菜宮雪の空想箱

27.厨房の女



「私を城の外へ連れて行きなさい。さもないと、この短剣でおまえの首を切り裂く」
 エディンは動けなかった。
 王女は、背後からエディンの首筋に回した剣をさらに近づけた。
「私は本気よ」
 剣の冷たい刃先が皮膚を押す。
「ニ……ニレナ様……」
 力を入れられたら、簡単に命を絶たれてしまうだろう。焦りを隠し、できるだけ穏やかに言葉を出す。
「おやめください。夕べの騒動で、現在、城は封鎖されています。すべての出入りが禁止されていて、ここで働いている私でも、今は自由に城外へ出ることはできません。そろそろ解除される頃だと思いますが、兵たちはピリピリしており、城内で働いている者でも、不審な行動をする者は、片っ端から捕まえられています。こんな血だらけの格好で門を抜けられるわけがありません。この私ですら、不審者扱いされて、先程まで捕まって牢に入れられていたのですから」
「門を通る必要などない。王城ならば、誰にも見られずに外へ出られる抜け道がどこかにあるはず。案内しなさい」
「そんな道など存じません。剣をお納めください。私を脅しても案内はできないのです」
「おまえ、王子の側近でしょ? 秘密の通路を知らないはずはない。言わないと――」
 チクリ、と剣先がエディンの首の皮膚に当たる。汗が滴り落ちる。
「知らないことは言えません。私はただの夜間の見張り兵です。側近といわれるほどジーク様と行動を共にしているわけではありません。今はここにいてください。城外へ出れば、あなた様は確実に殺されます」
 王女の、ふふっ、と笑った息がエディンの首にかかる。
「私が殺されるですって? 誰に? 苦し紛れの冗談はやめなさい」
「冗談など申しておりません」
「使い勝手の悪い兵だこと」
 王女は短剣をおろそうとしない。エディンは破裂しそうな心臓の鼓動を隠し、震えをおさえた声で会話を続けた。
「ジーク様から聞いていらっしゃらないのですか? どうしてジーク様があなた様をここへかくまったのか。気を失っていたあなた様を、あの場で兵に引き渡して牢獄へ放り込むこともできた。それでもジーク様はあなた様を内密にここへ連れてきた。なぜだかおわかりでしょう。大切な婚約者であるあなた様の身をお守りする為じゃないですか」
「あの王子が婚約者として、私の身を守る? それは違うわ。私にこんな酷いことをする人が私の身を案じるなんておかしなこと。彼が今朝、私に何をしたか、教えてあげましょうか。彼は私を――」
 エディンはさえぎった。
「聞きたくありません。とにかく、ジーク様がお戻りになるまではおとなしくしていてください」
「どうしても抜け道を言わないつもり?」
「ですから知らないのです」
 その時、コン、コン、と扉が叩かれ、二人の会話は止まった。

 返事をせずにいると、再び廊下の扉が叩かれた。扉の外は女の声。
「ガルモ様、先程ご一緒した厨房の女、シュリアです。ジーク様のご命令で、パンとスープを持ってきました。内側から鍵がかかっているようなので、開けてください」
「今、開けます。少々お待ちいただけますか」
「運がいい兵だこと。これで命拾いしたと思わないで。食事を受け取ったらすぐに……あっ!」
 エディンはパッと振り返ると、驚いた王女の隙をついて、彼女の手首をひねり、素早く短剣を奪い取った。険しい顔でにらむ王女の、細い腕を引っぱって寝台へ座らせ、急いで寝室の扉を閉めると、大急ぎで移動し、居間にある廊下へ扉を開けた。

 扉の外にいたのは、囚われていたエディンを迎えに来てくれた女性だった。黒っぽい髪を後ろでひとつに束ねた頭を、白い布帽子で覆った料理人の姿。エディンとそう年が違わないように見える若い彼女は、血の付いた服に着替えたエディンを見て、あからさまに眉をひそめた。
「その服……」
「さっき着ていた服は、ジーク様のです。自分の服は、この通り、夕べの騒動で血が付いてしまったから、出歩く為に少しだけお借りしました」
「ふ〜ん」
 女性はエディン品定めするように、茶色い目をくるくると動かし、上から下まで興味深げに観察している。エディンは先程も思ったが、この女性は城で働く者として教育を受けていないらしく、態度や言葉遣いに遠慮がない。
「ねえ、ガルモ様って、あの名門の伯爵家の方でしょ? さっきは急いでいたから、あまり顔をよく見なかったけど、こうやって見ると、若いじゃない。ジーク様が探していた人は、もっと年寄りの兵隊さんかと思った。見たところ……あたしと年は同じぐらい? まだ二十歳前? ここは何年目? もちろん独身だよね?」
 立て続けのぶしつけな質問に、思わずのけぞりそうになる。

