菜宮雪の空想箱

荒野のニンジン (短編、シリアスコメディ、ファンタジー)

※覆面作家企画5に提出した作品を多少手直ししました。

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 見渡す限りの埃っぽい大地。山も川もなく、平野に岩が点在するだけの風景が果てしなく続く。陽は沈みかけ、乾いた空気は急激に冷え始めていた。
 野宿できる場所を探して歩いていた旅の若い男は、ひときわ目立つ大きな岩へ向かった。
 あの岩ならば、多少の風雨は凌げそうだ。

 たどり着いた巨大岩。それは、掘り出されて横たわるニンジンにそっくりな、色と形をしていた。最も太い部分は二階建ての家ほどの高さで、オレンジ色の胴体は、先へ行くほど細くなり、葉に相当する部分は、しなびた葉の残骸らしきものが付いているように見える。自然の悪戯とはいえ、これは実によくできた、巨大ニンジンの造形芸術作品だった。
 旅人は直にニンジン岩に触れてみた。驚いたことに、表面は冷たいが、本物の野菜のように、中に水分を感じる。ためらいつつ、岩に直に歯を立て、削れた破片をかみしめれば、間違いなくニンジンの味。これほど大きなニンジンがこの世に存在しているとは聞いたこともないが、舌が感じる味はニンジンそのものではないか。
 不思議な気持ちを抱きながら、腰に差していた剣を抜きニンジンに深く突き立てると、ニンジンの一部が欠け、中に大きな空洞ができていることを確認した。これならば、食べるだけでなく中に入って夜露を完全に防ぐことができる。穴を広げてニンジンの内部へ入り込んだ。

 持ってきたランプで中を照らすと、広々とした内部には、木製のテーブルと椅子が置いてあった。天井が低くなっている奥の方には、小さなベッドも一台ある。それ以外の家具は見当たらないが、よく見れば、旅人が開けた入り口穴の方角とは正反対の方向に、外への扉が付けられていることがわかった。
 どうやらここは人の家。扉があることに気がつかずに壊して入ってしまったようだ。家人が帰ってきたら、このことを詫び、今夜の宿を頼むしかない。

 深夜になっても家人は帰宅しなかった。歩き通しで疲れていた旅人は、眠さに耐えきれず、ベッドを借りて横になった。人のベッドを使うことは悪い気もしたが、空いているのなら床で眠ることはない。
 その夜、ベッドを借り、ぐっすり眠れた旅人は、朝になってからもう一度室内をよく観察した。
 巨大なニンジンをくりぬいた家。中が空洞でもニンジンの組織は未だ生きている。夕べはよくわからなかったが、このニンジン、横倒しで荒野に放り出されているように見えても、根の先の方は、土中に埋まっているらしい。
 自分が空けてしまった穴が残念だったが、寝具も汚れがなく、室内は快適そのもの。ここは無人の宿泊所、あるいは避難所か、とも考えた。実に変わった場所だ。遠目では、ニンジン型の岩に見えるこの内部に、食べられる壁の家が存在するとは、誰が思うだろうか。
 家人を待たずに出発しようとしたが、先ほどまであった日射しが雲に覆われ、今にも雨が降りそうな空模様になってきたため、今しばらくここで休ませてもらうことに決めた。
 雨が少ないこの地方のこと、雨雲はすぐに通り過ぎると思い、またベッドへ横になった。もしかすると、ここはずっと前から無人で、今は誰の物でもないかもしれない。ここに誰も戻らないならば、遠慮することもない。
 旅人は再びニンジンを削って食べた。このニンジンは果物のように瑞々しく、舌の上に広がる水分には甘みがあり、食べ始めると止まらない。これだけで栄養が摂れた感覚になる。

