菜宮雪の空想箱

13.チーズ男




 その日の夜、エディンは普段通り出仕した。城内の片隅にある兵舎で身支度を整えていると、今来たばかりのドルフが近づいてきた。
「よう、エディン。俺の連れて行ったやつらはどうだった? アレを捕まえることに成功したのか」
 ドルフは愛想のいい笑いを浮かべている。いつもの彼。使用人と共に深く頭を下げた時の彼とは別人に思える。
 エディンは室内を見回した。
 今、自分たちがいる縦に長い部屋の隅に、城の兵たちが数人いる。兵たちの私物置き場のここは、窓がなく声が響きやすい。しかも、ドルフは声が大きい。王子に関するうわさをしていることがばれたら大変だ。
「お話はあちらで」
「なんだ。いい話じゃなさそうだな。まあ、夜は長い。あいつらの活躍をたっぷり聞かせてくれよ」

 腰に剣を差し、槍を持った二人は、兵舎を出て、ジーク王子の部屋へ向かって歩き出した。
 大理石の床がコツコツと靴音を響かせる中、エディンは周囲に注意を払い、誰も聞いていないことを確かめると、ニレナネズミがまだ捕獲できていないことを話した。
「ふ〜ん、そうか……じゃあ檻はまだ使われていないんだな。なかなかいい檻だっただろう? 俺が選んだんだ」
 得意そうに胸を張るドルフに、エディンは小さな声で丁寧に礼を述べた。
「ジーク様のご婚礼が終わるまでには、必ず、あの中にニレナを入れてみせます、と言いたいところなんですけどね……なかなか現れてくれなくて。今日は捕獲失敗です」
 エディンが、チーズ生塗り、生歌声作戦のことを教えると、ドルフはゲラゲラ腹を抱えて立ち足を止めてしまった。廊下の奥の方にいる巡回兵が不審な顔をむけて二人を見ている。
「ドルフさん、聞こえますよ」
 エディンにうながされ、ドルフは口を押さえて笑いながら再び歩き出した。
「わははは……かわいそうなレジモント。あの色男がチーズ男にされちまったのか」
「チーズ男! それは酷いですよ」
「体にチーズを塗ったなら、チーズ男だろう」
「あはっ……確かにそうなんですけどね……」
 ドルフの大笑いにつられて、エディンも笑えてきた。ちょっとかわいそうだったかと思うが、冷静に考えればこっけいだった。命じたのは自分だとわかっていても、おもしろいものはおもしろい。
 エディンとドルフは、肩を震わせて笑いながら長い廊下を歩いた。
「目に浮かぶぜ。よくもまあバイロンの方もふき出さずに真面目にやってくれたな。この時間も、あいつらはネズミ探しを続けているのか?」
「いいえ、夜になりましたので、私が家を出る時に帰ってもらいました。一応、今日は昼間だけ手伝ってもらうつもりだったので。ちょうどドルフさんと入れ違いにそちらへ戻ったのではないかと思います」
「帰したのか。なら、今頃、『チーズ男』のことがおやじに報告されているな」
 ドルフは、笑いで目尻にたまった涙を指でこすった。
 二人はやがてジーク王子の寝室に着いた。

 いつものように、王子の部屋の点検が始めた。あと八日で、この寝室は模様替えされ、花嫁を迎えることになる。王子の衣装箱を開いて不審者がいないかを確かめながら、ドルフが言った。
「そういえば、あいつらをそっちの住み込みにして使ってもいいと、俺のおやじが言っていたぜ」
 住み込み? いいのかとエディンはドルフの顔を確かめた。ドルフは冗談を言っているわけではなさそうだった。
「自分としては、身元がはっきりしている人に住み込みしてもらえるなら助かりますけど、バイロンも、レジモントも、ドルフさんの家の使用人なんですよね? 二人もこちらへ来てもらったら、ドルフさんの家がお困りでしょう」
「おやじがそれでもいいと言っていた。なんでも、ガルモ伯爵家の前代にえらく世話になったらしい。ガルモ家へ使用人を紹介したいと相談したら、おやじのやつ、大声になって、おまえの名を確かめてきた。あれには俺が驚いた」
「ドルフさんのお父上が『エディン』という名前を知っていたんですか?」
「おう。ガルモ伯爵家の跡取り息子、ということで憶えていたらしい。おやじは、おまえの家に行ったこともあるらしいぜ。おまえと会ったことがあるかもな」
「あの……お名前をうかがってもよろしいですか?」
「おやじの名前はモーリッツ。モーリッツ・ハウマンだ」
「モーリッツさん……」

