5. 
 【霜月三日、菊千代花魁が部屋で死んでいた日より八日前】
 小梅は、菊千代の病気療養のための寮生活に付き添っていた。ここへ療養に来てからもうすぐ三週間。吉原の外、花岡町にある『寮』と呼ばれているそこは、楼主の別宅であり、見た目はごく普通の平屋の民家。さざんかの生け垣が街道からの視線を遮り、中庭に小さな池がある落ち着いたたたずまいは、苦界と呼ばれる吉原の日常生活のことを忘れさせてくれる。
 しかし、監視の男衆は常に建物内におり、付近をひとりで自由に出歩くことは厳しく制限されている状況は吉原の中と変わらない。松川楼からは週替わりで男衆が来て、常に二人の声が聞こえるところにいた。

 小梅は、咳込んでいる菊千代が起き上がるのを手伝い、薬湯が入った茶碗を持たせた。
「ありがとう、この薬湯は喉が楽になりんす。小梅ちゃんの新造出しが近いのにいつまでもこんな状態とは、わっちは姐女郎失格でありんすなあ」
「そんなの気にせず休んでください」
「新造出しの時には絶対に向こうへ……小梅ちゃんの晴れ舞台、姐女郎のこの菊千代がいないなんて滑稽すぎやす」
「新造出しなんて、先延ばしになった方がいい。あたし、やっぱり花魁になんかなりたくないんです」
 薬湯を飲み終わり、再び横になった菊千代は、夜着をひっぱりあげながら、ふっ、と笑った。
「あきらめなんし。吉原へ売られてきた以上、これはさだめ。仕事でありんす」
「でも、嫌なものは嫌。あたし、家に帰りたいです」
「ふふ、小梅ちゃんらしいけれど、いつまでも子どもっぽいこと。そろそろわっちと話すときも廓言葉を使うようにしなんし。松川楼はいろいろな廓から流れてきた人が多いから、複数の廓言葉が混ざっていやすが、使わないよりまし。廓は男に夢を魅させる場所でありいすよ。うっかり故郷のなまりで話しかけて、田舎臭さを出すと男は現実に戻ってしまいんす。男に多くの夢を配れば、馴染みさんがたくさんついて、年季明けも早まりやしょう」
 小梅は弱い笑みを浮かべた。実際には年季明けが早まる花魁はまれだとわかっている。小梅が松川楼へ来てもうすぐ四年。それなりに廓のことを憶えた。必死で毎晩複数の客をとっても、よほどの売れっ子にならない限り、廓への借金はなかなか減らず、菊千代のように途中で病に倒れてしまう者が数多くいる。借金ばかりが増え続け、若死にしてしまう悲しい現実は何度も見てきた。
 病で客を取ることができず稼ぎがなくても、生活にかかる財はすべて遊女の自前。少し出世すれば楽になるかと思いきや、そうではなく、禿(かむろ)などの妹女郎が付き、自分の食いぶちだけでなく、妹女郎の着物代なども姐女郎が持つ。のんびり休んでいれば、それだけどんどん借金が増えていく廓の仕組みを呪いたくなる。ここにいる間の食いぶちも例外ではなく、この姐女郎が懐銭から出しているのだ。
「あたしは姐さんのように売れっ妓になれない。そんな美人じゃないし。それに……あたし、まだ……」
「お客さんの相手をするのが怖い? わっちもそうでありんした。口開けの時は涙を流して耐えたもの。惚れた男とならどんなに極楽だっただろうってね。小梅ちゃんだって、好いた男の一人ぐらいはいやしょう? 同衾(どうきん)の男が惚れた相手だと思い込んで辛抱しなんし。わっちは、小梅ちゃんが誰に思いを寄せているか、知っておりいす」
 わずかに頬を染めた小梅を見て、菊千代は微笑を浮かべ、ひそひそ声で言った。
「佐之吉さんでありんしょう? そこにいる」
「あ、あの人とはそんなんじゃないです。よく話をしますけど、お兄さんのような感じで。歳が近い男の人ってあの人しかいないから」