 旅人は、雨が止んだ翌日も、その翌日も出発せず、ニンジンの壁を食べては眠った。
 そのうちに、どうして自分がここにいるのかがわからなくなってきた。一人旅の目的を思い出せない。このような乾燥した岩だらけの地が続く中、いったいどこへ向かって歩いていたのか。自分の故郷、自分の名前すら、頭の中に膜が張ったようにあいまいだった。
 旅人は、壁を削ってニンジンを食べながら、何気なく自分の剣に彫り込まれた文字と記号を見た。片刃で細身の刀身に入っている文字列が黒く浮き出ている。
 かすむ頭で考えた。この剣には、以前からこんな黒い文字が書いてあっただろうか。
 剣の文字。ダリュースという綴りから始まり、意味不明の言葉が何行も並んでいる。呪文のたぐいは読めないが、最初の単語には見覚えがあった。
 背中が急に寒くなった。それは間違いなく自分の名前を示したもの。どうして忘れていたのか。名前に続いている言葉は、幻術除けの魔法文字だったはず。
 剣をよく見れば、黒文字が浮き出ているだけでなく、剣の刃全体がくすんだ銅色に染まっていた。使っていたのにそんなことすら気がつかなかった。
 座り込んでニンジンをほおばっていた旅人は、剣を鞘に収める余裕もなく、はじかれたように立ち上がって荷物袋をつかむと、ニンジンの外へ飛び出し、全速力で遠ざかった。
 走って乱れた呼吸を整えながら、ニンジンが存在していた方向を振り返ると、巨大なニンジンはどこにもなく、でこぼこの岩が混じる乾燥した大地が延々と続いていた。強い空腹感に襲われ、旅人はその場に座り込んだ。

 危ないところだった。
 こめかみを流れ落ちる汗をハンカチでぬぐう。
 結局、ここ数日、本当は何も食べていなかったのだ。こうして何人もの旅人が、この荒野で魔獣の幻術にかかり、命を奪われたと聞く。幻は人によって違い、好みの食べ物に変化するらしいと情報があったにもかかわらず、ニンジンに近づいた自分がなさけなかった。あのまま幻のニンジンの中にいれば、衰弱して動けなくなり、魔獣の餌食になるところだった。
 荷物袋に入れてきた干し芋をかじる。これは現実の味がする。乾いた喉に、少量の酒をゆっくり流し込んで生気を養う。今度は、魅力的な宿を見つけても、おいしそうな食べ物が置いてあっても、惑わされたりしない。この剣がある限り。
 剣の文字が浮き出ていた場所を確かめた。今は黒い文字は消え、どこに刻まれていたかわからなくなっている。剣の色そのものも、先ほどのような銅色ではなく銀色で、ごく普通の剣に戻っていた。
 旅人は愛する女の名を呟き刀身に唇をつけた。これは、彼女が夜を徹して魔法をかけ、旅の成功を祈ってくれた剣。魔法のおかげでこの剣は幻術に反応し、黒く染まって危険を告げ、自分を正気に戻してくれた。この剣がなければ、今頃は死んでいたかもしれない。
 この岩砂漠地帯に生息する魔獣を一匹でも倒せば、大金が手に入る。そのお金で彼女の指輪を買い、自分と生涯を共にして欲しいと告げようと思っていた。そのための旅。
 彼女のニンジン料理はとてもおいしい。帰ったら彼女に料理を作ってもらおうと、そればかりを考えていたため、ニンジンを食べ続ける夢に嵌められてしまったらしい。

 適度に腹を満たした旅人は、立ち上がった。絶食していたせいで、少しめまいがする。それでも今すぐ帰る気にはならなかった。幻が出たということは、魔獣は近くにいる。遠くまで探しにいく手間が省けるなら、多少苦しくても戻らずにがんばりたい。
 全身を長い毛に覆われ、ネコに似ている危険なケモノ、魔獣。通常は単独で行動し、成獣でも成人男性の腰ぐらいの体長しかなく、力も弱いが知能は高い。何よりも恐ろしいのは、人の言葉を理解し、心を読んでは様々な幻術を使い、狂って弱った人間を食べてしまうことだった。
 旅人は気を引き締め、鞘から抜いたままの剣を手にして歩き出した。

