20.治療
王子とエディンが見ている中、医術師は、血まみれになっている女性の衣服と止血してあった布を切り裂き、傷口をあらわにした。押さえてあった布がどけられ、血が再びしみ出す。むき出しにされた女性の胸は苦しそうに上下し、痛々しい傷がぱっくりと開いて白い胸を赤く染めていた。
ロムゼウ、という名の老医術師は、傷を見ると、顔をしかめた。
「殿下、この女性も賊に襲われたのでございますか。他にも傷を負ったものが何人も出ておりまして、今、裏門付近は大混乱になっております。死体がいくつもころがり、まるで戦場ですぞ」
「ああ、そうらしいね」
王子は会話を続けながら、さりげなく王女の剣を拾い、小物入れの引き出しにしまった。
「私も先程来た報告を聞いて驚いた。賊たちが城内に侵入した仲間を皆殺しにしたと聞いた」
「いくら賊でも、あれは……酷いありさまでした。言葉もございません」
医術師は注意深く傷を縫い合わせると薬を塗り付けた。鎖骨付近から胸元にかけて延びる傷は、浅そうだが手首から先の長さほどある。医術師は、王女の首のネズミの痕跡にも軽く手を触れた。
「これは……引っかき傷ですな」
エディンはネズミを投げてしまったことを思い出して首をすくめてしまったが、王子にしかられることはなかった。しかし。
「それは治療する必要はない」
王子の言い方は捨てるようで、温かみはなかった。
「申し訳ございませんでした。私が至らないばかりで……」
エディンは頭を下げた。
「エディン、もういいと言っただろう。これは仕方がなかったのだ。忘れろ」
王子は王女に近づくと、赤くなっているネズミの命中痕にそっと触れた。感情を押し殺すような王子のため息。身が縮む思いだ。
エディンは王子の表情に、ひっ、と息を引いてしまった。
王子は処置の様子を凝視している。普段はおだやかに微笑む唇は、今はきつく結ばれ、婚約者を鋭い眼で見おろしていた。怒りと悲しみが入り混じったかのような、涙を含んだ目は、視線だけで王女を焼き尽くすほど強い光を宿している。
エディンは、王子の顔を見ていることができず、寝室内に敷き詰められたじゅうたんに目を落とした。
政略結婚とはいえ、数年前から婚約していた女性に襲われた王子の心境は想像するだけでも胸が重くなる。変な王子でも、かわいそうな方なのだとエディンは思った。
医術師は包帯を巻き終わり、患者に毛布をかけた。
「私ができる処置はここまででございます」
「助かるか?」
「命に別状はございません。傷は大きいですが、浅いです。痛みと、急激な出血で一時的に気を失っているだけですので、意識はそのうちに回復するでしょう。傷が完治するまでには、さらなる時間が必要かと思われますが」
王子は、そうか、とエディンの方を振り返った。
「次に彼の傷の手当ても頼む」
「かしこまりました。でもその前に、殿下の御手を診せてください。先程から気になっておりました。布を巻いておいた方がよろしいでしょう」
老医術師は、ジーク王子の手の甲のかすり傷にも包帯を巻き付け終わると、エディンの肩の怪我も診てくれた。
「これは……何かで思いきり殴られましたか。突くような殴り方で、皮膚の表面が破れてしまったのですな。表面の傷は浅いですが、かなりの痛みがおありでしょう。鎖骨が折れておりますぞ。固定しておきますので、しばらくは剣を振るような全身運動はお控えくだされ。肘から先は動きますが、肩は動かしてはなりません。兵なのに思う存分動けぬとは困りましたな」
「エディンは骨折か。それは間違いないのだな?」
「はい、ここがこのように……骨に触れると段差ができております」
「確かに折れているようだ。どれぐらいでエディンは使えるようになるか」
「そうですな、早ければ来月には」
「来月か……」
「お若いので、もう少し早く治るかもしれませんが、殿下のご結婚当日の警護は無理でございましょう」
再び寝台に腰かけた王子は、視線を下げてつぶやいた。
「それは困る。せっかくエディンと打ち合わせたのに……計画が台無しだ」
エディンは口を閉じて心で返事をする。
――計画って……ニレナネズミに会いに行くお話ですよね? ジーク様と私が親しくなったふりをして、私の家に公式訪問……もう無理ですよ、それ。僕にとってはありがたいけど。
エディンは、治療を受けながら、ぼんやりと今後のことを思った。
この機会に仕事をやめる、と言えばドルフに言いくるめられることもなく、すんなりと退職できるかもしれない。それもいいかもしれない。王子の初夜を楽しみにしてこの半年がまんしてきたが、やめたくて仕方がなかったのだから。