「わっちには隠さなくてもいいの。きっと佐之吉さんの方も小梅ちゃんに気がありいす。いつもさりげなく近くに御在すなあ。佐之吉さんはここ数年で本当に良い男になりんした。誰が見てもほれぼれするようなあの面、惚れちまうのは当たり前」
「違うんですよ、あたしはそんな――」
 小梅の言葉にかまわず、菊千代は話し続ける。
「でも廓内の恋は御法度だからねえ、内儀さんに知られたら、折檻間違いなし。年季が明けるまでは長い月日、辛抱がいりんす。それでも、いつでもあのすがすがしい顔が毎日見られると思えば、この苦界に耐えぬくこともできやしょう?」
「姐さん……」
「小梅ちゃん、わかっていると思うけど、わっちは長くは生きれえせん。いつも世話になってる小梅ちゃんに、何も残してやれえせんから、せめてその思いを叶えてあげやしょうか? でも、実際に叶うかどうかは運しだい」
 菊千代は、手招きし、自分の口元に耳を寄せた小梅に、小声でささやいた。
「姐さんっ、そんなこと……内儀さんに叱られます」
 菊千代は、くくっ、と喉の奥で笑うと、急に真面目な顔になった。
「今の話は、わっちの夢の話。現実になったならいい話でありんしょう? だからね、忘れないよう、その胸にしまっておきなんし。これは、昨夜おかしな夢を見て、急に思いついた話でありんす」
 菊千代は床の中で、けだるそうに息を吐くと、文を書く用意をするよう頼んだ。
 小梅が用意している間も、菊千代は何度も咳き込んだ。咳はなかなか止まらない。顔を真っ赤にして咳き込み続けている。咳止めの薬湯は今飲んだばかり。小梅はどうすることもできず、だまって筆を用意する。
「筆の用意が整いました。代筆しませうか? どちら様宛てですか」
「馴染みの兵衛(ひょうえ)様宛てだけど、自分で書きんす。わっちは……妹にどうしても会いたいと思うて。ほら、いつか兵衛様が言っておられたことがありいしたでしょう。浅草にいるわっちにそっくりな女が、実の妹の民子だったって」
 その話は、常に菊千代のそばに控えていた小梅も聞いていた。
 菊千代の実の妹、民子が浅草に住んでいるという話は、菊千代の馴染み客の一人で、杉屋兵衛という男がもたらしたものだった。兵衛は、偶然見かけた浅草寺近くの饅頭屋の若旦那の嫁が菊千代にそっくりで驚き、声をかけたところ、菊千代の実の妹だとわかったのだという。
 杉屋兵衛は四十前の恰幅のいい丸顔の男で、見た目は油っぽく暑苦しい感じがするものの、菊千代の馴染みとなってからは紋日には必ず登楼し、たくさんの祝儀を落としてくれる金払いのいい粋な男だった。そんな男がもたらした話には真実味があった。
「妹さんのことで、兵衛様に文を送るんですか?」
「あの方に頼むしか……妹に会うのに、他に方法でもありいすか? あの子も十八。嫁に行ってさぞかしきれいに……そんなに近くにいるのなら、あの子と一緒に浅草にある両親の菩提寺へ参りたいと思うて」
 菊千代は、目を閉じて、民子の顔を思い浮かべているようだった。
 小梅が聞いた話によると、菊千代が十六歳で吉原の遊女となったとき、三歳年下の民子は親戚に引き取られ、それ以来、音信不通になっているらしい。
「妹の嫁入り先が浅草とは……神様も仏様もちゃんと御在す。ここから一里もない近くにわっちの唯一の肉親が住んでいたなんてねえ。命あるうちに会いたいと、死にかけの花魁が思うたところで、神様の罰が当たることもないでありんしょう」
 廓へ戻ってしまえば、妹とはもっと会いにくくなると菊千代は言う。
