菜宮雪の空想箱

26.ニレナ王女(1)



「ガルモ伯……」
 ソファに隣り合って座ったロムゼウは、そう言ったきり、なかなか次の言葉を出さない。低く意味不明な音声が彼の喉からもれる。
 老医術師は、鼻を小布で押さえ、何か言いたげに眼球をぐりぐりと動かして、エディンを見てはそらし、またエディンへ戻ることを繰り返している。腹立たしげに膝を揺らし、落ち着きが全くない。
 エディンは沈黙に耐えきれず、とりあえずきちんと服を着ようと、無言で立ちあがった。血で汚れた兵士の服を手にとり、はおったところで、ようやくロムゼウが人間らしい言葉を口にした。
「……そういうことなのですな」
 鼻血が落ち着いてきたロムゼウは、ゴクリと音をたてて空気を飲み込んだ。
「あなた様は服をきちんと着ておられない。寝室内には全裸の恋人。だからそういうことでしょう。恐れ多くも一国の王子の寝室でそのような行為をするとは。なんと大胆な」
「ひぇ、僕は何も――」
 そう言われるだろうとわかっていても、実際に口に出されると飛び上がりたくなるほど恥ずかしい。真っ赤になっているエディンに、ロムゼウは容赦しない。
「彼女は怪我人ですぞ。意識を無くすほど血液を失い弱っている。それをあのように手足を縛って行為に及ぶとは。ガルモ伯爵様は、そういうやり方がお好みなのですか」「行為に及ぶ! い、いいえ、違います、誤解です! これにはいろいろと訳があるんです」
 向きになって反論したが、どういう訳なのかと問われたら、その先が続かなかった。ロムゼウは、意地の悪い視線を投げかけると、ふん、と嘲笑った。
「言い逃れは無駄なこと。殿下に報告しますぞ。御留守の間に、ガルモ伯は寝室で淫らな行為に及んでいたと。それでよろしいですな」

 ――それはちょっと違います……っていうか、王女をあんな姿にしたのはジーク様なんですよ。僕じゃない。僕じゃないんです!

 心の中で反論しながら、口では別のことを言うしかない。
「報告は別にかまいません。ジーク様に言っていただければ、私の疑いも晴れると思います」
 汗を滴らせながら、エディンは頭を下げた。ロムゼウはまだ不快そうにエディンを凝視していたが、鼻血も止まったので、立ちあがった。
「彼女が起きているならすぐに薬を飲んでもらい、包帯を交換しましょう」
 エディンは、反対する理由もなく、ロムゼウが寝室の扉に手をかけたのを呆然と見ていた。

 扉が静かに開かれる。扉の向こうの彼女が、少々向こうへ転がったらしく、先程よりも大きく開いた。人が入る隙間は充分ある。まずロムゼウが体を横にしてすべり込む。続いてエディンも入る。二人の目に、いやでも肌色が目に飛び込む。今度は心構えができているので、二人とも鼻血にならず、落ち着いて対応できた。

 エディンは息を止めながら寝台上の毛布を取り、素早く王女にかぶせた。ロムゼウは、ごほっ、と咳払いをすると、平静を装った口調で、王女に話しかけた。
「ご気分はいかがですかな。医術師のロムゼウです。診察に参りました。傷を診せてください。寝台へお戻りを」
 床に転がったままで、毛布の下から首から上だけが見える状態になった王女は、布を噛まされた口で、う、う、と返事をする。涙を流しながら、懇願するような目がエディンを見上げた。手足を縛られ全裸にされた上、言葉まで封じられるとはあまりにも気の毒で見ていられない。
「はずしましょう」
 エディンは思わずそう言っていた。王女の頭の後ろで結ばれていた布をほどいて、口の戒めを取り除く。手早く毛布の下に手を入れて、手足の紐をほどいた。その間も、ロムゼウの視線をビンビン感じて息苦しい。王女の拘束がほどけると、毛布ごと彼女を抱きあげて、ジーク王子の寝台へそっと下ろした。
 ロムゼウは王女に近づき、エディンが掛けた毛布を胸の下まで下げると、包帯を外し始めた。ほろりとこぼれる王女の胸。彼女は隠しもせず、すすり泣きながらされるがままになっている。
 再びさらされた王女の肌。夜が明け、朝の光が日よけを通して入る込む室内は、夕べよりもはっきりと色や肌の具合がわかる。エディンはこみあげる動悸に歯をくいしばった。
 ――うぁ……ふくらみが丸見え……
 子どもを産んだことがない女性の、形がくずれていない胸。またしても鼻血が出そうだ。じろじろ見てはいけない、失礼だとわかっていても――見たい。見たかった。つばを飲み込み、気持ちをおさえてうつむく。
 ふと、王子の言葉を思い出した。王女を凝視してもいい理由はある!

