりにそれはあった。
 三センチあるかないかの小さな甲羅。
 一瞬、ミドリガメの子かと思った。
 違う。
 甲羅はカメっぽくても、毛の生えた手足に皿の付いた頭がついている。
 友香はその場にしゃがみ込んで声をかけた。
「かわいい河童の赤ちゃん、こんばんは。こんなところにいたら自転車にひかれるよ。危ないから池へ戻って」
 ざっと周囲を見たところ、親河童は見当たらない。子河童は当然ながら友香の言うことを聞きそうにないので、友香は手のひらに乗せ、池へ運ぼうとした。
 手の上に納まった小さな河童が、じぃっと友香を見つめ、口をパクつかせている。
「あたし、河童語わからない。あんた、アリマセ君って知らない?」
 子河童には人間の言葉はわからないだろうと思いつつ話す。
「あんた、かわいいね。ひょっとすると彼の子かな。彼は冬から行方不明なんだけど……って、こんな赤ちゃんに訊いてもわかるわけないか」
 傘で自分と河童を隠しつつ、土手に付けられた階段を下り、池のほとりへ運ぶ。
「もしも、アリマセ君に会えたら伝えてほしいの。友香がものすごく怒っていたって。頼まれた移住をちゃんとやったのに、頼んだ本人がいなかったから不愉快だったって。急に都合が悪くなって来られなかったのなら、後で理由説明ぐらいちゃんとしてほしかったって」
 小さな河童は、口をパクパクさせながら友香の顔を見つめ、話を聞いている。
「水がほしいんでしょ。ほら、池だよ。これからは絶対に出てきちゃダメ。あんたたちはすぐに水切れしちゃうんだから。陸上にいるのはいい人間ばかりとは限らないんだよ」
 友香は子河童を乗せたままの手を水の中へ入れた。河童の首の部分まで水に入る。ところが、河童は逃げて行かず、いつまでも友香の手の上にいる。
「どうしたの? あんたの家、この底でしょ? 違うのかな。よその池から来たばかりの河童さん?」
 子河童は、カエルのような口をパクパクさせ続ける。
「苦しい? 池に帰りたくないのかな。この池、そんなに水が汚い?」

 パクパク。

 パクパク。

 河童が何か言葉を発した気がした。
「あんた」
 愛らしい目をした小さな河童。手足の長さを入れても八センチ程度だろう。
「今、なんて――」



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