 確かにその通りだった。遊女の面会は基本、年二回の休みにしか認められていない。親兄弟が急に見世に訪ねてきた場合は面会することもあるが、そういう急な再会は遊女のやる気をそぐため、楼主から歓迎されず、罰金を取られることすらある。内緒の面会は、監視が少ないこの寮にいるうちしかない。
「もっと早う思い付けばよかった」
 菊千代はゆっくりと起き上がると、すっかり細くなった手で筆を取り、手紙をしたため始めた。
「ただ、兵衛様がわっちの願いを取り合ってくれるかどうか。あの方には妻子もあるし、このところひと月近く、臥せっていて会っておりいせんから」
「おやさしい兵衛様が姐さんを捨てるわけがないと思います。絶縁状ももらっていませんし」
 それが来ていない以上、兵衛と菊千代は仮初めの夫婦のような間柄としてまだ続いているということになっているが、しょせんは妻子持ちの男。吉原の花魁への熱が急に冷めたとしても不思議ではない。菊千代はそのことを懸念しているようだった。
「兵衛様からの返事がすぐに来なければ、わっちには妹など最初からいなかったことにしておくれな」
 
 菊千代が書いた文を受け取った小梅は、部屋入り口付近で廊下の気配に耳を澄ませた。監視の男衆が聞き耳を立てているはずだ。身内と勝手に連絡を取り、出かけるような今の計画を、お藤に告げ口されたら大変だ。小梅が静かに襖を開けて廊下を覗くと、奥の隅に松川楼の男衆、佐之吉が胡坐をかいてうつむいていた。
 佐之吉はうたたねしていたらしく、襖の音にあわてて首をあげ、小梅と目が合うと、急に背筋を伸ばし、ぎこちない作り笑いをしてごまかした。小梅もつられて挨拶代りの笑いを返す。
 十六歳の佐之吉は松川楼で働く男衆の中で最も若い。目鼻立ちが整ったすっきりした顔立ちは、今は亡き人気花魁に生き写しらしい。廓生まれの彼は、幼いころから下足番、不寝番、妓夫の仕事まで、さまざまな雑用をやらされていた。不寝番をやった翌日は、妓楼内の片隅でうたたねしていることがたびたびあり、彼の居眠りは珍しいことではない。
 佐之吉は、眠気を払うように瞬きすると、小梅に問いかけた。
「姐さんの具合はどうだい?」
「咳がひどくって、なかなか止まらない」
「内儀さんが、そろそろ廓に呼び戻すって言っていたぞ。小梅ちゃんの披露目が近いからって。もうすぐ新造出しだって?」
「うん……でも佐之吉さんには関係ない。あたしはどうせ松川楼で女郎をやっていくしかないんだもの」
「小梅ちゃんならきっと菊千代姐さんを超える花魁になれる。新造出し、きっときれいだろうな」
「そんなことない。あたし……」
 小梅は佐之吉のまっすぐな視線に恥ずかしさを覚え、とりつくろうように菊千代の文を差し出した。
「今、姐さんから文を頼まれたんだけど、文遣いのところへ持って行ってくれない?」
 佐之吉は差し出された文の宛名を見た。
「杉屋兵衛様のところならよく知っているから、俺が直接持って行ってやる」
「あたしたちを監視していなくてもいいの?」
「仕事ができてありがてえ。ここにいると体は楽でも退屈で眠くてたまらねえんだよ。ただし、俺のいない間に勝手にいなくなるなよ。それから、俺はずっとここにいたことにしてくれ。ばれたら内儀さんに大目玉だ」
「うん、絶対に逃げないから、お願いするね。大切な文だから、必ず兵衛様に直接渡してほしい。言っておくけど、中を見ないで」
「俺が菊千代姐さんの恋文をのぞき見するってか? 笑わせるな、そんな趣味ねえからな」
 文を手にした佐之吉が笑いながら廊下から消えると、小梅は染まってしまった頬を隠すように襖を閉めた。


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