 エディンは、王子の寝台の下を覗きこんで点検をしながら、記憶を掘り起こそうとしたが、憶えがなかった。父親が生きていた頃は、家にはいろいろな人が出入りしていた。どんな客がいたかなど、子どもだったエディンの記憶の中にはない。
「おやじのやつ、ガルモ伯爵家の当主と一緒に夜警をやっていると言ったら、目をパチくりさせてびっくりしていた」
「私が知り合いの息子だというだけでなく、伯爵家の当主が家をあけて夜警などしていることがおかしかったのでしょうね」
「別に変ではないぞ。この城には貴族の子弟で兵をやっている者は他にもいる」
「ですが、当主が夜警をやっているのは、普通はないですよね」
「そうだな。俺も他にそんなやつは知らん」
 エディンは苦笑いした。
「伯爵様」
 ドルフは腰を曲げておじぎして見せる。
「お望みならば、これからは伯爵様、とお呼びしましょうか? 使用人の前ではきちんとした方がいいと思って、きのうはあんな態度をとってみました。それにしても、伯爵様は気の毒なお方。由緒ある伯爵家のご当主なのに目の色を変えてネズミ探し。おおぅ、哀れ悲しや。伯爵様、心労のあまりご乱心で、レジモントをチーズ男に変身させ、ネズミのご機嫌とり」
 ドルフは丁寧な言葉とは裏腹に、遠慮なく大きな口を開けて笑っている。
「ドルフさんっ! 人聞きの悪いことを言わないでください」
「その通りじゃないか」
 ドルフは、エディンのひっくり返った声の真似をした。
「ニレナネズミに愛されて、『ああっ、おゆるしを〜』なんて言っていたくせに。あれがご乱心と言わず、何と言おう」
「う……」
 よみがえるニレナのかわいい手の感触。寒いものが体を走りぬける。
「あ、あれは……でもドルフさんだって、同じ目に遭われたことがおありなのでしょう?」
「俺は伯爵様のような、あんな高尚な萌え方はできませんぜ」
「伯爵、伯爵って……ネズミには身分など関係ありませんよ」
「確かに。さすが伯爵様」
「……よしてください」


 点検を終えた二人は、いつものように、ジーク王子の部屋の前に立った。
「そう言えば、エディン、言い忘れていたが、レジモントとバイロンの給金はおやじが払うそうだ」
 エディンは、えっ、と即座に言葉を返した。
「そんな、それはいけません。うちで働いてもらう以上、ガルモ家が出すのが普通です。そこまでドルフさんの家に負担をかけさせることはできません」
「よく事情は知らないが、おやじが今の仕事をやっていられるのは、先代伯爵様のおかげなんだとさ。さっきも言ったが、もしも、レジモントたちがそっちで住み込みになっても雇い賃はいらないってことだ」
「いえ、それは絶対に駄目です。そんなお世話になるなんて――」
 エディンが言いかかった時、ジーク王子が湯あみから戻って来る姿が見え、会話は中段となった。
 エディンとドルフが、扉を開けて頭を下げる。
「エディン」
 またしてもジーク王子がエディンを名指しで呼んだ。

 ――うわ〜!

 心の絶叫を押し殺し、エディンは返事をした。
「はい!」
 返事に力が入る。
「話がある。中へ」
「……はい……」
 それとなくドルフを見ると、彼は笑い声こそ立てていないものの、弛んだ唇から上下の歯が見えていた。



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