18.賊の女(1)
その場所だけが、まるで時が停止してしまったかのようだった。
さわぎに気がついた城内の兵以外の使用人たちが、医術師を呼ぶ大声や、賊を追いかけて行った兵達の足音が耳に入って来るが、この場に残ったエディン、ジーク王子、ドルフの三人は喧騒とは無関係だった。
王子は食い入るように賊の顔を見つめ続けている。エディンも息を飲んだまま動けない。ドルフが、緊張を吐き出すように、う〜む、と声を出して無言の空気を破った。
「ジーク様、この死にかけの賊が王女様とは、そんなはずはございません。数日後に花嫁になる御方がこんなところにしのびこんでいるわけがない。この賊はニレナ王女様とは別人に決まっています。もっと明るいところで顔をご覧になるとよろしいでしょう」
ドルフは、気を失っている女の顔に、燭台を近づけた。仮面を外された女は、手足を動かすことなく石畳みの上に横たわり、目を閉じたまま浅い呼吸を繰り返している。ドルフは女の肩に手を掛けた。
「おい、起きろ、この賊が。気絶したふりをしても、逃げられないぞ。女、どういうつもりでジーク様に怪我をさせたんだ。おまえがここのやつらを殺したのか。おい、なんとか言え」
ドルフに肩を揺すられ、女が首の下に隠していた明るい色の髪がこぼれた。エディンには、王子が息を引いたのがわかった。王子は、女の近くに落ちていた剣を手にとり、柄の部分に刻まれた紋章に目を細めた。
「ドルフ、やめろ。この女性はニレナ王女に間違いない」
王子は苦しそうに眉をひそめてドルフを制し、自分もドルフの隣にしゃがみ込むと、止血の為に、はだけてあった彼女の胸元を丁寧にかき合わせた。
「げっ、本当に、この女が王女様ですか? そんな……」
ドルフが揺する手を止めると、王子は小さな声で言った。
「この剣の紋章を見ろ」
王子が示した剣には、八角形の枠中に王冠の模様が刻まれていた。エディンも紋章に注目したが、確かに、隣国キュルプの、王家の紋章のように見える。ドルフはそれでも食い下がった。
「しかしながら、ジーク様、キュルプ王家の仕業に見せかける為に、この女はわざわざこんな剣を持参したのでございましょう。きっとこの女は、ご結婚を阻止しようとする組織の一員に違いありません。すぐに犯罪人収容所へ身柄を引き渡し、取り調べる必要があります」
王子は、王家の紋章の入った剣を持ったまま、それはそうだが、と吐き出した。
「ドルフの言うことはもっともだ。しかし、この賊の顔は王女にあまりにも似ている。これはどう説明すればいいのだ。王女には双子の姉妹などいないはずだが」
ドルフは言い返せず、エディンと顔を見合わせた。
「この賊はキュルプのニレナ王女。一応、私の婚約者だ。何年も前から将来の伴侶として定められた相手を、犯罪人収容所へなど送りたくはない」
王子はさらに声を小さくした。
「ドルフ、エディン、いいか。賊の中に私の花嫁が混じっていたことを知っているのはおまえたちだけだ。他の誰にも言うな。もちろん、父上にも黙っていてくれ。父上の見舞いは後にして、今すぐに王女を私の部屋へ運んで怪我の手当てをする。事情は王女の口から私が聞き、父上に直接報告する。他の兵が戻って来る前に部屋に連れて行きたい。彼女を運べ」
エディンが上半身を抱き、ドルフが足首を持った。エディンは、王女の傷に触らないように気を付けながら、しゃがみ込んだ膝の上に王女の上半身を乗せたが、立ち上がることがどうしても出来ない。早く、と王子にせかされ、よけいにあせる。気を失っている人間の体は思ったよりも重くて持ちにくい。力を入れれば入れるほど、うまく抱きあげられない。
「おい、エディン」
足を持っていたドルフはあきれ顔になっていた。
「なにをやっているんだ。女のひとりも抱きあげることができないのか」
「……っ……すみません」
「ん? なんだ、怪我をしていたのか。肩から血が出ているぞ」
「たいしたことは……ありません」
「傷が痛いなら早く言え。俺が一人で運ぶ」
ドルフは持っていたそっと足をおろすと、女の体の下に手を入れて軽々と抱きあげた。
剣と燭台を手にした王子が先頭に立ち、女を抱きあげたドルフが従う。エディンは、置いて行かれまいと、大汗をかきつつよろよろしながら、彼らの後ろを付いて行った。
長い廊下を来た方へ戻る。遠くで騒いでいる兵達の声が徐々に遠ざかる。エディンは一度だけ振り返った。あの場に倒れていた者たちはまだそのままになっている。
王女はまだ気を失ったままで、ドルフに運ばれている。
自分が戦っていたのはこの王女なのか。疑問が果てしなく生じては、答えを適当に想像しては心の中に収められていく。右肩にやられた傷から出ていた血が指の先まで流れてきた。虫が這うようなゆっくりとした血のあゆみ。傷はがまんできない痛みではないが、手がぬめってその感触が気持悪い。手が……そう言えば、つい先程まで手のひらの中には――!