 いくらも歩かないうちに、剣に、警告を示す黒い文字が浮き上がり、警戒しながら前方を見れば、またしても巨大ニンジンが行く手をさえぎっていた。
 今度は騙されない。冷静に考えれば騙される方がおかしいのだ。これほど大きなニンジンがあるわけがない。これは魔獣が作りだした幻。
 巨大ニンジンの幻を斬りはらってやろうと、剣を振り上げたが、斬りつける一歩手前で、剣の動きを止めた。
「レフィカ!」
 目の前の巨大ニンジンは、一瞬でなくなり、そこには、血と砂にまみれて倒れている人間の姿があった。最愛の女、レフィカ。
 旅人は、彼女の上半身を膝に抱くと、もう一度、彼女の名を叫び、肩を揺すった。傷だらけの彼女は、旅人の声に細く目を開き、苦痛に顔を歪め、彼に手を差し伸べた。
「僕を追ってここまで来たのか」
 彼女は苦しげに息を吐くと、何も言わずに目を閉じてしまった。
「レフィカ?」
 彼女の体から力が抜けてゆく。
「すぐに町へ戻ろう。少しだけがまんしてくれ」
 かき消すことができない死の予感に唇をかみながら、剣を鞘におさめると、彼女の体を背中に担ぎあげた。

「ウグッ!」
 突然、背中に走る衝撃。
 はずみでうつぶせに倒れた。担いだはずの愛する女はどこにもいない。痛みに耐えつつ舌打ちし、剣を支えに必死で起き上がった。背中を血が流れて行くのがわかるが、まだ動ける。かなり痛いが、それほど深い傷ではないと思う。
 またしても幻術にやられた。腹立たしさと同時に、レフィカ本人でなくてよかったと心から思った。
「魔獣よ、僕の心が読めるならここへ出てこい。絶対におまえの毛皮を持ち帰ってやる」
 いさましく言い放ったものの、体力が落ちている上、背中には鋭い爪で裂かれた傷ができている。長くは戦えない。一撃で決めたいが、敵の姿は見えない。

 いきなり風景の形が崩れ、周辺はオレンジ色の海になった。体が水に包まれ揺られている気がする。泳ごうとしても、背中の傷が痛み、うまく手足が動かせない。水中に顔が沈み、あせって浮上するも、不自然な泳ぎ方ではうまく息が吸えない。苦し紛れに、剣をめちゃくちゃ振り回した。
 これも幻だ。わかっていても、体が感じる苦痛は現実と変わらない。こんな幻の海で溺れ死ぬのか。
「レフィカ!」
 と、急にオレンジ色の海はなくなり、風景は砂漠に戻り、振り回した自分の手足でバランスを崩して砂の中に倒れ込んだ。口に入る砂は本物。
 怒りが込み上げてきた。魔獣は、ニンジンに似た色にすればいいと思ったのか。
 再び立ち上がろうとした時、黒い影がうなり声を上げながら覆い被さってきた。
 喉を狙われている!
 しっかりと起き上がっていない状態で、両肩が押さえつけられ体に魔獣の体重がかかる。だが、体格はこちらの方が上だ。力まかせに押しのけると、魔獣は再び飛びかかってきた。魔獣の爪が肩に食い込む。裂かれた皮膚から自分の血が流れ出していくのがわかった。

 負けられない。帰って彼女に会うまでは。愛していると告げるまでは死ねない。まだ彼女には何も言っていない。幼馴染の関係だけで終わりたくない。彼女は自分にとっては仲のよい女友達以上の存在。
 だが、何も、まだ。
 痛みをこらえ、渾身の力を込めて剣を突き上げた。
「ギャー!」
 おぞましい声が耳を刺し、生温かい血が顔に飛び散った。吐き気を誘う血の臭いに耐えているうちに、魔獣の力は弱まり、魔獣の下から抜け出すことに成功した。
 剣で腹を突かれた魔獣は、爪がついた手足を伸ばし、痙攣している。
「これも幻だったとしても」
 血でぬめる剣で、魔獣の腹を全力で引き裂いた。

