菜宮雪の空想箱

1.
 平日の午後四時すぎ。
 入社二年目の佐久間友香(サクマ・トモカ)は、自宅方面へ向かうバスに乗っていた。
 いつもより早い退社時間。窓の外は雨。大型台風の接近により、急きょ、終業時刻が早まったのである。
 バッグの中に入れていたスマホが鳴った気配に気が付き、取り出して開くと、同じ会社にいる女性からのメールで、寿退職を知らせる内容だった。退職は十一月と書かれている。あと二カ月しかない。
 祝い言葉を返信して、ふぅ、とため息をついた。自分もいつかは――残念、彼氏すらいない。もうすぐ二十二の誕生日が来てしまうというのに。うつむいて頬にかかった髪をかきあげた。

 バスに乗ってから四十分ほど経過し、最寄のバス停に到着したときには、雨はどうしようもないほど強まり、風混じりの土砂降りになっていた。
 雨がひどくても下車しないわけにはいかない。
 バス停から自宅までの距離は五百メートルほど。自宅は、バス停の南にある町民公園横の土手を西に向かって歩いた先にある。さほど遠いわけでもないが、このお天気。案の定、バスから降りて数メートルでびしょ濡れになった。
 ブラウスも、スカートも雨のしみがどんどん広がり重みを増していく。九月の雨は冷たい。肩下までのストレートの髪が傘の下でうっとうしいほど舞い踊る。髪を結んでおくべきだったと後悔しても遅い。
 バス停から自宅までの付近一帯は、町民公園として整備されており、公園の真ん中には東西に細長い公園池がある。ところどころ木道になった遊歩道が池をぐるりと囲み、天気がいい日は、この池周りをジョギングしている人や、ゆったりと犬の散歩をする人などが見られるが、さすがに今日は誰の姿もない。辺りのすべてが雨に煙り、池の土手に植えられた桜並木が風に揺すられ葉がちぎれ飛ぶ。

 できるだけ傘を低く持ち、顔だけでも雨が当たらないよう前がよく見えない状態で、小股で公園の土手の上を歩いていると、石ころにつまずいて、転びそうになった。
 あぶない。こんなところで転んだら、びしょ濡れなだけでなく、泥だらけだ。
「あっ、ごめん、カメさんか」
 つまずいたのは石ではなく、縦十センチ、横八センチほどの縦長の楕円。カメの甲羅だった。
「ん?」
 よく見れば変わったカメだ。甲羅から出ている手足には、びっしりと毛が生えているように見え、茶色っぽい体の頭頂部付近には緑っぽいつるりとした部分がある。まるで、頭の上に緑の皿が乗っているような。皿の周りには、昆布に似た色のビラビラとした黒っぽいなにかがくっついており、童話に出てくる河童の姿に似ていた。
 なんだろうと気にはなっても、雨がひどすぎて、カメもどきを観察する余裕はない。
 とにかく服が冷たい。カメに毛が生えていたとしても、頭に緑の皿が乗っていたとしても、今はどうでもいい。
 早く、家へ。公園の向こうにある自宅まで、あと少し。



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