菜宮雪の空想箱

御嵩城幻夢伝

歴史ファンタジー、約6000字、覆面企画7参加作品、一部改稿 2016.3.9



 その夢は痛いほど眩しい。
 何もない暗黒の中に浮かぶ強い光の塊から、毎回同じ、底寒い声がする。
「そちは天下人になれる」
 闇の中の光は目の奥まで焼きつき、その形すらつかめない。
「重則よ、そちならできる。天下人とはすべての地を統べる者。我が、そちの戦に味方してやろう。報恩として、そちの娘、松姫を奉じれば願いは叶う」
「何を言うか! 怪しき化け物、去れ!」
 夢の中で刀を抜き放ち斬りつけても、光はあざ笑うように瞬く。
「そちが天下を欲する限り我は来る。また会おうぞ」

 美濃御嵩城の城主、小栗信濃守重則は、その朝も冷たい寝汗で目覚めた。
 背中まで冷えるほど夜着は湿り、口中の乾きで喉が痛む。またしても怪しげな夢にうなされていたらしい。この夢を見るのはこれで何度目か。

 重則は寝所から出て物見台へ向かった。濃い霧が立ちこめており、麓の可児川も村も見えないとわかっていたが重い気をどうにかしたかった。
 光の夢を見た日は、常に霧が出ている。ごく近くの庭木や石ははっきり見えるが、それ以外何もかもが白い。
「侍ならば誰もが、統べる地を増やし富国を望む。奇異な願いでもあるまい。加勢はありがたいが、お松を差し出せとはいかに。これは人身御供であろう」

 重則と室の間には子が何人か生まれたが、病などで次々世を去り、生き残っているのは松姫ひとりきりだった。松姫は、病弱な室の代わりにこの城を陰で支えてきた。常日頃から武芸をたしなみ、美しい顔立ちに似合わぬ男勝りの気性は、近隣では知らぬ者はいない。
 重則は、いずれは松姫に婿を迎え、婿にこの御嵩城を継がせたいと考えていたが、相手を決めかねていた。信用して婿に迎えた男の一族によって己が追放される懸念が捨てられず、姫は二十歳になるが、祝言の話は未だ受けずにいた。

 重則が家督を継いでから既に二十余年。小栗信濃守として可児郡の村々を支配下に置いてきたが、美濃国の状況はめまぐるしく入れ変わっている。
 美濃は土岐家が長く守護を勤めていた。十一代目の守護を勤めた土岐頼芸は、実兄から守護職を奪い取ったが、臣下の斉藤道三によって追放されたのは覚えに新しい。
 重則は、白い物が混じり始めている頭を両手で抱えた。信頼していた家臣に裏切られ追い落とされるのは美濃に限らず、どこにでもある話である。土岐頼芸は明日の己の姿だった。
 妙な夢ばかり見てしまうのは、松姫の相手が決められないせいだと己に言い聞かせても、光は呪いのごとく現れる。頭の隅まであの眩しさが焼き付き、このところ常に天下のことで頭が一杯になっている。
「儂にできるだろうか」
 ひとり娘の命と引き換えに天下を制す。
「いや、お松を死なせることなどできぬ。儂はどうかしておる」
 幾度考えてみても話がうますぎる。かの光は当然、他の武将のところにも現れているかもしれず、甘い話に飛びつくほど若くもない。
 重則は長い間、物見台の肌寒い風に身をさらしていた。


 それから何夜も経たないうちに、重則は再び光の夢を見た。
「どうじゃ、重則よ。心が揺れておるな」
「怪しき者め、真に我が方の味方ならば、その証を示せ。たったひとりの姫を差し出して何もしてもらえぬではやりきれぬ」
「やっとやる気になったか。まずは土岐の高山城をとれ。近きうちに、かの城のおもしろき話が耳に入る」
 土岐高山城といえば、重則の御嵩城から二里半ほど南にある山城である。
「確かに、高山城を落とせば美濃を総べる足掛かりになるかもしれぬが」
「しばし時を待て」
「しかし、出陣すればここが手薄になる。かねてより美濃を狙う甲斐の武田晴信の大軍が押し寄せてくるは火を見るより明らか。東美濃に根を張る遠山勢は武田寄りで味方にはならぬ上、うまく武田に勝てたとしても、次は尾張の織田から攻められるであろう。我が方に勝ち目はない」
「案ずるな。この御嵩城、決して落ちぬ。我は人ならぬ者故、人には成せぬことができる」
「だが」
「そちにとって損な話ではあるまい。天下をとれば、親兄弟で殺し合うような乱世を終わりにできる。松姫ひとりの供物で済むなら安きことと思え。姫をしかるべき名家にやったとて、その婿殿がそちに刃を向けぬとは言えぬ」
 痛いところを突かれた重則が空唾を飲んで黙っていると、光はいきなり近づき重則の体全体を包んだ。重則は眼を閉じて眩しさに耐えた。
「重則よ、心を偽るな。口で何と言おうとも、地の果てまで手中にし、争い無き世にすることを望んでおろう? 娘よりも重き侍としての思い、しかと受け止めた。手助けをいたす。証が欲しいならば」
 その瞬間、重則の腹に激しい痛みが走った。


