菜宮雪の空想箱

44.逃げたい


 エディンは、考えに考えた末、アリシアの部屋へ向かった。夜遅くても、どうしてもすぐに話がしたい。
 廊下を歩いていると、向こうから燭台を片手に歩いて来るドルフと出会った。ドルフはエディンに近づくと、ひそひそとささやいた。
「今から彼女と逃げるのか?」
「いえ、僕にはそんなことできませんから」
「なんだ、逃げないのか。こんな時間にうろついているから、てっきりそうかと思ったぜ」
「ドルフさん、あの……もしも、今から馬車を出してほしいとお願いしたら、やってくださいますか?」
「んん? やっぱり逃げるってことか」
「僕は逃げません。アリシア様だけを連れて行ってほしいのです。連行される前に逃がしたい。まずは、ガルモ家の領地がある南西へ向かい、その後は、どこでもいいので、国外までお願いできませんか」
「……ってことは、俺に女を連れて長旅をしろと?」
「大変な仕事を押し付けようとしていることはわかっていますけど、どうか、お願いします。僕が自分で彼女を連れて行きたいのですが、それはできません。ドルフさんが無理なら、バイロンかレジモントに頼むつもりです。今からアリシア様に話をしてきます」
 エディンはドルフの返事を待たずに、アリシアの部屋へ静かに入った。

 彼女はまだ眠っていなかった。寝室にではなく、窓辺に立って夜空を見上げていた。突然入ってきたエディンに、彼女は振り返り、ほほ笑むこともせず不快感をあらわにした。
「何? まだ話があるの?」
「夜分にすみません。今から私が言うことをよく聞いてください。あなたは今すぐここを出て逃げるのです。馬車を用意しますから準備をしてください。最初の行き先は――」
 アリシアは、エディンの説明途中で、乾いた笑い声をたてた。
「正気?」
「えっ」
「本気で私なんかを逃がすつもりなの? 明日、ジーク様が来たら、私がいないことをどう説明する気?」
「説明なら何とでもなります。近日中に迎えが来ると聞きました。ぐずぐずしている暇はありません」
「これ以上ジーク様を怒らせるようなことをしたら、奥様たちが悲しむわ」
「何も心配はいりませんよ。私はここに残って、すべてをうまく収めるつもりです」
「思いあがらないで。私はエディンにそこまでしてもらおうなんて思っていないわ。夜に女性の寝室を訪ねるなんて、ずいぶん大胆だと思ったけど、こんな話を持ってこないで」
 きつい言い方のアリシアにもエディンは引かなかった。
「すぐに準備をしてください。できるだけ早い方がいい。このままでは罪人収容所送りになってしまいます」
「それがどうしたと言うの? 私は罪人よ。前からそう言っているじゃない」
 アリシアはエディンに背を向けてしまった。エディンはアリシアの後ろから左肩をつかんだ。
「あなたは知らないんだ。そこがどんなところなのか。過酷な強制労働で死んでしまう者もいるような場所です。そんなところにあなたを行かせるわけにはいきません」
 アリシアは、無言でエディンの手を払うと、寝室へ入り、寝台の上に置いてあった紙袋を持ってきた。
「これ、エディンにあげるわ」
 突き付けられた模様なしの白い紙袋。
「別室でジーク様に返してもらったの」
 中を覗くと、ジーク王子が以前、アリシアに見せたいくつかの髪の束と共に、見覚えがある短剣も入っていた。
「これは……この剣は、あなたとキュルプ王家をつなげる唯一のものではないですか。このような大切な品をいただくわけにはいきません。それにこの髪の束も、ご家族のものならば、あなたが持っているべきです」
「いらないわ。罪人収容所までは持っていけないから」
「ですから、そんなところへ行くことは考えずに逃げればいい。私は、今は、一緒に行けませんが、いつか必ず会いに行きます」
「私は逃げない。気持ちはありがたいけど、自分の罪は自分でつぐなう。親切の押しつけはやめて」
「押し付けてはいけませんか? あなたを引き渡したくない。このままではあなたは――」
「エディンにそこまでしてもらう義理はないのよ。出て行って」
 アリシアは、エディンに無理やり袋を持たせると、エディンを押して、部屋から出してしまった。


 紙袋を抱えたエディンが、重い足取りで自室へ向かって歩いていると、薄暗い廊下の途中でドルフが待っていた。
「その顔では説得失敗か」
「はい……馬車の用意はいりません。残念です」
「そうか。まあ、その方が俺は助かるが」
「自分が嫌になってしまいました。大切な女性ひとり説得できないなんて。せめて父のように、なんでも要領よく立ちまわれて、それなりの力があったなら、裏から手を回して、アリシア様を救い出すことだって可能かもしれないのに」