『この城内には裏切り者がいる。誰も信用できない』

 ――見ていてもいいんだ。見ていなければ、王女はこの医術師の手で殺されてしまうかもしれない。これは仕事。ニレナ王女様をお守りする為の。うん、見よう!

 開き直ると、気が楽になり、顔を上げた。心臓の早打ちは徐々に収まり、今度は自分の顔がにやけないように力がいることになった。
 ロムゼウは手早く包帯を交換すると、白い紙に包まれた粉薬を王女に手渡した。
「痛み止めでございます。すぐにお飲みください」
 王女は半身を起こすと、薬を無言で受け取り、紙包みをほどいた。黄色っぽい粉が入っている。 ロムゼウは「すぐにどうぞ」と言うと、置いてあった水差しから、陶器の水飲みに水を移し替え、王女に突き付けた。
「待ってください。私にも同じ薬と水をください」
 エディンは、王女が今にも飲もうとしていた薬を取りあげた。ロムゼウは目尻と口元にしわを入れてにやりと笑う。
「毒味をなさりたいなら、どうぞお好きなように。この薬は実は猛毒で、この女性だけでなく、今すぐあなた様を殺すこともできるとはお思いにならないですか? まあそんなことは絶対にありませんが」
 エディンは、ロムゼウを無視して、奪い取った痛み止めと水を、一気に口に流し込んだ。

 ……何事も起こらない。

「お気が済んだようなら、私は退室しますぞ。ガルモ伯爵様は変わったご趣味の上、疑い深い御方ですな」
 ――ここはがまんだ……
 言い返せない。
 やがて、治療を終えたロムゼウが出て行くと、エディンは寝室に王女と二人きりになった。王女は薬を飲み終わると毛布にもぐりこんで顔を隠し、ずっとすすり泣いている。
 エディンは少し近づき毛布の上から声をかけた。
「ニレナ様、ジーク様からお話を聞いておられると思いますが、私はエディン・ガルモと申します。あなた様の護衛を命じられました」
 毛布が少し動いたが、返事をしてくれない。エディンは続けた。
「あなた様の治療を内密にするため、私とは恋人同士ということにして、ここ、ジーク様の寝室をお借りしました。先程の医術師にもそう言ってあります。あなた様が中庭で何をなさったかを知っているのは、私ともう一人の夜警、それからジーク様だけですからご安心を」
「……っ」
「そのうちに、厨房から食事が届きます。私がここへお運びします。あなた様はこの寝室から出てはなりません。それはジーク様から聞いていらっしゃいますか?」
 エディンは辛抱強く待ち続けた。しばらく過ぎてから、小さな声が聞こえた。
「ひどい……ひどいです……」
「あの……なんとお慰めしたらいいのか私にはわかりません」
「こんなの、あんまりです」
 エディンはこうなった状況を想像すると、ため息が出そうになったが、夕べのジーク王子の鋭い表情を思い出し、王子を擁護する言葉を探した。
「ジーク様も傷ついておられると思うのです。あの方があんなお顔をなさったのを見たのは、私は初めてでした。少なくとも、ジーク様は、政略結婚でも、決められた相手であるあなた様を愛していくおつもりだった。あの方はどんな相手でも受け入れる覚悟をしておられたのです。あなた様はなぜ、賊になってこの城へいらっしゃったのですか。そこまでしなければならないほど、ジーク様と結婚したくなかったのですか」
 毛布の下のすすり泣きが激しくなる。
「何か私にできることはありますか? 逃がしてさし上げることはできませんが、それ以外のことなら」
「……服を……返してください」
「服はどちらに――」
と言いかかって、寝台の横に投げ散らかされているのが目に入った。
「夕べのままなので、破れていますし、血で汚れていますが、とりあえずこちらに置きます。新しい服を手配してもらえるように、ジーク様に後で伝えておきます」
 王女の毛布の上に服をそっと置くと、かぼそい声が礼を言った。
「ありがとう。服を着る間だけ、こちらを見ないでください」

 エディンは王女から背を向けた。パサリ、と衣擦れの音がして、王女が衣服を身につけている様子が音でわかる。音だけだと妙に想像がくすぐられる。
 ――見たい。ちょっとだけならいいか。ちょっぴりだ。一瞬だけでも。瞬間なら。
 エディンは、振り向きたい衝動をこらえた。衣擦れの音はまだ続いている。
 ――ちょっとだけ見ても……
 ハッと息をひく。
「ニ……ニレナ様!」
 首筋に冷たく硬い感触。
 
「動かないで。大声を出したり、抵抗したら殺すわよ。あなた、エディン、と言ったわね。エディン、私を城外へ逃がしなさい。今すぐに」
 背後から回された手。抜き身の短剣が、エディンの首にあてがわれていた。



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