 重則は己の悲鳴で目が覚めた。眼を開ければそこはいつもの寝所だった。外を見なくても分かる。また霧が出ているはずだ。生臭い湿気が寝所にまで入り込んでいる。
 夜着をはだけて己の腹に触れた。
「あやつは蛇神か」
 重則の腹には、赤一色の刺青ができていた。蛇の鱗模様の紐に似て、太い網目模様が幾重にも巻いている。おそらく背中に頭があるのだろう。
「従わぬとこの身を絞め殺す、か」
 あきらめ半分で模様を擦れども、やはり消えそうにない。
「よかろう。逃げられぬならばやってやろうではないか」
 意気込みに応じる光の声はなかった。
 重則は、このことは誰にも言わず、松姫のことを気にかけながらも、出陣の機会が来るのを待つことにした。


 それから十日後、重則の元へひとつの知らせが届いた。
 高山城の城主、伊賀守光俊が病死したという。跡目はおらず、高山城は今、少数の足軽兵が守っているだけで手薄らしい。
 重則は、報告の者が下がって室内にひとりきりになると、腹にゆっくりと触れた。
「すまぬ、お松。儂も侍。しぶしぶ応じた話でも後には退けぬ」
 重則は拳を固く握った。
「この期を逃さず高山城を攻め取り、東美濃をこの手に入れようぞ」


 天文二十一年(1552年)、重則は千の軍勢を率いて高山城を目指した。
 出陣の知らせは、直ちに各地に伝わり、あちこちで軍が動き出した。

 重則の軍は土岐川の北岸、大富山へ布陣。目指す城は川向こうの小山の上にある。
 川の向こうに対するは、甲斐の武田晴信から派遣された平井光行と後藤庄助、そして、明知城、岩村城など、付近の山城を多数持つ遠山一族の連合軍である。重則が恐れていた通り武田勢の数が多く、敵の総数はこちらの倍近いようだった。しかし、ここまで来た以上戦わずして退きはしない。
 やがて鬨の声があがり、矢合戦が始まった。
 重則の軍の方が不利なはずだが、矢がおもしろいほど敵にうまく当たる。蛇神の加護を確信した重則は、迷わず川渡りを命じた。
 土岐川は浅く緩い流れが広がっており、歩いて渡ることができる。
 川を渡り始めた重則の兵に、対岸に待ち構えている連合軍から矢が容赦なく飛んでくるが、不思議なことに、足元の水濡れで動きが鈍いはずの重則の兵たちには敵の矢はあまり当たらなかった。重則の兵たちは対岸の敵陣へ勢いよく攻め進み、敵の将のひとり、後藤庄助をいとも簡単に討ち取った。
 後藤の討死により、勝ち戦だと決め込んでいた連合軍は一部が押されて退却。重則の軍はさらに勢いを増し、敵陣の薄くなった部分を狙って突破し、目的の高山城まであとわずかなところまで進軍した。

 勝利を目前にして息巻く重則の陣営に、早馬が来て知らせが入り、情勢は急変した。
「遠山勢だと? 逃げたと思ったら御嵩へ向かったのか」
「敵は遠山光忠と遠山影行らだと思われます。ただちに御嵩城へ援軍をお願いしたく」
 重則は腹の印を無意識に押さえていた。ここを攻めつつ援軍を送る余裕はなく、御嵩城を守りたいなら全軍で戻るしか手はない。御嵩城を守る兵の数はわずかであり、いかなる加護があろうとも捨て置けばたやすく落城するに違いない。
 重則はやむなく高山城から兵を退き、川を渡り戻って御嵩城を目指したが、連合軍の残党たちが重則を逃がすまいと猛追にかかった。

