※廓言葉は会話文の単調さを防ぐため、複数の廓の言葉を意図的にごちゃまぜにしております。こういう言いまわしは絶対におかしい、などどうしても気になることがありましたら、こっそり教えてくださいね。小梅が自身をさす言葉は「おいら」の方が時代的にふさわしいと思いましたが、それでは女の子らしさが出にくいため「あたし」を使用。
1.
時に万延元年(一八六〇年)、霜月。
半年以上前に桜田門外の変が起こり、世は大きな時代のうねりの波中にあった。先が見えない政情を映すように、この年は冬の到来が早く、連日霜が降りた。
しかし、吉原遊郭では世情も寒さもほとんど関係なく、いつもと同じ光景が繰り返されている。
春を売る女たち。夢を買う男たち。呼び込みの男たちの声に混じり、三味線や太鼓の音があちこちから聞こえる。花行燈に照らされたこの町の人の流れは、深夜まで途絶えることはない。
騒ぎが起こったのは十一日、昼見世が終わった時間だった。吉原内の角町にある松川楼で、きちがいじみた高い声が廊下を抜けた。
「きゃあぁぁ! 菊千代姐さんがー!」
それぞれ休憩を取っていた遊女たちは、廓中に聞こえるような金切り声に、襖をあけて何事かと廊下に首を出した。
「姐さんが、姐さんが」
叫び声の近くで床の拭き掃除をしていた若い男衆、佐之吉が奇声を発し続ける少女に駆け寄った。
「どうしたってんだい」
叫び声の主、小梅という少女は、青い顔ですぐそこの襖の向こうにある部屋を指差した。そこは座敷持ちの菊千代花魁の部屋。小梅は菊千代花魁に付いている十五歳の禿(かむろ)である。
「菊千代姐さんがまた血を吐いたのか?」
小梅はしゃっくりあげながら、首を横に振る。色白の頬も鼻も、泣きすぎて赤く染まり、二重のはっきりした目は腫れぼったく濡れ、涙が滝のように落ちている。
菊千代花魁は、病の為に廓外の寮で静養していたが、妹女郎であるこの少女の新造出しの準備の為に、一時的に病を押して松川楼へ戻ってきたばかり。そのことはこの妓楼内の皆が知っていた。
「菊千代姐さん、具合はどうだい」
佐之吉は廊下から声をかけ、菊千代の部屋に入るなり、うわっ、と声を上げた。
「これは大変だ。誰か!」
佐之吉まで大声を出したので、様子をうかがっていた他の遊女たちもどやどやと集まってきた。
「なに?」
遊女たちは、泣きじゃくっている小梅の横をすり抜けて菊千代の部屋へ入るなり、ひぃ、と声を上げて出てきた。
「ひっ、ちょっと……小梅ちゃん」
「どねえしんしたの?」
後から出てきた遊女も部屋に入るなり悲鳴を上げる。気分が悪くなって口元を押さえながら出てくる者も。
菊千代の部屋の前の廊下は人でいっぱいになった。皆、中を見るとすぐに廊下に戻り、口々にささやき合う。
「なして殺される必要がありんすか? 姐さんは病気で死にかけていやしたのに」
「たまたま躓いて火鉢に首を突っ込んでしまったのかも」
「でも、首に腰紐が絡まって……」
「病気を苦に首吊りしたとか?」
「まさか。まだ二十一でありんすよ。もっと年増ならともかく、病気は治る可能性だってありやした。それに、こんな部屋じゃあ、首を吊るような柱もないざんしょう」
「……ってことは、つまり、誰かが紐で首を――」
遊女たちの間にざわめきが広がる。
「首を絞められた上、顔を火鉢に入れられて殺された? そんなっ」
「しぃ、声が大きい」
そこへ、ここの楼主の内儀(おかみ)、お藤が迷惑そうにぶつぶつ言いながら階段(注1)を上ってきた。中見世の松川楼は、この齢四十になるお藤がすべてを仕切っており、彼女は遣り手も兼ねている。正式な楼主であるお藤の亭主は、もう一軒廓を持っており、普段はここに来ることはない。
不機嫌そうな女主人に、廊下に集まっていた遊女たちは、さっと道を開けた。
「昼間っから何事だい。化け物でも出たような声を出して。これじゃあ昼寝もできやしないよ。小梅、新造披露目も近いんだからね、もう少し落ち着いておくれ。菊千代がなんだって」
お藤は菊千代の部屋へ入り――
ひっくり返った彼女の悲鳴が楼内に響き渡った。
※注1……この時代は階段とは言わず、段梯子、はしご段という言葉が使われていたようですが、わかりにくいためここでは階段と記述。
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