「あーっ!」
つい、大声を出してしまった。
――僕はあれを敵に投げつけて……うああ……ジーク様に叱られる……
「なんだ、エディン。急に大声で驚かせるな」
王子が顔を向ける。エディンは頭を下げた。
「す、すみません。あの……申し訳ありません。先程のネズミを、戦闘中についうっかり逃がしてしまいました」
燭台の薄明かりの中で、一瞬だけ向けられた見えないまなざし。王子が見せた反応はそれだけで、彼は速度を緩めることなく、黙って歩いて行く。
「ジーク様、申し訳ございませんでした。本当に、あの、決して逃がさぬようおおせつかっておりながら」
「もういい」
感情が読みにくい王子の声が返って来た。
一同はやがて王子の部屋の前の廊下へ入った。 王子は、自分の部屋の前へ着くと、扉を開ける前に、足を止めた。
「中を点検して来てくれ。今、部屋を留守にしていた間に、誰かが入り込んでいるかもしれない」
ドルフは王女を抱いていて動けないので、エディンが一人で注意深く王子の部屋へ入った。
燭台の光は、部屋を出た時のまま灯されている。室内の様子は普段と変わらず、特に荒らされた形跡はない。手早く、衣装箱の中などを開いて点検していると、ふと、ニレナ王女の肖像画が目に入った。エディンは引き寄せられるように近づいた。
本棚に飾られている王女の肖像画。大きめの本ぐらいの大きさのそれは、ジーク王子との婚約が正式に決まってから送られてきた絵なのだと、以前、ドルフに教えてもらったことがある。肖像画なので、多少は美化されて描かれているだろうが、見惚れるほどきれいな女性だとエディンは思った。
はっきりとした二重の紺色の目は知性的に輝いている。なめらかな唇に浮かぶ微笑。利発そうな感じがする。それでいて、細い肩は守ってやりたくなるほどはかなげに見える。もしも、この女性がジーク王子の婚約者でなければ、きっと多くの男が求婚するだろうと想像できた。
この女性が、本当にこの城に忍び込み、婚約者の王子を傷つけたのか。信じられないが、倒れた賊の顔は、この肖像画に酷似していたことは間違いない。肌の色に近い明るい茶色の髪色も、賊と同じような色だと思う。賊の女は、この肖像画のように髪を結い上げていないので少し雰囲気は異なるが、婚約者の王子が、ニレナ王女だと断言したのだから、そこにいる女は王女で間違いないのだろう。
なぜ、何の目的で? 暗殺目的なら、何も王女が自分でやらなくてもいいはずだ。逃げた他の賊たちは捕まったのだろうか。ジーク王子の結婚式はたぶん中止。ニレナ王女がこれでは、結婚式どころか、最悪の場合は戦争に――
「エディン、点検はまだ終わらないのか。なんだ、ニレナの肖像画を見ていたのか」
突然背後からかけられた声に、エディンは、現実に戻った。びっくりして、ひぇ、と叫びそうになった。いつの間にか、王子がそこまで入ってきている。王子はつかつかと近づいてきた。
「すっ、すみません! 点検は終了しました。室内に異常はございません」
あせって、勢いよくペコリと頭を下げた拍子に、足元がよろめいた。
「エディン」
はい、と返事をしようと思ったが、うめき声になってしまった。王子が、エディンの傷ついた肩をつかんでいた。
「傷を見せろ。切り傷は……そう深くないように思えるが、少し腫れている。信用できる医術師をここへ呼んだから、おまえも一緒に治療してもらえ」
「ありがたきお言葉でございます。ジーク様もお怪我をなさっておいでなのに、お役にたてず、申し訳ありません」
エディンは心から感謝の気持ちを示す深い礼をした。
「私の怪我はかすり傷だ。心配はいらない」
王子は、血が止まっていない手の甲を見せ、エディンを安心させるように軽く振って見せた。それから、部屋の外で待つドルフを呼んで、寝室へ王女を運ぶよう命じた。
王子の寝台に横たえられた王女の首筋に、小さな引っかき傷が出来ていた。首の前の方、喉の辺りに縦に四本、あざやかに赤い線が引かれている。それはどう見ても刀傷ではなく、ネズミの手の――
エディンは、うう、と何度目かの心の嘆きを押し殺した。賊にやられた傷はだんだんと痛みを増してきた。しかし、王女の首の引っかき傷を見て、それよりも痛い現実が未解決のままで待っていることを思い出した。自宅のニレナネズミ逃走騒動はまだ終わっていないのだ。