 重則は、あらかじめ準備しておいた伏兵がいる山道を帰路にとり退却。途中で多くの兵を失いつつも、追手を必死で振り切り逃げた。
 御嵩城が見える位置まで戻ると、重則は思わず安堵の声を漏らしていた。
 雲の少ない晴天だったが、城がある本陣山付近だけが不自然な濃い霧に包まれている。どうやらあの光が本当に守ってくれているらしい。
 ほっとした重則は、松姫を差し出すという光との約束が頭によぎったが、そのことはすべての戦いが終わってから考えればよいと、今は頭から追い払った。
 霧に覆われた御嵩城は攻めにくく、敵方はいったん追撃を諦め、戦は休戦状態となり、決着がつかないまま日が過ぎて行った。


 ある日、重則が寝所へ入り横になった時、腹に刻まれた模様が急に締め上げられるように痛み出した。
「まだだ。まだ何もなしえておらぬ。天下を手に入れるまではお松はやらぬ」
 思えばこのところ光の夢を見ていない。
 重則が脂汗を流しながら腹の痛みに耐え続けていると、近侍の者が大慌ててやってきた。
「敵襲あり」
 霧が晴れ、複数の場所が同時に攻められ始めたという。
 重則は舌打ちして刀をつかむと、痛みをこらえ外へ飛び出した。
 敵は武田、遠山の連合軍で、味方の兵の数が圧倒的に足らず、支城としていた旧城の陥落は早かった。
「儂は天下を総べる者。負けはせぬ」
 重則も槍や刀を振るって無我夢中で戦い続けたが、その間も腹がきりきり痛んでいた。痛みに気を取られて足がもつれ、刀を持つ手が震えてしまう。
 主の様子が普通ではないことに気が付いた臣下たちは、重則を促して本丸前まで退いた。
「殿、ここは我らが守りますゆえ、落ちてくだされ。北の岩場より縄伝いに川へ降りれば、敵を欺けまする」
 重則が周囲を見回すと、兵たちは皆、息が上がり、数もかなり減っていた。
 重則は肩を落とした。
「もうよい。口惜しいがこの戦は負けだ。降伏の旗を掲げ開城せよ。皆、よく戦ってくれた。皆の働きは、この重則、あの世へ行っても忘れぬ。最期の頼みになるが、しばし刻を稼いでくれぬか。その後は各々にまかせる。武田の侍になるならそれもよし」
 重則は、「無念」の声を上げてむせび泣く兵たちに背を向け、年配の重臣、日比野美作だけを連れ、土足のまま本丸へ上がった。

 重則は奥座敷の真ん中へ姿勢を正して座り、抜き身の脇差を目の前に置いた。
「美作」
「はっ」
「思えば、そなたとは幼き頃より長き付き合い。そなたは常に傍にあり、兄のようであった。そなたに看取られるは喜ばしき限りであるぞ。儂が果てたらここに火をかけよ」
「火をかけ次第、某もすぐに参りまする」
「いや、そなたはここで果ててはならぬ。そなたは儂の死に様を皆に伝え、お松を落ち延びさせよ」
「某はあの世までもお供いたしまする。覚悟はできております」
「ならぬ。美作、下知である」
 美作は顔を歪ませた。
「殿……某は……某の主は、終生重則様おひとりでございます。長きに渡り仕えたこの身を置いて逝くとおおせか」
 重い涙を落とした美作に、重則は笑いかけた。
「美作。今生きるは恥にあらず。お松のこと、ここにいるそなたにしか頼めぬではないか。別れは辛いがそれより急ぎ話しておきたいことがある。ある日、夢に妙な光が現れてな」
 重則は夢の話をしながら胴着を脱ぎ捨てると、腹に刻まれた模様を美作に見せた。
「なんと……禍々しき蛇が」
「どうやら、かの光は悪しき物の怪の類であったらしい。お松をすぐに渡さなかったから、光は我が方の加勢をやめ、霧を晴らして儂を締め上げておる。儂は天下を欲すれど、娘を化け物に捧げたくなかった。惑わされて出陣した儂が愚かであった」
「殿は人として間違っておりませぬ。憎むべきはその魔でござる」
「さよう、悪いのは儂ではない。そう思えば気持ちよく旅立てる。さらばじゃ、美作。あの世でまた会おうぞ」
 重則は脇差を手に取り「お松を頼む」と念を押すと、辞世の句を詠んだ。