 ドルフはその場でしばらくの間、親身になってエディンの愚痴を聞いてくれた。
 エディンが落ち着いてきたころ。
「権力がほしいなら、手に入るよう考えたらどうだ? 城の中では普通の兵でも、おまえは俺にはないものを生まれながらにして持っている。名の通った家の出身で身分はあるし、幸い、ジーク様の信用も失われていない。その気になれば……たとえば」
 ドルフはそこから声を小さくした。彼の提案に、エディンは思わず一歩下がっていた。
「なっ! 僕に……ジーク様と陛下を暗殺して自分が王になれと言うのですか?」
 燭台の炎が揺らめいた。ドルフは怪しく目を光らせる。
「あくまでも、たとえばの話だ。何もそうしろと言っているわけじゃない。法に口出しする権力がほしいなら、そういう方法もある、という意味だ。ジーク様は明日も少数の守りだけでここへ来る。殺さずともニレナ妃を人質にとって要求を通すもよし」
「とんでもないです! そんなの反逆者じゃないですか。僕はそこまで落ちる気はありません。他の方法を考えます」
 エディンは、ドルフが恐ろしくなり、すぐに会話を打ち切った。
「今夜はありがとうございました。おやすみなさい」
 ドルフと別れ、逃げるように自室へ向かった。アリシアの紙袋を落としそうなぐらい、手が震えていた。
「どこまでもお坊ちゃんだな」
 ドルフが後ろからそう言ったのを、聞こえない振りをした。

 ――ドルフさん! いったいあなたは。

 廊下を急ぎ足で歩いているエディンの中で、そうあってほしくないひとつの考えが浮上してきた。
 骨折している鎖骨あたりを押さえる。この傷は、ドルフにやられたもの。

 ――違う! ドルフさんは悪い人じゃない。だけど。

 否定しても、嫌な考えが離れない。様々な疑惑がにじみ出てくる。
 ドルフは家が近いのに、どうしてここに泊り込んでくれるのか。そして、なぜいつまでも親切に手伝人をやっているのか。ニレナネズミは見つかったのに。
 彼は、エディンに怪我をさせた償いとして、ネズミ探しを手伝うと言ったが、ずっとここで使用人をやるという話ではなかったはず。彼がいいと言ってくれるので、何でも甘えてしまっていたことは認めなければならない。しかし、よく考えてみれば、おかしなことだ。彼にとって、いつまでもエディンを手伝うことに何の意味があるだろう。傷のわびにしては長すぎる奉仕。

 自室に戻ったエディンは、脂汗を浮かべながら、痛み止め薬を口に放り込んだ。とにかく疲れているらしい。眠れば、ドルフを疑うなど、ばかげたことだと思うかもしれない。

 ――ドルフさんは、真剣に僕の気持ちを考えてくれただけだ。アリシア様を助ける方法は必ずある。謀反人になって権力を握らなくても。


 次の日の夜も、ジーク王子は、ニレナ妃をともなってガルモ家へやってきた。連れてきた守りは、御者を含めてもたった六人。なんと用心が悪い事だろうとエディンは思った。王子は心では暗殺を警戒しつつも、ネズミの為ならば、どんな危険をおかしてもかまわないらしい。
 王子はうれしそうにネズミ部屋へ直行。ニレナネズミの檻に駆け寄ると、エディンと妃以外の者に部屋から退室を命じた。
「ニレナ、出ておいで」
 王子は、少年のように目を輝かせてネズミの檻の扉を開いた。公務の時に見せる表情とは全く違い、自然な笑顔。それは、見ている者まで癒されるやさしい顔になっている。

 昨夜のドルフの言葉が頭に染み付いてしまい、緊張ぎみだったエディンは、王子の幸せそうな顔で、肩の力が抜けて楽になった気がした。
 ――僕には、この方を脅したり、殺したりするなんてできない。ネズミ趣味にはついていけないけれど。
 ドルフが言ったことは忘れることに決めた。王子の夜警の仕事はやめるつもりだったが、今、こうして心から笑っている王子を見ていると、辞職を考えることもばかばかしく思える。
 エディンがそんなことを考えていると、ニレナ妃が心配そうな声を出した。
「ニレナちゃん、出て来てくれないわ。私が嫌いなのでしょうか」
「いや、それは違うだろう。どうしたのだ? なぜ出てこない」
 二人の後ろに立っていたエディンは、急いで、王子たちの横にしゃがみ込んだ。
「すみません、怪我をさせてしまったので、おびえているのでございます。あの歌を聴かせれば元気よく出てきてくださいますよ」
「おお、そうか! そういうことならば」 
 王子は歌い始めた。久しぶりに聴いた王子の歌声。
 透き通る声に聴きほれて……という暇もなく、ネズミが檻の扉から飛び出した。ポトンという音をたてて上手に床に着地。そして、首を回して、自分を見おろしている三つの顔をかわるがわる見上げた。
「おいで。やっと遊んでやれる」
 王子が手をさし出す。ネズミは、王子の指先に取りつくと、軽く歯をたてた。
「ああっ、そうだ、この感覚。それでこそ私のニレナだ」
 王子はうっとりとした顔になり、ネズミの背をそっとなでた。ニレナ妃は、そんな王子を見てもそれほど驚いた様子もなく、にこやかに王子に寄り添っている。王子が噛まれていると言うのに、ニレナ妃は心配しているようには見えない。王子のおかしな趣味は、すでに、わかっているのかもしれない。

 エディンは、新婚の二人の世界の邪魔をしないよう、部屋の隅へ移動しようと立ち上がり、二人に背を向け歩き始めたが。
 数歩しか進めなかった。

「ぎゃぁぁ! や、やめてください、ジーク様、いえ、ニレナ様!」

 ニレナ妃が、アリシアにそっくりの美しい微笑を浮かべながら、つかんだネズミをエディンの肩に乗せようとしていた。
「こうすると、ニレナちゃんがとっても喜ぶと殿下からきいていますわ。うふふふ……」
「っ!」

 この時ばかりは、アリシアと逃亡したいと、真剣に思ったエディンだった。



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