――この体では仕事はできません。やめさせていただきたく……
王子から離れてほっとしたい気持ちが、自分の中のどこかに存在している。それに、自分が王子の元から去れば、もしかしたら、王子はニレナネズミのことなど忘れてしまうかもしれないという期待も。ネズミのことで苦しむことはもうないかもしれない。
――だけど。
心のどこかで、やめるな、やめてはならない、と警告が聞こえる。
王子のことはよくわからない。もしも誰かに、ジーク王子は命をかけて守る価値がある御方か、と問われれば、答えられずにうつむいてしまうかもしれない。王子に忠誠が誓えないなら、こんな仕事などやめればいいのだ。
しかし、好奇心もある。結婚式はどうなるのか。ここで眠っているニレナ王女の今後のことも気になる。それに、これからの二つの国の関係も。いろいろ知りたい。ここにいないと入らない情報もあるに違いない。今、退職すれば、ここでの仕事のことは、ネズミに遊ばれた悲しい思い出だけで終わってしまうかもしれない。高収入の夜間兵をやめたことからくる家計の不安もある。やめたいが、退職ではなく、怪我が治るまでは休職した方がいいかもしれない。
「エディン」
妄想にひたっていたエディンは、王子の声で現実に戻った。医術師と王子の会話は、ほとんど耳に入っていなかった。
「ロムゼウの言うとおり、おまえには夜間警護の仕事は当分無理だろうから、日中に私の手伝いをしてもらうことにしよう」
「は、はい! ありがとうございます。なんでもお申し付けください」
エディンは心の中で苦笑した。結局、あれこれ妄想しても、すぐにはやめられない。それでいいと自分で納得する。気のせいか、今の王子の言い方に先程までの暗さは入っておらず、それどころか、かすかな笑いが混じっている感じがしたことが不気味だったが、気にしないことにした。医術師に礼を述べ、脱いでいた上着を手に取った。
治療を終えた医術師は、簡単に薬の説明をすると、もう一度王女の顔をじっと見つめた。
「この女性は、最近この城に入られた方でしょうか。こんなにニレナ様に似ておられる方がいらっしゃるとは存じませんでした。肖像画にそっくりですな」
「ああ、つい先日、侍女として入ったばかりだからね、城内に長くいるロムゼウでも、この女性のことを知らなくて当然だ」
王子は普通に答えたが、老いた医術師の顔に、不審の色が浮かんだ。
「侍女? あの……申し上げにくいですが、侍女がなぜこのような時間に怪我を負ってここにいるのでございますか。殿下は、ご自身は中庭で襲われた、とおっしゃいました。この女性も中庭にいた、ということですか」
「そんなことを知ってどうする。彼女は賊に襲われて怪我をした。それ以上、知る必要などないだろう」
医術師は引き下がらなかった。
「殿下、さしでがましいことと存じておりますが、侍女ならば、特別な事情がない限り、このような時間には自分の部屋から出てはならない決まりがございます。なぜこの侍女は怪我をし、無礼にも殿下の寝室で手当てを受けているのでございますか」
王子は、軽く眉を動かした。
「……何が言いたいのだ。はっきり言え」
「先程から思っていたのですが、もしかして……この女性は賊の一味ではないのですか」
二人の会話を聞いていたエディンは、内心でひきつり声を上げていた。
――ジーク様!
彼女が付けていた仮面や黒いマントは、医術師が来るまでに王子が寝台の下に隠しており、証拠となるものは、目に見える場所にはないが、彼女が身につけていたのは、普通の町娘の服。城内の侍女の服装とは異なっていた。
エディンの心配もどこ吹く風で、王子は顔色ひとつ変えなかった。
「まさか。こんなきれいな賊などどこを探してもいない。それに、私が賊などかくまう理由はない。今夜のこの状況だから、彼女が賊だと思ったのか? では説明する。この女性はね……ねえ、ロムゼウ、おまえだから、秘密を言うが、このことは誰にも言わないでほしいのだ。実は」
もったいぶったジーク王子は、ちょっと甘えた感じの声になった。
「この女性はね、ここにいるエディンの恋人なのだよ。二人は中庭で密会中に、たまたま入って来た賊に襲われてしまった。そのことをどうしても秘密にしたいから、ここへ運んだのだ。この女性は私の紹介でエディンとつき合うようになったのだから」
――ええー!?
片手で上着をはおろうとして苦労していたエディンはせき込み、手から、上着が滑り落ちた。
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