 傷ついた体での帰路は、予想以上に大変だった。
 あの荒野から最も近い町で、魔獣の毛皮をお金に換え、馬とみやげも買ったが、故郷の町までは何日もかかった。魔獣にやられた傷が激しく痛む。町医者が包帯を巻いてくれたが、絶え間なく汗が流れ、馬に揺られていることすら苦しい。
 のろのろと最後の町を抜け、細い田舎道に入った。母が待つ自宅の前は通り過ぎる。自宅は後でいい。
 間もなく彼女の家が見えてくる。あと少し。あそこだ。あの赤い屋根。大好きな彼女が住む場所。彼女の笑顔が見たい。
「レフィカ……」
 視界が狭まった。



 料理の匂いが鼻をくすぐる。動こうとして、背中の痛みにうめき声を上げた。うつ伏せになって寝ていた。そこは自分の家のベッドで、横の椅子には愛するレフィカが付き添っていた。
「よかった。気がついたのね。おばさまは今、お薬を買いに行ったわ。背中が膿んでいるわよ。こんな怪我をしてまで魔獣を殺しに行かなくてもよかったのに。村のみんなに心配をかけて」
「レフィカ」
 おまえが剣にかけてくれた術のおかげで助かった。愛している。結婚してほしい。荷物袋にはおまえに贈る指輪と結婚資金が入っている。
 感謝と決意を込めた言葉を出そうと、息を大きく吸い込む。
「おばさまとニンジンスープを作ったのよ。今持って来るわね。ダリュースはニンジンスープが大好きだから」
「ニンジンスープ!」
 思い出すだけでむかむかするのに、彼女は笑顔で運んできた。
「栄養を摂らなきゃ駄目よ。こんなにやつれて」
 深めの皿に並々と注がれたオレンジ色のスープ。ニンジンの欠片がたくさん入っている。
 目に入る風景すべてを染めたあの色と同じだ。しばらくは見たくない。
「……ありがとう。レフィカが剣に術をかけてくれたおかげで助かった。感謝している。魔獣は予想を上回る強さだったよ」
 皿の中でスプーンを動かせば、揺れるオレンジ色の液体。湯気が出るスープを、無理やり流し込もうとすると、喉につかえた。
「どうしたの? 気分が悪い?」
「いいや、なんでもない」
「これでは当分動けないわね。このスープを飲んで、早く元気になって」
 これの海の中で苦しんだから、二度と飲みたくない、と言えぬまま、彼は弱々しく笑い、ニンジンスープを飲み干した。

「レフィカ、僕の荷物袋を持って来てくれないか」
 旅の荷物袋から、小さな布包みを出し、彼女に差し出した。
 運命の時。幸せを掴めるか、それとも嫌われて破局か。
 魔獣と戦うよりも心臓があおる。
「向こうの町で買った。これは、レフィカが剣に術をかけてくれたことへのお礼と、それから」
 これが僕の気持ち。愛しているんだ。僕の妻になってくれないか。
 緊張で唇が強張る。突然の求婚に、彼女は頷いてくれるだろうか。危険を冒し、ニンジンの海に落ちてでも得たかった、二人で暮らす未来。
「僕は、レフィカを」
「おみやげね? まあ、素敵な指輪。嵌めてもいいかしら」
「合うかな」
「ぴったりよ。ダリュースにしては上出来。こんな気の利いたおみやげを買うなんて、どういう風の吹きまわしかしら」
 彼女は、左手の薬指に嵌めた指輪を掲げると、無邪気な笑顔で彼を見つめた。
 ――左手に嵌めてくれた。
 弾む鼓動。思いを告げるのは今。
「レ、レフィカが作る料理はおいしいよ」
「そう? 誉めてくれてありがとう」
「僕はこれからもレフィカに、料理をたくさん作ってもらえたらうれしい」
 僕のためだけに、いろいろな料理を。
「まかせて。ニンジンスープなら簡単よ。怪我が治るまでは毎日作って持って来てあげるわ」
「ニンジン……」
 目を閉じれば、オレンジ色の水がちらつく。こみあげるむかつきに、彼は自分の口を押さえた。

 愛の旅人、ダリュースの試練は、まだ終わっていない。




           【了】


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