 エディンが言葉に詰まっていると、彼女はさらにずけずけとあれこれ言う。
「その兵服、血の臭いがして気持ち悪い。よくもそんな臭い服を着ていられるね。兵舎へ戻ってさっさと着替えればいいのに」
「好みでこんな汚い服を着ているわけじゃない。そんなことはどうでもいいから、食料をもらおう」
 エディンは、彼女が手にしていたパンなどを詰め込んだ紙袋と、スープの入った小鍋に手を伸ばし、受け取った。
「兵服だって洗い替えは支給されているでしょ?」
 相手はずいぶん親しげなので、失礼なやつだと思いながらも、エディンも砕けた話し方で返してやった。
「着替えなら支給されているけど、ここの番人を命じられたから取りに行けない」
 女性は、また「ふ〜ん」と言うと、エディンを舐めまわすように全身を見る。
「いつから城で働いているの? あたしと会ったことはなかったよね?」
「悪いが今は仕事中だ。長く話をしていられない」
「あたしはシュリア。普段は厨房にいる。お腹が空いた時に立ちよってくれるなら、ごちそうできるよ。まだ料理人見習いで下手だけど、作るのは大好き。ガルモ伯爵様はどんなお料理がお好みかな?」
「シュリア、本当にありがとう。話はまた今度」
 扉を閉めようとするが、彼女はしゃべりつづける。
「ねえ、お付き合いしている女性はいる?」
「いないに決まっているだろう」
「じゃあ、好きな人は」
 エディンの頭の中に一瞬浮かんだ王女の裸体。カァッと顔に上る血液。
「そっ、そっ、そんなこと、会ったばかりの君に言うようなことではない。どうして個人的なことをあれこれ聞くんだ。関係ないだろう」
「だってぇ、厨房の人たちに言われた。ガルモ伯爵様なら親しくしておいて損はないって」
「君ね……それは勘違いだ。僕にはなんの権力もない。扉を閉めるぞ。食事を届けてくれてありがとう」
「ねえ、これ、二人分の食事でしょ。誰と一緒に食べるの」
 シュリアが扉の間から部屋の中を覗こうとする。寝室の扉は閉まっているので、王女の姿は見えないはずだ。
「それは……交代の兵の分だ。ジーク様の安全の為に、ここを留守にしないように命じられたから」
「へえー」
「用が済んだなら戻ってくれ。早速食べることにする。お腹がすいているんだ」
 エディンは、まだ話したそうにしているシュリアを制して、無理やり扉を閉めた。受け取った食事を居間の机の上に置き、再び廊下側の扉に内から鍵をかける。

 急に疲れを感じ、居間のソファに、ドスンと腰をおろした。足のガクガクは止まったものの、心の震えはまだ収まらない。これから王女に食事を与えなければならない。王女がいる寝室へ入る扉を見ると、胸が重くなるが、いつまでも座っていられない。
 立ちあがると、王女から取りあげた短剣を棚の上に置き、すぐそこに飾られている王女の肖像に目をやった。
 結い上げた明るい色の髪によく映えるぱっちりとした瞳。二つの紺色が、絵の中からエディンを見つめる。微笑を浮かべている口元は上品だ。触れたくなるような頬。本当にきれいな女性だと思う。絵も、もちろん実物も。
 首の後ろを伝う汗をぬぐおうとしたら、指先に赤い液体が付いた。王女の短剣を奪い取る時に薄く切れてしまったらしい。傷は首の後ろの襟に隠れるぐらいの場所にあり、自分でも気がつかなかった。真新しい傷を、先程来たシュリアに見つからなかっただけでもよかったと思う。
 ――あんなきれいな王女様が、剣で僕を。
 物思いに沈みながら、王女の肖像から目をそらす。目線を変えると、机の隅に置かれている、折りたたまれた小さな紙きれが目に入った。
 すっかり後回しにしてしまったが、ジーク王子がエディン宛てに書いた手紙がここにあった。急いで手に取る。
 開けば手のひらほどの大きさの紙には、エディンへの言伝が細かく書かれていた。


 エディンへ
伝えたいことをここに書いておく。これは必ず守ってほしい。

○彼女が泣いても相手にせず放っておくこと。

○私と医術師ロムゼウ以外は、誰とも接触させないこと。

○用足しを要求されても、すぐには従わず、ぎりぎりまでがまんさせ、その時が来たら、エディンの監視の元、室内にてすみやかに行うこと。

 そこまで読んで、思わず手紙を放り出しそうになった。
「ちょっと待て。用足しって」
 何を使ってどうすればいいか、肝心なことが示されていない。王女の白い尻がまたしても思い出される。

 ――ううう……ジーク様。お願いですから、早くお戻りください。ニレナ様が用を足したくなる前に。

 不安を抑え、手紙の続きを読む。急いでいたと思われ、字には時々乱れがある。王子は、なかなか戻らないエディンにイライラしながらこれをしたためたに違いない。王女の偽名を考えるように、との指示もある。確かにそうだ。恋人役なのに、名前を呼ばないのはおかしい。『ニレナ』ではだめなので、何か別の名前を考える必要がある。

 さらに読み進める。

 ○彼女を常に監視し、やむを得ず目を離す時は、自殺防止の為、必ず手足をしばり、口に布を噛ませておくこと。

「自殺だって!? そんなっ」
 エディンは、飛び付くように寝室への扉を開いた。



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