菜宮雪の空想箱
6.
【霜月五日 菊千代が手紙を出してから二日後】
菊千代からの文の受取人、杉屋兵衛が、松川楼のお藤に連れられて菊千代がいる花岡町の寮へやってきたのは、菊千代が文を送ってから二日後の昼九つすぎ(正午)のことだった。お藤は兵衛からたくさんの祝儀をもらったらしく、上機嫌で、始終頬がゆるんでいた。
「兵衛様、菊千代は幸せもんですよ。こんなところまで訪ねてきてもらえて、しかも今日だけでなく、明日の分まで仕舞いをつけてもらえるなんてねえ」
お藤は、兵衛の後ろからついてきた佐之吉にあれこれ言いつけると、目じりを下げたほくほく顔で松川楼へ戻って行った。
小梅に案内され部屋に入った兵衛は、菊千代が横になっている傍へ座り、菊千代の手を握った。
「ぬし様……よう、来てくれやした。このような見苦しいなり、心苦しゅう……」
「具合はどうだ? このところ行っても会えず残念に思っていたのだぞ。文を見たら、いてもたってもいられなくなった。妹さんのことだが」
兵衛は廊下に控えている佐之吉に聞こえないよう、声を潜めた。
「民子さんと連絡が取れた。一緒に浅草の菩提寺に参るという願いは、残念ながら民子さんの都合で叶えられない。彼女の婚家が目と鼻の先だからだ。昼間から嫁が近所をうろうろしているのを見られるわけにもいかんとな。そこで、別の場所で、ということで話が決まった。急な話で悪いが、今から出かけられるか? 外に駕籠(かご)を待たせてある。松川楼の内儀には話を通してあるから安心しろ」
菊千代の顔がパッと輝いた。
「今すぐに? ああ、うれしゅうござんす。わっちを妹の婚家まで連れて行ってくださりんすか?」
「いや、民子さんの家ではない。今の民子さんは饅頭屋の若旦那の女房だ。人通りが多い店先へ押しかけて話をするのも不都合だろうと思ったから、下谷にある俺の別宅で会わせてやることにした。そこには使用人しか住んでおらず、通りからはずれた場所にある静かな家だから、心おきなく話せよう」
「この恩、返すものもありいせんに」
「いいってことよ。それから……もう一つの頼みも承知した」
菊千代は感謝の笑みを浮かべ兵衛の大きな手を握り返した。
菊千代は、小梅の手を借りて大急ぎで島田髪に整え、手早く薄化粧をすると、用意されていた駕籠に乗った。兵衛はひと足先に別宅へ向かっており、駕籠に付き添ってはいない。
小梅は駕籠の横を歩き、その後ろには監視役の佐之吉が従う。駕籠はやがて、土塀に囲まれた大きな屋敷へ到着した。屋敷は大通りからはずれており、周りは雑木林の間に民家がぽつぽつと点在しているのどかな場所で、荷車一台分の幅しかない道に人通りはない。
小梅は、大人の背丈の三倍ほどもある高さの檜の門を見上げた。材木問屋をやっている兵衛の別宅にふさわしく、太い木をぜいたくに何本も使った門構えに圧倒される。
駕籠から降りた菊千代も、驚いたように立派すぎる門を見上げている。
と、駕籠の後方からひとりの小柄な男が、門を見上げる小梅たちに向かって勢いよく走ってきた。
「とうとう見つけたぞ。こんなところまで逃げやがって」
菊千代も小梅も息を引く。不審な男は飛びかかるように菊千代の肩に手をかけた。駕籠の運び手たちと佐之吉は、状況がつかめず、とっさに動けなかった。
「来い」
菊千代がすぐに男の手を振り払う。男の姿は薄汚く、紺色の着物のところどころは破れ、汚れて白くなっている。無造作に切ったざんばら髪が風に乱れ、細い目でとがった顎の人相も手伝い、いかにも不潔で物欲しげに見えた。
「病気だっただとぉ? 松川楼の内儀め、やっぱり俺に嘘を言いやがった。元気に歩けるじゃねえか。内儀の後をつけたかいがあったってもんだぜ」
「姐さんに触らないでください。姐さんは本当に具合が悪いんですよ」
間に入った小梅に続き、突然現れた男に驚いていた佐之吉も、二人を引き離しにかかった。
「どなたかと思ったら、三助旦那じゃねえですか。ついこの前、髷を切られたこと、忘れちまったんですか。二度と松川楼とかかわるなとうちの者たちが言ったのに」
「うるせえ、若造はひっこんでろ。俺はこの女に用がある。俺とこの女は深い縁で結ばれているんだぜ。俺はこいつが菊千代なんて名前になる前から知っているんだからな。なあ、おせん? 俺たちはもともと許嫁だろう」
三助は菊千代の昔の名を親しげに呼ぶと、乱暴に佐之吉の肩を突き飛ばし、菊千代の手をひっぱって連れて行こうとする。
「おせんなんて女、どこにもいやあせん。あんたの顔なんか見とうない。さっさと帰りんせ」
「いいや、おめえの名はおせんだ」
三助はそう言うなり、菊千代の腰に手を回し、荷物のように肩に担ぎ上げ、今来た方向へ走り出そうした。
「姐さんをどこへ連れて行くんだ」
佐之吉が後ろから三助の着物の背を掴む。
「このガキめ、離しやがれ」
背中を引っ張られてよろめいた三助は、振り返ると、佐之吉の顔に唾を吐きかけ、彼がひるんだ隙にその股間を思い切りけり上げた。
うめき声をあげて佐之吉がその場に転がる。
「佐之吉さん!」
小梅は悲鳴を上げて佐之吉に駆け寄った。三助はその間に、菊千代を担いだまま、猿のように膝を曲げた走り方で土塀の曲がり角へ走り、あっという間に視界から姿を消してしまった。
「っ……俺のことはいいから……あのやろうを」
小梅は、すぐに二人を追おうと立ち上がったとき――
屋敷の門が内から開き、中から門番と兵衛が出てきた。
「何の騒ぎだ。菊千代はどうした」
兵衛はこの状況を見るなり、険しい顔になった。股間を抑えて呻いている佐之吉、彼にすがり泣きかかっている小梅、そしてどうしていいかわからずにずっと突っ立っている駕籠かき二名。
小梅が泣き声で訴えた。
「菊千代姐さんがさらわれてしまったんです。どうかお助けください」
転がっていた佐之吉は顔をしかめながら起き上がり、元許嫁のことを説明した。
「元許嫁か。そいつがどれほど身の軽いやつでも、動けない女を背負ってそう遠くまで行けるわけがない。まだその辺りにいるはずだ。探せ!」
兵衛の声に、屋敷内から数名の男が走り出てきて、小梅が指差した方向へ駆けていった。
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