  燦爛たる 夢に踊りて地を噛める 遠き天下は幻なり

 やっ、と声が上がり、重則の脇差が腹の印を十文字に切り裂いた。
 呻き声と共に重則の体がゆっくりと前のめりに崩れ、畳に赤が広がっていく。
「殿、ご立派でございました。いつか……いつか必ずあの世で酒を酌み交わしましょうぞ」
 物言わぬ主に最後の挨拶を終えた美作は、涙に塗れつつ本丸に火を放った。


 重則が命を終えたころ、松姫は長槍を振るい、坂を駆け上がってくる敵兵を次々蹴り落とし、勇ましく戦っていた。
 近くにいた敵兵すべてを討ち倒した松姫は、物見台から下を覗いた。山から張り出すように作られた台のすぐ下は、岩交じりの急峻な斜面になっており、その下には可児川がある。
 皆、討たれたのか、他の場所へ向かったのか、ここに生きた味方兵の姿はない。振り返れば、本丸がある辺りから黒煙が立ち上り、喜びに沸く敵の声が聞こえてきた。
 負けた。ここはもう終わりだ。
 松姫が物見台から飛び降りようとしたとき、誰かが大声で自分を呼んでいることに気が付いた。
「姫様、お探しいたしましたぞ。殿は先ほど本丸内で自刃なさいました。そのご最期のことでお話したいことがございます」
 松姫が見下ろすと、物見台への木階段へ向かってひとりの兵が走ってくる。兜はかぶっておらず、その顔は血に塗れていたが、忠臣、日比野美作だと分かった。

 美作の話を聞いた松姫は、ひとすじの涙を静かに流した。
「父上はこの松を差し出すことを躊躇ってお苦しみに……美作殿、口授感謝いたす」
 松姫は美作に背を向け、物見台の板塀に手をかけた。その手首を美作が強くつかむと、松姫は赤くなった目を剥いてこの老臣を睨みつけた。
「離せ。松は死んで蛇神とやらの元へ参じ、その怒りを静めねばなりません」
「殿亡き今、蛇神との盟約などなし。直ちにここを去りますぞ。殿は姫様が落ち延びることを望まれた。某がお守りいたしまする」
 美作が「姫様」と言いかけたとき、姫は美作の手を振り払い、いきなり彼の頬を張った。美作が怯んで動きを止めた隙に、松姫は身軽に物見台を超え、空に身を躍らせていた。
 美作の絶叫が山肌を吹き降りた。


 落ちていく松姫はありえない景色を見た。
 城も、山も、川もなく、戦う人々の声すら聞こえない。先ほどまであったはずのすべては、眩しすぎる光と化している。
「蛇神様?」
 目を細めて光の正体を確かめようとしたが、気が遠くなり何もわからなくなった。



「重則は死んだか。松姫は確かに貰い受けたぞ。幼き頃より神童と謳われた小栗家の重則でも大器ではなかったらしい。趣がない」
 紅色の雲に姿を変えた蛇神は、ぐったりとした松姫の体を包み、体内で玩具のように放り投げて弄びつつ、天空高く舞い上がった。松姫の体は、そのうちに溶かされて消えた。
「どこかに我を唸らせるような欲と運と頭を併せ持ち、情を捨て去り、すべてを従えることができる強者はおらぬか。あそこに見える城の主はどうか。なかなか良い面じゃ」
 雲は七色に輝きながら、目に付いた山城、岩村城の方へ移動していった。


      了

企画参加時のあとがきテンプレ(ブログ記事2016.2.29へリンク、御嵩の写真あり)

参考文献(書籍のみ、参考サイト様はブログ記事内に示してあります。小栗信濃守のことが載っている資料は最初の田中宗平氏の作品のみ。他の参考文献は当時の雰囲気や勢力を知るために集めた資料です)
□「御嵩城興亡」 田中宗平 
□「霧の城」 岩井三四二 実業之日本社
□「知っているようで知らない戦国合戦の戦い方」 綜合図書
□「斉藤道三 物語と史跡をたずねて」 土橋治重 成美堂出版
□「戦国大名 勢力変遷地図」 日本実業出版社
□「図説 戦国合戦地図帳」 学研

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